香椎宮 古宮跡
 
ブログタイトルを「香椎宮 古宮跡」とした場合・・・この「香椎宮」は神社の香椎宮(かしいぐう)ではなく、行宮(あんぐう・仮の皇居)である香椎宮(かしひのみや)になります。 日本書紀では「橿日宮」、古事記では「訶志比宮」と表されています。
香椎宮本殿を東側に廻ると、「古宮・不老水へ」の看板があります。 坂を下った道路正面が「古宮跡」の入り口です。
 
                                       古宮跡入り口     
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香椎宮本殿から北東に百数十メートル離れていて、「香椎宮起源の地」と書かれています。 入り口の石段を過ぎると、凛とした空気が流れています。 仲哀天皇神功皇后の気を感じます。 やはり聖地ですね。
 
 正面には門で閉ざされた敷地の中に、玉垣で囲まれた一本の「椎の木」が見えます。 香椎の名前の由来となった「香椎=香る椎の木」です。
 
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14代仲哀天皇と神功皇后熊襲(くまそ)征伐の前線基地として、ここに橿日宮(かしひのみや)を建てたところから話を進めます。
  
仲哀天皇神功皇后武内宿禰大臣の三人は熊襲との戦を占う神事を橿日宮で執り行いました。 神の宣託(おつげ)は『熊襲の痩せた国と戦うより、西の海を渡り金銀財宝のある朝鮮半島に出征すべし』と言う内容でした。 天皇は近くの高い山に登って(地理的に考えて立花山に間違いないでしょう)西の海を望みましたが、国などみえません。 ご宣託を疑った仲哀天皇は神の怒りにふれ、急死してしまうのです。 これは「古事記」にそう書かれていて・・・日本書紀でも熊襲との戦いの途中に急に亡くなったとされています。 香椎うっちゃんブログの中で時々触れてきましたが、日本書紀には異説と言って「一書に曰く(いわく)・・・」があるのです。 その「一書に曰く」の中では、天皇は熊襲との戦いで敵の矢に当たって亡くなった、としています。 うっちゃんの神功皇后伝説でも、この説を採っています。
 
さて、敵の矢に当たり怪我を負った天皇は橿日宮に移され、皇后の看病を受けますが、及ばず崩じてしまいます。
 
話が少し逸れますが・・・古宮の東方600700mの場所に、平成8年まで御飯の山(おいのやま)がありました。 
                             御飯の山(おいのやま)  
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 現在は香椎台5丁目の団地に整地されましたが、麓の部分が「おいのやま公園」として整備されて残っています。
 
 その公園内で、樹齢数千年と言われる香椎宮の御神木「大槇木(おおまきのき)」が見えます。 幾つかに分かれた幹は何度も雷に撃たれて倒れたのでしょうか。背丈はそんなに高くは感じられません・・・しかし、根元の幹周りは何メートルもあって、とにかく大きいです。
 
            大槇木(おおまきのき)                                            山神
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    ↑ そして、大槇木の横に「山神」と刻まれた小さな石碑が立っています。      
この「山神」は本日のテーマではありませんが、御飯の山(おいのやま)には、香椎宮創建よりも前から村民に信仰されていた神が祀られていたのではないか、と思っています。 資料を揃えてまとまったら報告します。
 
 また、「おいのやま公園」の神木・大槇木(おおまきのき)と山神石碑は、香椎宮休憩所横の「香椎宮 周辺歴史散歩案内板」の中にも○印)描かれています。 案内板には「御飯の山」(赤点線)も描かれています。 ○印が古宮跡です。
 
                            香椎宮 周辺歴史散歩案内板
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を戻します・・・神功皇后は仲哀天皇の亡骸を納める御棺を御飯の山(おいのやま)の大槇木(おおまきのき)で作らせたと言い伝えられています。 その御棺を橿日宮内の「椎の木」に掛けました。 すると香ばしい香りが、あたり一面に漂ったそうです。 この椎の木が香椎の名の由来で、玉垣の中に見えた「香椎」です。 
 
                                   香椎(棺掛椎) 
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御棺を掛けたので「棺掛椎」(かんかけのしい)と呼ばれています。 「香椎」の名の由来については、幾つかの説があるのですが、黒田藩の学者である貝原益軒が「筑前国続風土記」の中で、香椎宮社家の伝承として、この「棺掛椎」の説を挙げています。 また、この様にも言っています。 『かの椎の木は今も御社の東にあり、神木と号す。この木まことに古木と見ゆ。されどその時の木にはあらず、昔の種を植え伝えしならん』。 う~ん、確かに1,650年前の椎の木にしては小振り過ぎますもんね。 
 
熊襲征伐中だったので、兵たちに動揺が起こらぬよう天皇の崩御は秘密にされました。 武内宿禰大臣は天皇の亡骸を納めた御棺を船でこっそりと下関の豊浦宮に運び、モガリ(古代葬儀様式)をして安置します。 その後、神功皇后は熊襲と戦い、朝鮮半島へ出征し、帰国後、応神天皇を産み大和に凱旋するのです。
 
香椎を去るとき、神功皇后はここに祠を建て仲哀天皇の神霊を祀りました。 祠は何度も建替えられたのでしょうが・・・場所は「棺掛椎」の真後ろだったのではないか、と東区の郷土歴史研究家から聞いたことがあります。 
確かに何か建物が立っていた形跡が残っています。
 
                        仲哀天皇の神霊を祀っていた祠跡?  
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であれば、ここが仲哀香椎廟、つまり香椎宮起源の地となります。 神亀元年(724年)、奈良政庁によって神功皇后の霊を祀る神功香椎廟(現在の香椎宮)が建てられます。 しかし、お二人の霊が香椎宮本社に合わせられたのは大正4年(1915年)のことです。 と言うことは、1,200年近く、ご夫婦のご神霊が約百数十メートル離れたまま祀られていたことになります。 しかも仲哀天皇の祠は摂社として小さいまま。 男のうっちゃんとすれば、仲哀天皇が少し可哀想な気がするのですが・・・。 
 
余談ですが、仲哀の文字は「諡号(しごう)」と言って、亡くなったあと、その功績や人格などで付けられる送り名です。 奥さんの神功皇后(神の功)、息子の応神天皇(神の応え)、孫の仁徳天皇(仁と徳)の諡号は立派ですね。 神の怒りにふれ、神功皇后の活躍の陰に隠れてしまったことが、「」の文字に表れのでしょう
話を戻します・・・現在の香椎宮はご夫婦ご一緒に、加えて息子の応神天皇が配祀されています。 親子三人が一緒になれて良かった。
 
 棺掛椎(神木 香椎)の前から右側方向には、うっそうとした森の中をなだらかな坂道が続いています。
 
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 ここも橿日宮(かしひのみや)の敷地内だったのでしょう。 小さな丘の頂上に着くと、正面に「仲哀天皇大本営御」と彫られた大きな石碑が目に入ります。 九州で大本営跡があるのは、ここだけではないでしょうか。 
 
                              仲哀天皇大本営御蹟碑   
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天皇が直接指揮を執る軍の中枢を「大本営」といいます・・・確かに熊襲征伐で仲哀天皇が、この地で指揮を執っていたのですが、「大本営」は間違いです。 「大本営」は「日清・日露戦争」の2回しか発令されていません。 大和朝廷時代には「大本営」と言う言葉はありません。 うっちゃんはこの「大本営」と言う言葉が好きではありません。 この石碑は大正時代に建てられています。 日露戦争後から太平洋戦争にかけて、日本全土に於ける国威高揚のために建てられたものの一つでしょう。 
 
 
現在、香椎地域は区画整備事業によって新しい街を造ろうとしています。 地域活性化を図るために、交流人口を増やさなくてはなりません。 利用出来る誘客素材を、あらゆる方面に発信して行かなくてはなりません。 うっちゃんは提案します。 「仲哀天皇大本営御蹟碑」の代わりに、新しく「仲哀天皇 神功皇后 筑紫橿日 皇居跡」を建てたら如何でしょう。 日本人訪問者のみならず、見た目だけかもしれないが・・・韓国・中国の観光客にも抵抗ないのでは、と考えるのです。
 
 2023年4月17日 追加投稿 → 「香椎宮の起源 古宮
 
香椎宮探訪
 
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