福岡藩のラストサムライ
「頭山満 と 玄洋社 ④ 雲従龍 風従虎」 の続きです。
明治20年(1887年)、玄洋社は事務所を福岡本町(赤坂1丁目)から西職人町(中央区舞鶴2丁目)に移した。 博多湾を望める松林の中で、木造2階建てで1階27坪 2階5坪の小さな社屋だった。
舞鶴2丁目の玄洋社社屋 (頭山満伝より)
ここで玄洋社の社員は日本の将来を語り合った。 この頃、アジア諸国に対する欧米列強の植民地化が活発になって来ていた。
■ 箱田六輔
第1回帝国議会の開催が近づいて来ると、玄洋社でも議論が膨らみ始め、玄洋社三憲則(尊皇 愛国 民権)の中でも「愛国(国権)と民権」が大きく議論の中心になって来た。 この頃の玄洋社社長だった箱田六輔は「幕末・維新の混乱から国民の不安は未だ収まっていない。 国権よりも民権の確立を優先すべき」と説いた。 頭山は「愛国(国権)と民権」は交互に進められる。 但し、欧米列強との不平等条約改定も進まないまま、隣国まで列強の脅威が押し寄せている現状では、そのことに早急に対処すべき」と反論した。 玄洋社の中は民権派と国権派に分かれた。
頭山満
箱田六輔
明治21年(1888年)、箱田六輔は自宅で死んだ。 公には病死と発表されている。 「頭山満伝(井川聡著)」によると切腹自刃だったようだ。 このとき箱田は考えた・・・「時代の変化と共に玄洋社にも転機が訪れた。 今、民権派と国権派に分かれて、社員が動揺している。 頭山は一度口にした信念は絶対に曲げない男だ。 自分は玄洋社社長として、民権活動を共にしている全国の民権結社を裏切る訳にもいかない。 しかし、玄洋社を分裂倒壊させることも出来ない」。 箱田は自ら自刃を決めたのだろう。 現在の我々からすると、時代感覚的には、この状況で切腹とは理解し難い。 でも幕末維新から未だ20年しか経っていない・・・彼も福岡藩の武士だったのだ。 玄洋社の将来を想い、いさぎよく自刃した。 享年37歳。 頭山満は箱田六輔の死については、何も語ってはいない。 ただ、頭山は残った箱田家を孫世代まで見守り続けていた。
福岡市中央区舞鶴2丁目にあった玄洋社屋の跡には、現在、「ドコモ=docomo」のビルが建っている。 その一角に「玄洋社跡碑」がある。
碑の裏面には、「明治・大正・昭和の激動する世界の中にあって、日本の独立を守り、アジアの開放を目指して活躍した玄洋社は、明治12年から昭和21年の解散まで、67年にわたり、この地を本拠地として活動を続けた」と刻まれていた。 しかし、箱田六輔が最後まで守り通した民権運動が、玄洋社の始まりであったことを忘れてはいけない。 平成9年に建立されたこの碑には、そのことが書かれていない。 頭山満が知ったら「箱田六輔に申し訳ない」と、怒るに違いない。
■ 福陵新聞=九州日報
頭山満は肩書が嫌いで、社長職などは一回も受けなかった、とされているが一回だけある。 当時福岡には民権運動を支持する「福岡日日新聞」があった。 国権運動を広める新聞が必要だ。 明治20年(1887年)、頭山は国権派の新聞・「福陵新聞(ふくりょうしんぶん)」の創刊を決めたが、急いでいたので人事が追い付かず、自らが社長に就いた。 紙面を通して、欧米列強と交わした不平等条約やアジアの情勢について、福岡県民に詳しく伝えた。 「福岡日日新聞」と「福陵新聞」は、紙面で良い意味での論戦を交わした。
明治31年(1898年)、「福陵新聞」は「九州日報」と改称した。 それからかなり後の昭和17年(1942年)、政府による「新聞統制」によって「九州日報」と「福岡日日新聞」は合併し、「西日本新聞」となり現在に至る。 「新聞統制」とは・・・国政を握っていた軍部が戦争情勢の発表を統制するため、全国の新聞社を一社に統合しろと命令。 各社の反対に、結果「一県一紙」に決まった。 軍部はミッドウェー海戦後の戦況不利の発表を偽りたかったのかな・・・。 この年、頭山満はすでに87歳。 昭和になって、暴走し過ぎてしまった軍部に何を思っていたのだろう。
頭山満が説く「国権=国家主義」とは、玄洋社三憲則(尊皇 愛国 民権)の中では「尊皇と愛国」になる。 頭山にとっては、これは西郷や幕末の志士が掲げていた「尊皇攘夷」と何ら変わりはない。 天皇を尊び、国を愛し、国を守るためには列強諸国と対等の立場を確立しなければならない。 ここまでは何とか日本の植民地化を防いできたが、欧・ロの帝国主義国は隣国の清国・朝鮮国まで侵略し始めた。 まずは、朝鮮・清国と手を組み、連合して東アジアを守らなくてはならない。
■ アジア諸国の自立運動
頭山満は、福岡の玄洋社を社長の進藤喜平太に任せ、自身は東京に活動拠点を移した。 彼は朝鮮国に自立を促す使節を派遣して、両国の団結を求めたが朝鮮国は頑なに拒んでいた。 政府内では再び征韓論が囁き始められていたが、頭山は反対した。 この頃、朝鮮国内に一人の革命家がいた。 開花党の金 玉均(きん ぎょくきん)と言う。
金 玉均
金は欧州列強の脅威もさることながら、清国が朝鮮国を属国として振る舞うことを屈辱と感じていた。 自立することが先だ。 玄洋社は密かに金を支援していた。 金はクーデターを起こしたが守旧派が要請した清国軍に敗れた。 金は仁川から船で長崎に着き、日本に亡命した。 日本政府は朝鮮国から金の身柄引き渡しを要求されたが、玄洋社は彼を匿い援助した。
清国で辛亥革命を起こした孫文と頭山満(玄洋社)との関りは「頭山満と玄洋社 ①」で触れた。 頭山満のアジア諸国に於ける欧州列強からの自立支援は朝鮮、清国のみではない。 エチオピアの独立を助けようともした。 インドの独立運動を主導したラス・ビハリ・ボースは、英国軍から逃れて日本に亡命して来た。 いまや国民食となった「カレーライス」を日本に広めた人物だ。
ラス・ビハリ・ボース
日本政府は彼を国外退去と決定するが、頭山満はラス・ビハリ・ボースを政府には内密に匿った。 フィリピンではアメリカからの独立を企てた革命家・アギナルドへ玄洋社は武器を送って支援した。 あくまでも独立を支援する武器供与だったが、アメリカは戦後そのようには理解しなかった。 先の日露戦争も朝鮮半島を守るために開戦したのだが、玄洋社はロシア国内を混乱させるために工作員を派遣している。 初めは純粋な国権主義からスタートした玄洋社も、大陸の状況が厳しくなると徐々に過激になったのだろうか。 GHQが玄洋社に解散を命じたのは、そんな見方もあったのかも・・・。
明治27年(1894年)、ロシアの南下政策に朝鮮国を守ろうとする日本と、朝鮮国を属国とする清国が日本の進出を嫌って戦ったのが日清戦争。 これに勝利した日本は台湾を統治するなど、軍部が力を持ち始める。 日露戦争(明治38年・1905年)にも勝利した日本は、アジアで初めて欧州列強に勝った国となった。 ある意味では列強と対等の立場を勝ち得たと言うことで、玄洋社の目的(国権)の一つが適ったとも言える。 この後、玄洋社が応援した孫文の辛亥革命が成功した時点で、各国がまとまれば本当の意味での「大アジア構想」が成功していたのかもしれない。
しかし、清国はまだまだバラバラだったし、日本は昭和になって、軍部が強硬して満州国を建国したことで、玄洋社と友好関係にあった蒋介石とも関係が疎遠になった。 そして、昭和12年(1937年)、日中戦争へと突入した。 アメリカとの関係も悪化するなか、昭和16年(1941年)、軍部は中国に和平交渉を試みた。 蒋介石から「頭山満が来るんだったら上海で会っても良い」との連絡がきたが、東条英機の反対によって潰れてしまう。 この年の12月8日、日本は真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入してしまった。
蒋介石
頭山満が蒋介石と会っていたら、どうなったかは分からない。 でもこの時点で、日本人で和平交渉に臨める人間は頭山満ただ一人だったのだろう。 これは蒋介石が頭山満を日本人として、心から信頼してしていた証ではないか。 蒋介石は頭山の武士道精神の「魂」が一寸もブレていないことを確信していた。 もしかしたら~は、本当になっていたかもしれない。 でも、 もしかしたら~は言ってはいけない。
戦後のGHQ(連合国総司令部)は、玄洋社を「超国家主義的団体」、「極右翼団体」とし、「戦後の世界秩序を乱す」として解散させた。 敗戦国なので止むを得ないのかもしれない。 しかし戦後76年の現在、日・中・韓の関係は、お互いに余りにもみっともないのではないか。 これはGHQが多くの事実を隠してしまったことも理由の一つなのだろう。 玄洋社の大半の活動は「アジアの平和」を願ったものだった。 今からでも、日・中・韓の三国がお互いに良いも悪いも事実を出し合い、以徳報怨(徳を以って怨みに報じる)の誠心で話し合えば、新しい一歩を踏み出すことも出来そうな気がする。
右翼・左翼の定義が良く解らない。 大まかに、「現状を維持しようとする派」を右翼、「新しい状況を志向しようとする派」を左翼とするならば、玄洋社はどちらにも当てはまる。 頭山満の考えを代弁すれば・・・天皇は皇帝でも国王でもない。 「尊皇」とは日本にしかない高貴な精神で、古来より培ってきた日本独自の「魂」と言える。 武士道精神はその「魂」の中にある。 よって頭山満の国家主義に沿った行動・活動は、その武士道精神に乗っかったものであり、それ以上の何ものでもなかった。
■ ラストサムライ
GHQにこの日本独自の武士道精神(魂)を理解してもらうのは難しい。 欧米人に少しでも武士道精神を解ってもらうには、トム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」を観てもらうと良い。 渡辺 謙演じるラストサムライが、戦いで息を引き取る際の最後の言葉「Perfect!パーフェクト!」・・・この完全燃焼した純粋な一言に凝縮されている。 このラストサムライは「西南の役」の西郷隆盛をモデルにしていると思う。 でも、本当のラストサムライは、鹿児島の西郷どんの意志を引き継いで、植民地化されないように日本を守ろうとした福岡の頭山満と玄洋社のメンバーのような気がする。
ラストサムライ 頭山 満
高場 乱
最後に触れておきたいのは、興志塾(人参畑塾)の高場 乱(たかばおさむ)だ。 乙丑の変(いっちゅうのへん)で優秀な人材を失った福岡藩は明治維新の船に乗り遅れた。 しかし、明治から昭和にかけて、その遅れを取り戻すかのように玄洋社が生まれ、その玄洋社の流れから多くの政治家や実業家が活躍した。 その人材輩出の根っ子が高場 乱の興志塾であることは間違いない。 高場 乱の名前も世に知られていないが、長州萩・松下村塾の吉田松陰に勝るとも劣らない教育者だったと思う。 そのことは勝海舟が認めている。 彼(彼女)も歴史の埋もれの中から引き上げたい人物だ。. 「乱」の文字には「おさめる」意味がある。 つまり、「乱を収める」。 明治24年(1891年)3月に没した。 享年60歳。
↓ 千代町に黒田家の菩提寺・崇福寺がある。 山門は福岡城本丸御門を移築したものだ。
崇福寺山門
崇福寺の境内を進むと、一番奥に墓地に通じる入り口がある。 右に曲がるとその先に、黒田如水公や長政公らが眠る黒田家墓地がある。 ↓ 左に曲がって暫く進むと「玄洋社墓地」がある。
↑ 玄洋社墓地の中で、頭山満墓碑の横に高場乱の墓碑が並ぶ。 お互いに安心するのだろう。 平尾霊園にある「福岡の変(西南の役連座)」による戦死者を慰霊する「魂」の碑も、以前はここに立っていた。
頭山 満 墓碑
高場 乱 墓碑
↓ 「高場先生之墓」の文字は、あの勝 海舟が書いている。
↓ 平岡浩太郎は明治39年(1906年)心臓を病み逝った。 享年56歳。 広田弘毅と一緒に、聖福寺に眠っている。
平岡浩太郎
聖福寺入り口左横
平岡浩太郎の墓には、孫文(中華民国臨時総統)が辛亥革命後にお参りに来ている。
孫文
↓ 頭山満の書を何度も見ていると、何となく読めるようになってくる ???。
「立雲」 頭山満の号
「頭山満と玄洋社」 完
いつの日にか機会があれば「頭山満と玄洋社 余話」を書きたいと思う。
* 参考・引用 「頭山満伝」 井川聡 著、 「福岡博覧」(海鳥社) 、
「高校 日本史 B」(山川出版社)、 ウィキペディア 他
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