自由民権運動と オッペケペーと スパイ

川上音二郎のゆかりの地を訪ねるー1」の続きです。

 

博多ガイドの会」のまち歩きは、昭和通りの「石村萬盛堂をスタートして、川端商店街を抜けて「お櫛田さんに着いた。

  

 

 川端商店街側の南神門から境内に入り、櫛田神社本殿の後方を廻って「博多ねり塀」の前に出る。 ここの「博多ねり塀」は、中呉服町にあった豪商・嶋井宗室の屋敷から移築復元したもので、貴重な文化財だ。

 山笠小便小僧」の後ろに、石碑が建っている。 この石碑には、川上音二郎が妻・貞子の名と共に、対馬小路の宅地・建物を櫛田神社へ寄進したと刻まれている。

 

音二郎は東京で役者として成功したが、博多の父の商売は傾いていた。 音二郎は父を東京に呼び寄せ、空いた店を友人の石村善太郎に貸した。 石村善太郎は「石村萬盛堂」の「鶴乃子」で順調に販売を拡大し、本店を昭和通り(現在)に移すことになった。 音二郎は、この後、この建物と宅地を櫛田神社へ寄進したのだと思う。

 

10分ほど櫛田神社でトイレ休憩した。 

 北神門 から出て、「祇園山笠」のスタート地点となる標識板の前に来た。

 矢印が示す道路上の線が「追い山」のスタートラインとなり、ここから一番~八番山笠が掛け声と共に走り出す。「博多ガイドの会」のお話から、ハッと気が付いたことが・・・

 

今回の「まち歩き」をスタートした地点が、「追い山」の終点で「廻り止め(とめ)」となっていた。 ここは「山留め(とめ)」となっている。 スタート地点なので「廻り始め」でもいいのかな、なんて思うのだが・・・。「留め(とめ)」と「止め(とめ)」・・・深い意味がありそうな気もするが、ただ、あの大きな山笠が動き出す瞬間まで(エネルギー)を「留める」と表現した方が合っているような気もする。

 

 萬行寺 

萬行寺の境内は「博多っ子純情」の六平の遊び場でもあるが、ここが川上家の菩提寺である。音二郎の父が東京で亡くなった時、火葬をして萬行寺で葬儀を行おうとしたが、市長をはじめ、参列者があまりにも多かった為、東公園に仮の斎場を設けたそうだ。 音二郎の父のお墓は萬行寺にあるのだろうが、本人の墓はここには無い。 萬行寺は火葬の為、「死んでも熱いのは嫌だ」と遺言状に書いてあったとか・・・と言うことで、音二郎のお墓はこれから向かう承天寺にある。

 

国体道路を祇園交差点方向に歩き、途中の細い道を右に入る。

 内畑稲荷神社 

戦国時代の初め、博多は豊後の大友宗麟によって治められていた。宗麟の勇将・臼杵安房守は冷泉津に流れ込んでいた比恵川の流れを博多湾に流す工事を行った。新しい流れ(川)が石堂川となる。 元の比恵川は「房州堀」と呼ばれ、博多の町を護る環濠となった。 臼杵安房守が故郷の臼杵から御祭神を勧請して、この地で祭ったのが内畑稲荷神社 ➉ であり、今日まで地元の人々に信仰されて来た。 この辺りは旧博多駅前で、昭和30年代は沢山の旅館や飲食店が立ち並んでいた。

 

↓ 大博通りに出た。  初めの地図  の場所に「旧博多駅」があった。 駅前を通る緑点線(上段の地図)には、潟洲町方面から住吉方面に抜ける市内電車が走っていた。

 

                     昭和37年(1962年)頃に撮られた一枚の写真。 下が旧博多駅。

 明治22年(1889年)、九州で初めて博多~久留米(千歳川)間に鉄道が走った。 写真下は2代目の駅舎。 上は昭和38年(1963年)に開業した3代目駅舎。 現在は同場所で増改築した4代目となる。 

 

60年前の博多駅筑紫口には、ビルが一つも建っていない。 勿論、インターネットもスマホも無かった。 近年の近代化のスピードが如何に速いかが分かる。

 

明治39年(1906年)、全国の鉄道が国有化され線路がつながり、明治42年(1909年)、ルネサンス様式の上記2代目博多駅が完成している。 明治43年(1910年)、東公園に「博多座」が完成しているので、前後に、音二郎はこの2代目博多駅を何回か利用している筈だ。

しかし、博多座完成の翌年(明治44年=1911年11月11日)、音二郎は急性腹膜炎によって死去する。 享年48歳。 

 

明治10年(1877年)の西南戦争の時に14歳で家を出て以来、思いっきり明治時代を駆け抜け、充実した一生を終えた音二郎・・・。 

 

西南戦争が終わっても、政府に不満を持つ旧藩士や若者は多かった。 彼らのエネルギーは密かに湧き上がった「自由民権運動」に吸い寄せられた。 何の目的も持たずに家を出た音二郎は転々とバイトを重ねていたが、自由主義を求める運動に、水を得た魚のようにのめり込んで行った。 

 

福岡の政治結社「玄洋社」も、頭山 満板垣退助自由民権思想に感化されたことから始まった。 音二郎は「玄洋社」の運動にも係わったようであるが、板垣の「自由党」で活動を開始している。 当時、東京に拠点を移した「玄洋社」の頭山 満とは同郷ということから、話を聞いたり指導を受け、板垣を紹介してもらったのだろうと思われる。 

 

自由民権運動の実質的な活動家・運動員を「壮士(そうし)」と言う。 音二郎は自由党の壮士となって、反政府演説や新聞発行など積極的に活動したが、警察に何度も検挙された。 音二郎は自由民権主義を演劇の中のセリフで主張したらどうかと考え、素人の芸人を集め一座を率いて興行を始めた。 演劇を通しての自由民権運動は民衆に受け入れられた。

 

全くの素人が演劇の舞台興行を考える・・・これは博多の血が流れていないと無理ではないか。 博多にはポジティブな多くの祭りがあり、イベントや芸能が育つ独特の気風と文化が音二郎を目覚めさせたのだろうと思う。 「壮士(そうし)」が始めた演劇なので「壮士劇」と呼ばれた。 そんな中、世情を風刺した「オッペケペー節」の歌と踊りを発表すると、瞬く間に全国で大評判になった。

オッペケペー節

 

権利幸福嫌いな人に 自由湯をば飲ませたい

オッペケペ オッペケペ オッペケペッポーペッポッポー

堅い裃(かみしも)角取れて マンテルズボンに人力車

いきな束髪ボンネット 貴女や紳士のいでたちで

外部(うわべ)の飾りは よいけれど

政治の思想が欠乏だ 天地の真理がわからない

心に自由の種を蒔け

オッペケペ オッペケペッポーペッポッポー

 

どんな曲調で唄うのか、You-Tubeで聴いて下さい。

オッペケペー節  作:川上音二郎  唄:土取利行

 最近の音楽文化に詳しくはないが、これって、ヒップホップ ラップじゃないの?

 

明治27年(1894年)の日清戦争に勝利するすると、民権よりも国権が叫ばれるようになる。 自由民権運動は潮が引くように影を潜めた。 しかし「川上一座」は、新しいスタイルの演劇として益々人気を得た。 この頃、福岡県出身の金子堅太郎と知り合っている。 金子堅太郎はハーバード大学に学び、大日本帝国憲法の起草に係わった人物で、伊藤博文からの信頼が厚い。 伊藤博文の囲われ者のナンバーワン芸者が貞奴(さだやっこ=小山 貞子)だった。 音二郎は30歳の時(明治27年)、金子堅太郎の媒酌で、貞奴と結婚している。 運命とは言え、これって出来過ぎていません? 出来過ぎと思われる話が、この後も続きます。 そのことは後ほど・・・。

 

旧博多駅から承天寺山笠清道旗が立つ山門から境内を横切り、承天寺通りに出る。

承天寺通り

聖一国師の開山で有名な承天寺の石庭「洗濤庭(せんとうてい)」の中を通って墓地に向かう。

大博通りの喧騒と洗濤庭この静寂・・・僅か数百mの距離なのに、驚きです。

 

 普段は入れない墓所の中を進んで、東側の一番奥の一際背の高い墓石の前に来た。

 ⑬ の場所を、初めの地図で確認いただきたい。 旧博多駅があった時代、⑬ の横を鹿児島本線が走っていた。 墓石の場所は、「汽車が眺められる場所に葬って」との音二郎の遺言によるとのこと。 ただ「汽車を眺めたい」ではなく、「夢を膨らませ、汽車に乗って東京に出る若き芸能人達を、この場所から応援して見送りたい」・・・そんな気持ちだったらしい。 東京行の汽車が良く見えるように、墓石の背丈も高くしたそうだ。 音二郎の願いが適って、多くの芸能人が福岡県から巣立った。 墓石の前で手を合わせて来た。

 

貞奴と結婚式を挙げる前年、音二郎は二ヶ月に渡ってフランスパリの演劇事情を視察している。 日清戦争が始まると、川上一座は政府のお墨付きで「壮絶快絶日清戦争」を劇場で演じた。舞台で戦争場面を演じるので、ハチャメチャだったらしい。 これが国民に受けたので、歌舞伎の市川團十郎は激怒したと言う。

川上一座の「壮絶快絶日清戦争」

 

明治33年(1900年)、川上一座はロンドン・パリなどヨーロッパ各地へ巡業した。 貞奴も同行し、音二郎の演劇と共に日本舞踏を披露した。 欧州では日本の浮世絵が高い評価を得ていた。 美人芸者による舞踏は欧州人のエキゾチシズムを掻き立て、あたかも動く浮世絵を鑑賞するがごとく、画家(ピカソ)や彫刻家(ロダン)らをも魅了した。 あっと言う間に、ヨーロッパ中で人気を博した。 帰国後も多くの劇場公演をこなし、後進の女優を育成するために、「帝国女優養成所」を創設している。 日本に於ける近代女優第一号です。

 

 ヨーロッパにて撮影。 美しい! パリの紳士が胸キュンになったのが解る。

 

川上音二郎は明治政府のスパイだったのではないか?

福岡出身川上音二郎が稀に見る優秀な演劇家だったことは間違いない。 でも、僕が前に思ったように、彼の出世は余りにも出来過ぎではないか・・・極端な仮説で、既に他界している御本人にも申し訳ないが、次のような点が気になっている。

 

明治政府日清戦争後の三国干渉で朝鮮半島に迫るロシアの動きが気になっていて、欧州内での諜報活動を強化していた。

 

 欧米でロシアの動きを探るためには専門の工作員・諜報員(スパイ)の他に、演劇団に紛れていれば、悟られずに各国で活動できるのではないか。  伊藤博文は人気が出て来た音二郎に目を付け、寵愛していた芸子の貞奴を紹介して夫婦関係にした。  連絡係・面倒見役を福岡同郷の金子堅太郎に命じた。 金子は二人の媒酌人となった。  玄洋社頭山満も政府からの要望によって、同郷の音二郎を見守っていたかもしれない。 玄洋社もロシアに工作員を派遣している。  音二郎は結婚前年にパリに演劇事情の視察に行っているが、個人で旅費の工面はできたのだろうか? 政府から資金提供を受けて、別の目的も命じられていたのかも・・・。帰りは軍艦で帰国している。  「壮絶快絶日清戦争」の劇場公開は、日露戦争を想定した国民の戦争意識高揚を狙った明治政府のプロパガンダではなかったか。  川上一座のヨーロッパ公演の大成功を現地で支援したのは、当時フランス駐在公使の栗野慎一郎。 彼も福岡県出身で金子堅太郎の友人でもあった。 金子からの依頼で、音二郎の諜報活動を援助・警護していたのかもしれない。  当時、ロシア・パリを中心に明石元二郎(陸軍軍人)が諜報活動で飛び回っていた。 栗野慎一郎とは勿論、音二郎とも現地で会っていたとの記録がある。 おそらく情報を交換していたのだと思われる。 何と明石も福岡出身である。

 

こんな事柄から、音二郎明治政府から隠密諜報員を任じられていた、と個人的な浪漫として思っている。 もしかしたら、貞奴との結婚は伊藤博文が仕組んだ戦略結婚だったのかも?・・・いや、二人の仲睦まじい写真を見ると、それはないとも思うが…どうなんでしょう。

 

明治37年(1904年)の日露戦争に勝利する。 これは諜報活動による勝利だとされている・・・であれば福岡県勢の連携と活躍も大きかった。 

頭山満=玄洋社総帥  金子堅太郎=内閣総理大臣秘書官  

栗野慎一郎=外交官(初代駐フランス全権大使)  明石元二郎=陸軍軍人(後に台湾総督)

そして川上音二郎

 

アメリカ留学中の福岡県(藩)出身者

(左から団琢磨=三井財閥総帥、金子堅太郎栗野慎一郎、ボストンにて)

 

 音二郎の墓参りを済ませ、本堂(方丈)に上がって、洗濤庭(せんとうてい)」を鑑賞。

 白砂の紋は玄界灘(日本海)の波を表し、手前の本堂が日本、奥の苔庭は中国大陸と見做している。 と言うことは二つの岩は対馬壱岐になる。 島に打ち寄せる波の表現が素敵である。 この洗濤庭」に佇むと、日本と大陸の歴史が静かに流れる。 そう言えば、対馬沖では日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日露戦争に勝利をもたらした。

 

そのロシアは現在ウクライナと戦争中だ。 本堂のお釈迦様もお墓の中の音二郎も世界の平和を願っている。

 

川上音二郎のゆかりの地を訪ねる」町歩きは、ここで解散です。「博多ガイドの会」のスタッフの皆さん、お疲れ様です。有難うございました。

 

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