海峡の真ん中で、対馬が果たしてきた役割

日本と韓国(朝鮮半島) ① 侵略」の続き。

日本の国土はどうやって出現したか?  『古事記』の建国神話によると、イザナギイザナミ御陰の目合(みとのまぐあい)=陰部の交わり・・・つまり、セックスをしたら、淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州の八つの島が生成されたとある。 校歌や応援歌で良く歌われる「大八島国=おおやしまのくに)である。  『日本書紀』の国産み神話にも、同じ八つの島が書かれている。

日本は数千の島々から成っているのに・・・何故、大八島の中に、対馬と壱岐が入っているのか? 古代より対馬と壱岐は、日本にとって朝鮮半島・大陸を結ぶ要衝になっていて、中国の史書『魏志倭人伝』には既にその名が登場している。  『記紀』の編纂が始まったのは、7世紀後半。 『日本書紀』は海外(中国・朝鮮半島)で読まれることをも想定していたので、重要な日本国土として、対馬と壱岐を加える必要があった。 

 

『魏志倭人伝』には、「朝鮮半島を南下して、狗邪韓国から初めて大海を渡り、対馬に至る。 長官を卑狗(ひこ)と言い、副官を卑奴母離(ひなもり)と言う。 人々が住んでいる所は、孤島で山が険しく、深林も多い。 獣道のような道がある。  人口は千戸余りで、良い畑がなくて、人々は海産物を食べて生活している。  船で南北に乗り出し、交易を行っている。 また、大海を渡ると壱岐に至る」と書かれている。

 

卑奴母離(ひなもり)」とは、日本書紀』での「夷守(ひなもり)」=糟屋の日守であり、後の「防人(さきもり)」だと言われている。  壱岐国、奴国、不弥国にも配置されていて、外敵に対する警護団の隊長のような称号らしい。 少なくとも、邪馬台国の時代は、連合国家として国土を守る意識と組織が存在していたことになる。  「船で南北に乗り出し、交易を行っている」・・・「南北」とは朝鮮半島と日本本土のことである。 山が険しく、良い田が無いことから、人々は交易によって生活を成り立たせていた。

 

朝鮮半島と日本本土の中間地点に位置することから、ヤマト政庁時代の対馬の交易は中間交易だった。 つまり、双方の中継・仲介役を大きく担っていたのだろう。 役人や交易担当者は朝鮮語日本語の両方を流暢に話していたと思われる。 そのことによって、独特の世渡り術と言うか、交渉力と言うか・・・加えて、双方から得た情報を上手くコントロールしながら・・・他の地域とは異なる特別な存在に成立して行ったと考えられる。   特別な存在とは、日本国にとっても朝鮮国にとっても重要で大切な位置付けになったと言うことである。 その意味で、遣唐使船遣新羅使船が航行する文化交流の要衝になった。 また逆に、元寇の役文禄・慶長の役など、戦が始まる時には厳しい最前線にも晒された。  対馬の領主と島民にとって、双方の友好と善隣関係が保たれていることが、存続の絶対条件だった。 その為には、どんな苦労も惜しまなかった。 

 

鎌倉時代、関東から島津氏(薩摩)、大友氏(豊後)、武藤氏(筑前)が、守護職として九州に送り込まれた。 武藤氏は大宰府政庁の「少弐(次官)」に任じられたので、少弐を姓に用いた。  少弐氏は大宰府警護官だった役人を、対馬の代官として派遣した。 それが、対馬藩の(そう)氏のルーツ)である。(血筋の主流は繋がっていない)  室町時代、宗氏は朝鮮半島が困っていた倭寇対策に奔走し、その努力を認められ、李氏朝鮮国から貿易の権利を独占的に与えられていた。 日本国内(室町幕府)においても、対朝鮮外交の窓口として、存在力が拡大して行ったのです。

 

 

日本は、やがて戦国時代に入り国が乱れますが、秀吉が九州を平定し、いよいよ平和が訪れる・・・かと思われた時、彼は無謀な明国(中国)への侵攻を考えていた。 徳川家康・前田利家・黒田官兵衛・茶人の千 利休(せんのりきゅう)らは反対した。 秀吉を支えてきた武将たちも反対の気持ちを持つ者が多かったが、口に出す者は少なかった。  しかし、クリスチャンで肥後南部の領主・小西行長と対馬領主・ 宗 義智(そう よしとし)は、秀吉の面前で反対の意見を言った。  対馬の 宗 義智は焦っていた。 朝鮮半島と戦争になれば、貿易体制も崩れ対馬の経済と島民の生活が危うくなる。  宗 義智は小西行長の娘(宗 マリア)を正室としているので、行長は義父になる。 その関係から、行長が朝鮮侵攻を反対しているのではない。 行長は、秀吉がやっと戦乱を収めた今こそ、国内の経済と体制を整えることを優先すべき、と意見していたのである。 

                                                 豊臣秀吉  (名護屋城博物館)

秀吉は天下統一を果たした頃から性格が変わり、暴走的行為が多くなり、誰の意見も聞かなくなっていた。 九州を平定した秀吉は、次に朝鮮半島を属国にし、明国を攻めようとしている。 「李朝鮮国王が秀吉に服属し、明国攻めの先導をすること。 また、朝貢の使者を送らせること」の要求を伝えるべく、対馬の宗 義智にその命が来た。 李朝鮮国王がそんな要求を受ける筈がない。 宗 義智は考え悩んだ末、策を練り、漢城(ソウル)に向かった。

 

                           宗 義智        (対馬 万松院 蔵)

 

宗 義智は李朝鮮国王に、秀吉の服属要求の話は伏せて、秀吉の天下統一を祝福する使者を要請した。  なんと秀吉の要求をすり替えたのである。  対馬人が培った知略であった。  秀吉が怒れば、再び使者となって漢城へ行くつもりだ。 宗 義智は、これで時間稼ぎをしたかった。

天正18年(1590年)、宗 義智は李朝鮮国王正使の随行員として、共に京都に着いた。 李朝鮮の正使は、秀吉の日本統一祝賀を祝う国王の国書を手渡した。 この時のことが不思議なのだが、秀吉はこの国書を「服属の意思を表した朝貢」ととらえたのだ。 勘違いをしたのだろうが、この時点では、秀吉は明国侵攻を決していたので、服属の国書でも自分を祝う国書のどちらでも良かったのだろう。 その後も、小西行長宗 義智は戦争回避のために交渉を重ねたが、秀吉の朝鮮半島上陸の準備は着々と進められていた。

                          小西行長   (熊本宇土城)

               

文禄元年(1592年)、唐津の名護屋から一番隊の軍勢18,000が釜山へ向け出航した。 一番隊は豊臣政権で海運を担当していた小西行長を隊長とし、宗 義智らの軍勢が加わった。  武将にとって、先陣(一番乗り)は名誉のことであった。 子供の頃から秀吉に育てられた加藤清正が、先陣の手を挙げたが・・・秀吉は小西行長宗 義智に、先陣を命じた。  加藤清正は二番隊、黒田長政が三番隊となった。 秀吉の目的は、明国(中国)への侵攻であるから、李氏朝鮮との戦で兵を失いたくない。 出来れば日本に服属させ、明への先導軍を務めさせたい。 そんな期待心が、小西行長と宗 義智に先陣を切らしたのではないか・・・。 二人は最後の最後まで、交渉に身を削った。  宗 義智と義理の父である小西行長は、「日本軍は朝鮮軍と戦いに来たのではない。 明国に入りたいので、貴国の道路を通ることを認めてほしいだけだ」と要求した。 しかし、冊封関係にある明国を重要視していた李氏朝鮮は、二人の最後の要求も拒んだのだった。

一番隊から八番隊まで、総勢16万が対馬海峡を渡り、秀吉の朝鮮侵略が始まった。  文禄の役壬申倭乱(じんしんわらん)と言う。 一番隊の小西行長宗 義智らは、釜山浦(現在の釜山)に上陸後、わずか20日で李氏朝鮮の都・漢城(現在のソウル)に入城。 さらに、三番隊の黒田長政と合流し、平壌(ピョンヤン)まで攻め込んだ。 朝鮮半島東部を担当した二番隊の加藤清正は、ロシア国境近くまで北上した。 しかし、明国の援軍4万が朝鮮軍と合流後は、徐々に情勢が逆転してきた。  劣勢になった日本軍の小西行長と宗 義智は、明国と講和交渉に入り、釜山まで撤退して休戦とした。 対馬海峡側の慶尚道沿岸には、日本軍駐屯の倭城(日本式の城)が幾つも築かれた。

 

うっちゃんのブログ:「機張倭城(きじゃんわじょう)」

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しかし、4年間に渡る明国との講和交渉は決裂。 慶長2年(1597年)、日本軍は再び14万の大軍で朝鮮侵略を再開した。 慶長の役丁酉倭乱(ていゆうわらん)と言う。 ところが今度は、日本軍の侵攻に備え、明国・朝鮮国とも軍備・体制を整えていた。  また、村ごとに義兵(自警団)が自発的に蜂起して、日本軍と戦った。 李氏朝鮮海軍の将軍・李 舜臣は日本軍の食糧・武器弾薬の補給船を攻撃した。 

                       李 舜臣   (釜山 竜頭山公園)

 

補給路を攻められた日本軍は食料で苦しんだ。 土地が肥沃でないので、食料の現地調達が難しかった。 各地で苦戦した日本軍は対馬海峡側に更なる倭城を築いて、戦い続けた。 そんな中、慶長3年(1598年)、大阪城の秀吉が死亡した。 豊臣政権における五大老(徳川家康・前田利家ら)は、直ちに日本軍を撤退させるよう決定した。  文禄の役=壬申倭乱(じんしんわらん)、慶長の役=丁酉倭乱(ていゆうわらん)は、日本軍の撤退(韓国では大勝利と言う)で終わった。

 

文禄の役で、宗 義智は対馬から5千人を編成して朝鮮半島へ渡っている。 一番隊だったため、兵の損失は大きかった。 対馬を復興させるためには、朝鮮半島との貿易再開が急務だった。  しかし、秀吉急死後の豊臣政権内では、石田三成 対 徳川家康など、亀裂が生まれ始めていた。 朝鮮半島への先陣争いをした小西行長 と 加藤清正も対立していた。  宗 義智は大阪の意向を確認することなく、対馬から使者を李氏朝鮮国へ送り、関係回復を図ったが朝鮮国側の姿勢は厳しかった。

 

敗戦から2年後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、宗 義智は義父・小西行長と共に石田三成西軍に組した。  義父に従ったのだろう。 しかし、西軍は敗れ、小西行長は京都で斬首された。 不思議なことがある。 宗 義智は西軍に組したが、本人は出陣せずに、代理とされた武将が参加している。 これは間違いなく、三成の策略だ。 三成は戦いが終息後、直ちに李氏朝鮮国と国交を回復しようと考えていた。 その為には、対馬の宗 義智が必要だった。 よくよく考えてみると・・・結果論だが・・・宗 義智を対馬に留めたのは、家康が内密の使者を送って指示したのかもしれない。 何故ならば、宗 義智は、家康から西軍へ組した罪は問われずに所領も安堵され、対馬藩初代藩主となっている。 家康も朝鮮との国交を大切に思って、宗 義智を重用した。 

 

文禄・慶長の役のとき、家康は徳川軍を唐津の名護屋まで動かしたが、結果的に海峡を渡っていない。  つまり、朝鮮軍と戦闘行為をしていない。 また、戦後の国交を真剣に望んでいることが、徐々に李氏朝鮮に伝わった。 それと、対馬の領主が以前と同じ宗氏だったことから、 朝鮮側からも義智が交渉窓口であれば、との認識を示して来た。

李氏朝鮮側にも迫りくる問題があった。 朝鮮国を救援した明国は軍事費が体力を奪い、疲弊しだした。 そこへ勢力を伸ばしてきたのが、中国東北部女真族(じょしんぞく=後に明を滅ぼしてを建国)だった。  朝鮮半島にも攻めて来るかも知れない。 これからは、明に頼ることは難しいだろう。 李氏朝鮮国王は日本の徳川幕府と早く「和平条約」を結ぶ必要性があった。 

 

慶長11年(1606年)、李氏朝鮮国から対馬の宗 義智に示された国交回復の条件は、「徳川家康から先に国書を送る」ことだった。 朝鮮国からすると、被害国から先に国書は送れない。 侵略戦争を起こした側から謝罪の気持ちを表すべき、と主張した。  宗 義智は、再び悩んだ。 家康は、秀吉が起こした侵略戦争の謝罪をする気持ちは持ってないだろう。 ましてや、日本国の大将軍となった家康が相手から見下されるような国書を書く筈はない。 宗 義智は覚悟を決めた。 数か月後に、偽造した家康の国書を持って、漢城(ソウル)を訪れた。 国書の信憑性について、調べがあったのかどうかは分からないが・・・朝鮮国から国王の国書を携えた使節を派遣することが直ぐに決まった。  宗 義智は、ホッと胸を撫で下ろした。

                             徳川家康

 

慶長12年(1607年)朝鮮国の使者が届ける国書は返書になるが、徳川幕府にとっては、先に朝鮮国から届けられる初めての国書になる。 もう後戻りはできない。 宗 義智は、意を決して、その国書もつじつまを合わせるために、ある部分を書き替えた。  上手く通り抜けた。 家康は終戦後初となる朝鮮からの使節団を迎えて喜んだ。 この年、家康は将軍職を秀忠に譲ったばかりだった。 新しい朝鮮外交再開の道が開けたことを、2代将軍誕生と使節団の歓待に合わせて喜んだ。

 

慶長14年(1609年)、 宗 義智は徳川幕府を代表して、日本国と朝鮮国の和平条約を成立させた。慶長条約己酉(きゆう)約条と言う。 宗 義智将軍秀忠から、徳川幕府の貿易機関とは別に、対馬藩として独立した朝鮮貿易の許可を得ている。 また、李氏朝鮮国からは、釜山に対馬藩の藩士滞在専用倭館と貿易施設の建設を認められた。 日本大使館とも言える。 以後、相互に使節団の派遣が続く。 特に朝鮮からの使節団は「朝鮮通信使」として、江戸時代を通して12回来日した。 一回の通信使団は数百名となるが、対馬藩はその都度江戸まで随行し、江戸時代を通して善隣外交に徹した。 福岡市博多部に「対馬小路(つましょうじ)」と言う町がある。 ここは。 徳川幕府黒田藩に命じて、対馬藩専用の倉庫群・施設用地を港の一等地に確保させた場所となる。

 

 

現在、韓国との国交は、徴用工問題などで行き詰っている。 それより以前に、韓国政府が韓国併合を「侵略」と捉えているのであれば、文禄・慶長の侵略と同じだと言っていることになる。 大変難しい問題だ。  対馬藩の宗 義智の時代のように、国書の偽造などは出来ない。 でも、コツコツと努力を続けて行けば、何とか道が開けるのかも知れない。 対馬藩の朝鮮外交役人に、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう 1668~1755)が居た。 朝鮮国と幕府間の折衝役として活躍した儒学者だった。 

                             雨森芳洲 

彼は「日本と朝鮮は平等互恵と誠信を基本とした外交を行うべきだ」と説き、著書には「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」と書いている。

                         

 

 

参考文献:「朝鮮通信使をよみなおす(仲尾 宏)」

         「日韓共通歴史教材 『朝鮮通信使』 (日韓制作チーム・明石書店)」

 

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