雲は龍に従い、風は虎に従う 

頭山満 と 玄洋社 ① 以徳報怨

頭山満 と 玄洋社 ② クスノキと人参畑

頭山満 と 玄洋社 ③ 敬天愛人 」  

から続く。    

 

明治10年(1877年)の西南の役に連座した旧福岡藩士の反乱(福岡の変)によって、興志塾(こうしじゅく)の塾生からも多くの死者を出した。 生き残った頭山 満(とうやまみつる)らは悲しみと失意の中にいたが、次の日本国のために何をすべきかを模索していた。 頭山 満は師匠・高場 乱(たかばおさむ)から「お前は西郷先生から生かされた。 お前の天命は次の日本をつくることだ」と言われた。 

                      頭山満

西郷どんと同じく征韓論で敗れ、土佐(高知)に下野していた板垣退助(いたがきたいすけ)も、その新しい何かを考えていた。 「薩長による藩閥政府を倒すには銃剣では無理だ、我々も参政権を得て国会開設を実現し政治に参加するんだ」、と・・・これが自由民権運動の走りとなった。 この話を聞いた頭山 満は、直ぐに土佐(高知)に向かった。

                板垣退助                               

 鹿児島に向かった時と同様、三田尻港~松山港の船利用以外は全て徒歩だった。 頭山 満は脚力には自信があった。 板垣退助は福岡から来た頭山に説いた。 「今の日本が近代国家として、これから先に進むには、憲法を制定して国会開設を実現しなければならない。 そして、武力より民権による言論で戦うべきである」、と。  頭山は「これだ!」と叫んだ。 その目が輝いていた。 板垣退助41歳、頭山満23歳の時であった。

 

頭山は福岡に帰って来て動き始めた。 頭山 満は、興志塾(こうしじゅく)の仲間である平岡浩太郎箱田六輔進藤喜平太らと現在の赤坂1丁目に、民権結社「向陽社(こうようしゃ)」を立ち上げた。 向陽社板垣退助が創設した「愛国社」と連携をとりながら、地元では演説会を開いて、自由民権思想の普及を図った。 明治13年(1880年)、「向陽社」は「玄洋社(げんようしゃ)」と名を変えた。 「玄洋」とは、福岡から玄界灘を越えて世界に漕ぎ出す力を意味している。 平岡浩太郎が「玄洋社」の初代社長に就いた。 

                   平岡浩太郎

平岡浩太郎戊辰戦争に従軍した時から西郷隆盛に憧れ、西南の役では一早く興志塾から西郷軍に駆けつけている。 平岡浩太郎は勿論だが、頭山満玄洋社を突き動かしているのは、西郷どんを想う熱い情熱だった。 平岡浩太郎を中心に全国の民権結社と共に「国会開設」を呼びかけた。  「玄洋社」は各地で立ちあがった民権結社のなかでは一番活気がある、と板垣退助が褒めた。 

                  箱田六輔

平岡浩太郎頭山満より5歳年上、箱田六輔は頭山より4歳年上で・・・二人は性格は違ったが、志を大きく持って根性も座っていた。 箱田の家は黒田藩士の時からの資産家だった。 財政難に苦しむ玄洋社を箱田の個人資産が支えていたこともあって、二人はライバル意識を燃やしていた。 良い意味で激論を交わすが、感情が高ぶることも多かった。 その時には年下の頭山満が間に入って二人をなだめた。 それでも収まらない時は、人参畑塾の師匠・高場乱(たかばおさむ)の出番となる。 師匠の前では、二人は猫のように大人しくなったと言う。

                     高場乱

 

明治14年の暮れ、明治政府は突然に「十年以内の憲法制定国会開設」を発表した。 これは、活発化する人権結社の動きに対して、政府が先手を打って戦意を失わせようとしたのではないか、と見られている。 しかし、政府は民権結社の活動を更に厳しく取り締まった。 幾つかの民権結社は国会開設を見据えて政党結成の動きをみせた。 玄洋社板垣退助の「自由党」、大隈重信の「改進党」から誘いを受けたが、政党結成には動かなかった。

 

玄洋社が掲げた社則がある。

第一条 皇室を敬すべし

第二条 本国を愛重すべし

第三条 人民の主権を固守すべし

この三つの想いを全員で共有していれば、政党結成に動く必要はないと考えた。

 

政府の「憲法制定国会開設」の発表と同時に、社長の平岡浩太郎玄洋社を去った。 平岡は西南の役で西郷軍に加わり、軍資金の不足が敗戦を招いたことを目の当たりに見ている。 玄洋社の運営を箱田六輔の私財に頼りながら、社長の席に居座ることに耐えられなかった。 頭山満は平岡の性格と心の内を良く知っていたので、説得することはしなかった。 玄洋社を去った後、金銭に貧窮していた平岡を頭山は皆に隠れて援助していたという。 

 

その後、平岡浩太郎は色んな事業に失敗し続けながらも、明治22年(1889年)、安川敬一郎と興した筑豊の炭鉱経営の成功で実業家の道を歩む。 現在の新日鉄住金、若築建設、安川電機、西日本新聞社、JR九州などの創業時の役員には平岡の名前が見える。

                 安川敬一郎

 安川敬一郎も実業家として成功すると、平岡浩太郎の影響なのか、孫文を応援するなど玄洋社の社員として活動を大きく支えた。

 黒崎の「安川電機歴史館」内に掛かっている扁額。 孫文から感謝として贈られた。

孫文辛亥革命が完全な形で成功していたならば、頭山満と共に平和な大アジアワールドを創っていたかもしれない。 いかん、いかん・・・~ならば、は言っちゃダメだね!

 

平岡浩太郎は、明治33年(1900年)度の福岡県高額納税者のトップになっている。 そして、平岡は終生に渡って玄洋社に係わった。 その後の玄洋社の活動は、頭山の東京での活動資金、アジア諸国の革命・独立運動の支援、人材育成など等・・・平岡の豊富な財力で支えられていた。 平岡浩太郎を外して頭山満玄洋社も語れない。 うっちゃんは思う・・・事業に成功してからの平岡浩太郎は、頭山満と言う男を西郷隆盛に重ねて見ていたのではないだろうか。

 

明治4年(1871年)の廃藩置県で藩校の修猷館は廃止されたままになっていた。 玄洋社(向陽社)は将来の福岡・日本を支える人材を育成する目的で、新しく塾(学校)を併設開校した。 名を「向陽義塾(こうようぎじゅく)」と言う。 儒学・漢学は人参畑塾の師匠・高場乱にお願いしたほかに、外国人教師らを招き法律や医学・語学などの実学を中心として集まって来た若者に教えた。 「向陽義塾」の名は知れ渡り、100名を超える塾生が集まった。 その後、旧黒田藩11代藩主・黒田長溥(ながひろ)も財政援助することとなり、名前も「中学修猷館」となり、現在の修猷館高校へとつながって行く。 中学修猷館からは玄洋社との関りが深い政治家・広田弘毅、中野正剛らが育って行った。

 

頭山満には物質的な欲望や社会的地位には全く関心が無かった。 玄洋社の社長椅子も頑なに拒んできた。 明治23年(1890年)、大日本帝国憲法発布による第1回衆院議員選挙が行われるに当たって、周りから立候補を薦められたが、「俺の性格、たいがいに解ってくんやい」と言って、受け付けなかった。 頭山は福岡県9議席に玄洋社直系の3人を立候補させ、3人とも当選させた。 頭山は優秀な人材が、福岡の玄洋社から国家の仕事に飛び立って行くことに異常なほどの喜びを感じていた。 それは幕末の「乙丑の変」、明治10年の「福岡の変」で多くの人材が失われたことに対する反動の喜びでなかったか。 

 

                                       頭山 満

 

 雲従龍(うんじゅうりゅう) 風従虎(ふうじゅうこ)    

玄洋社の人材育成は頭山 満と5歳年長の進藤喜平太が中心に担っていた。 頭山の活動が東京中心になってからは、進藤が玄洋社社長として福岡で一人奮闘した。 頭山と進藤による人材育成の神髄は儒教にあるような気がする。 人参畑塾の師匠・高場乱(たかばおさむ)から学んだ「君子たる者とは~」の教えが根幹にあるのではないか・・・。 あまり知られていないが、頭山満揮毫の書が糟屋郡久山町にある。

 

久山町はうっちゃんが住む東区青葉(香椎)の隣町なので、月に何回も訪ねる。 久山町猪野に、1,800年の歴史を持つと伝えられる神功皇后ゆかりの伊野天照皇大神宮(いのてんしょうこうだいじんぐう)が鎮座している。 天照(てんしょう)とは天照大神(あまてらすおおかみ)で皇大神宮とは伊勢神宮のことです。 三代藩主・黒田光之公は当時の神主・宮大工を伊勢神宮に派遣し、本殿から鳥居に至るまで伊勢神宮に模して建立した。 ここは九州の伊勢神宮になる。

伊野天照皇大神宮」  うっちゃんのブログ

 

              伊野天照皇大神宮 参道石段

                  拝殿内

 拝殿正面と左側に緑色文字の扁額が掛かっている。 正面の額が頭山満、緑色文字の額が進藤一馬(進藤喜平太の四男)の揮毫となる。  

 

↓ 正面・・・幾度となく頭山満の文字を見ていると、特徴のようなものが分かってくる。 それでも三文字とも読めない。  右から「雲・従・龍」と書かれている。

雲・従・龍」は中国に伝えられた文言の一つで、本来は雲従龍(うんじゅうりゅう) 風従虎(ふうじゅうこ)であり、 「雲は龍に従い、風は虎に従う」と読む。 頭山満はこの言葉を人材育成(教育)の根幹にしたんだろうと思う。 

 

何となく状況場面は想像できるが、どんな意味なのか・・・。 

 龍が天に上る時には雲が起こり、虎が疾走すると風が起こるように・・・天子に徳があれば、民は天子を仰ぎ見て従う。  優れた君主(龍・虎)のもとには、優れた臣下(雲・風)が現れる。

 龍は雲が従うことによって大きさと勢いを増し、虎は風が従うことによって速さと威を増す。 物事は気心が知れた者どうし、似た者どうしが一緒になることによって、気運が高まりうまく進むものだ。 頭山満は、この二つのたとえを、人材育成の上で次の様に解釈したのだろう。

 

の天子や君主を天皇とはみていけない。 天皇は尊ぶ存在で徳を求める存在ではない。 玄洋社は「憲法を制定して国会開設の実現」に向けて進んで来た。 とすれば、天子・君主とは国家・政府と捉え・・・国家・政府を優秀な人材で動かせば、国民も喜んでそれに従い、平和な国家が築ける。

は「」または共通の目的を持った人材が集まれば強くて優秀な組織が生まれ、国を危うくする困難にも立ち向かう事が出来る。

 

頭山満は自身を龍や虎だとは思っていないので、彼の「雲・従・龍」とは国家の中で国民の為に真に働く人材の育成と考えられる。 「向陽義塾」の設立には、「興志塾(人参畑塾)」と西郷どんの「私学校」を重ねた想いがあったのだろう。 拝殿の前で、頭山満が書いた「雲・従・龍」の文字を眺め、意味を噛み締めていると、彼が想い描いた「」が見えてきそうである。

 

↓ 左側の「清徳」の文字は進藤一馬の書と彫られている。  進藤一馬は明治37年(1904年)、玄洋社創立者の一人である進藤喜平太の4男に生まれた。 父と同じく玄洋社で活躍し、GHQ解散命令時における玄洋社最後の社長となった。 広田弘毅と同じく戦犯としてGHQに逮捕されるが、進藤は釈放された。 処刑された広田は裁判中、仲間に危害が及ばないように沈黙を貫いた、と言われている。 進藤一馬は戦後、昭和47年(1972年)から4期に渡り福岡市長を務めた。

 進藤一馬は「清徳」の文字で「心が清らかで立派な品性による行動」を広田弘毅に重ね、人材育成の指針とした自らの想いを表したのではないだろうか。 進藤は修猷館ではなく、福岡高校(中学)出身である。

                                      進藤一馬

 

明治23年(1890年)、第1回の帝国議会が開かれる頃から世の中の様子が変わり始めた。 日本国内の問題もしかりだが、アジア諸国に対する欧米列強の進出活動が活発になって来た。 日本にとっては、とりわけ朝鮮半島と中国大陸への列強干渉は見過ごせない状況になって来ている。 帝国議会では民権を優先するのか、国権を優先するのか激論が交わされた。

 

国権民権を同時に議論すると矛盾がでてくる。 玄洋社が掲げた三則は皇室の尊重愛国民権固守だったので、玄洋社はに従い同時に両方を目指した・・・が、頭山はこの時、西郷どんの想いを思い出した・・・「朝鮮国・清国が危うくなると、日本にも影響が出てくる」。 頭山満の頭の中では、「国権が危うくなれば民権を守れない」として、初めて、「アジア主義」の考えが渦巻いて来た。 この頃から、「玄洋社」は民権結社ではなく国権政治結社と呼ばれるように変わり始める。

 

頭山満と玄洋社 ⑤  ラストサムライ」に続く。

 

* 人物画像はパブリックドメイン確認済。

* 参考・引用文献 : 「頭山満伝」井川聡著  、  ウィキペディ

 

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