U-18「侍ジャパン」、機張(きじゃん)で大健闘。

機張倭城(きじゃん わじょう)は黒田長政が築いた。

 

TV・新聞のニュースでは、野球のU-18ワールドカップで若き「侍ジャパン」の活躍が報じられてきました。 オーストラリアに敗れて5位になりましたが、良く頑張ったと思います。 開催地は韓国の機張(きじゃん)と、何回も案内されたので、地名は有名になりましたが、韓国のどの辺りかな?

釜山広域市の北東・・・釜山市中心から電車で35分ほどの距離です。 

 

うっちゃんは何回も釜山を訪問していますが、機張(きじゃん)には行ったことはありません。 近年、リゾート観光地として人気が出てきているそうです。  次は龍宮寺です。

 

              龍宮寺  (画像はKONESTより)

 

 海に面した岩場の上に建っています。 高麗時代の王が、夢の中に現れた龍王の宣託を受けて建てましたが、文禄の役で日本軍によって焼き払われました。 1930年代に再建されています。日の出が格別に美しいそうです。

機張は、グルメではズワイガニが有名だとのこと・・・是非、行こうと思います。

 

古代から近年まで・・・日本と韓国の間に於いて、良くも悪くも、博多(福岡)と釜山ほど多くの歴史を刻んできた町(都市)が他にあるでしょうか。 経済・文化交流の場合も、戦いの場合も・・・地理的に、必ずこの二都市が係わります。

 

日韓関係がこんな状況の時に・・・ですが・・・今日は両国が争った時の話になります。 豊臣秀吉李氏朝鮮に対し、日本への服属と(中国)攻めの先導をすることを求めますが、拒否されたため朝鮮半島を攻めることになります。 博多湾は水深が浅いため、唐津に兵站基地(本陣)として名護屋城を築城。 

 

            名護屋城跡 (2015年撮影 中央は西谷正先生)

 

文禄元年(1592年)、秀吉の命により日本軍は朝鮮半島への出兵を開始します。 「文禄の役」です。韓国では「壬辰倭乱」と呼びます。

 

              秀吉像 (名護屋城博物館)

 

一番隊は小西行長を総大将とする軍勢(1万8千)、二番隊に加藤清正2万2千)、三番隊に我らが黒田長政1万1千)・・・九番隊の細川忠興まで、延べ15万の軍勢が次々と対馬海峡を渡りました。

 

              進軍ルート (歴人マガジンより)

 

釜山に上陸した小西行長軍は、凄まじい勢いで進撃を開始・・・20日後には、漢城(ソウル)を攻め落としています。 日本軍は漢城(ソウル)に拠点を置いた後、二番隊の加藤清正軍は東ルートを進み、ロシア国境まで攻め込んで行きます。 三番隊の黒田長政軍は小西行長軍と合流し、平壌(ピョンヤン)を陥落させました。

 

しかしながら、朝鮮軍に(中国)からの援軍が加わってからは、苦しい戦局に傾いていきます。 一進一退の攻防を繰り返していましたが、双方に損害が増え、講和交渉に入るため休戦を締結します。

 

文禄2年(1593年)、明軍・李氏朝鮮軍と休戦した日本軍は、漢城(ソウル)から釜山まで撤退した後、帰国。 しかし、朝鮮半島南部の支配、日本本土からの補給基地の確保のために、南海岸(蔚山市・釜山広域市を含む慶尚南道)付近に日本式の城(倭城)を築き、各藩の武将を残留させます。 倭城(わじょう)は韓国語では「ウェソン」と呼びます。現在30個以上の倭城跡が確認されています。

 

釜山(プサン)から蔚山(ウルサン)までの南海岸には釜山機張(キジャン)、西生浦(ソセンポ)、蔚山に倭城が築かれました。

 

              倭城(ウェソン)位置図 

 

今回、野球のU-18ワールドカップが開催された機張(キジャン)に、倭城を築いたのは黒田長政です。 父の黒田官兵衛が隠居したばかりで、豊前国中津城の城主の時です。 釜山の倭城は、小西行長の他に、幾つかの大名が築城を担ったものと思われます。 ちなみに、西生浦倭城(ソセンポ・ウェソン)は加藤清正が・・・蔚山倭城(ウルサン・ウェソン)は、浅野幸長が築城しています。

 

 休戦中、黒田長政はこの機張倭城に黒田二十四騎の武将・菅六之助林太郎右衛門らと共に残留しました。

 休戦中、長政は機張で「虎狩り」をしています。 ブログ  「黒田猛将虎退治

                  機張倭城跡印

 

 西生浦倭城加藤清正が築いたのですが、本人は残留はしていなかったようです。清正は築城の名人として知られていますから・・・この西生浦倭城跡は、日本式実戦用城郭として貴重な研究史跡となっています。 

                 西生浦倭城跡

 

休戦中に小西行長らが懸命に講和交渉を進めていたのですが、秀吉は条件の不備・交渉の内容に不満を持ち、再び14万の兵をもって朝鮮半島を攻めます。 慶長の役(韓国では丁酉倭乱)の始まりです。 しかし、戦局は必ずしも良くなく、慶長3年(1598年)、秀吉の死によって日本軍は撤退し戦いは終結しました。 

 

この戦いは日本国、朝鮮国、明国のそれぞれにとって、膨大な戦費と兵力を無駄に費やしただけで、何も得ることはありませんでした。 韓国の倭城跡は何も語ってくれません。 現在の日韓関係を憂いて、溜め息をついているのでしょうか?

 

                  釜山甫倭城跡

 

歴史の事実は正しく認識しよう、と言いますが、その通りだと思います。 正しく認識しないで、将来の話を進めてはいけないと・・・。

 

              高校の日本史-Bの教科書

 

高校の歴史教科書には「文禄・慶長の役」となっていますが・・・以前は「朝鮮出兵」、「朝鮮侵略」の呼称もあって、事実は秀吉の「侵略」に間違いはありません。教科書にも「侵略」と書かれていますが、そのあとは、「日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた」の一行だけです。 日本軍の手柄の証拠に、朝鮮兵のみならず一般の農民まで耳と鼻を切った悲惨なことは教えられていません。 JR香椎駅近くや京都に「耳塚」があります。 これが何であるかは、平和を教えるためにも必要です。

 

現在の日韓関係を心配しています。 日本政府にも穏やかに対応してほしいのですが・・・民間交流を遮ったり、「戦犯企業」と定義する市条例案を可決した釜山市長(共に民主党)には憤りを感じます。 姉妹都市なのに・・・。

 

*倭城の画像は「城めぐりチャンネル」h/pからお借りしました。

 

歴史散歩

香椎浪漫