「棺掛椎(かんかけのしい)」の後ろに、古宮の社(やしろ)があった

昨年(2022年)11月3日の西日本新聞に、「香椎宮の明治期再建活動巡る資料」が東京の古書店で発見された、との記事が載っていた。

 

発見された資料とは、香椎宮の楼門や廻廊を再建するための財政支援を国に求める活動資料だった。 明治31年~32年(1898~1899年)に、当時の香椎郵便局長だった森禎次郎氏や香椎宮禰宜の木下美重氏(現在の権禰宜・木下英太氏の曽祖父)らが中心となっって資料を整え、代表団が上京した。 

 

東京の古書店でこれらの資料を発見したのは九州産業大学石川泰成教授(地域共創学部)で、資料の一部が香椎宮休憩所と大学の図書館で一時的に展示された。 勿論、両方とも見に行った。 僕が興味を引いたのは、香椎宮の由緒を説明するために神功皇后を題材にして描かれた絵と、新聞にも掲載された古宮の社殿写真( 赤枠)だった。

 

古宮の社の存在と場所について大よそは聞いてはいたが、今回は実物の写真を見て少しワクワクしてしまった。 しかし、休憩所と図書館ではオリジナルの写真が展示されてなくて残念だったが、新聞記事からデジカメに画像を収めた。 

 

 切妻造りの拝殿の前に玉垣があって、その中に樹が一本「棺掛椎(かんかけのしい)」が立っている。 また、拝殿の床には玉砂利が敷かれているのが解る。

 

 以下が、現在の「古宮跡」入り口と神木「棺掛椎(かんかけのしい)」です。

 

 

棺掛椎(かんかけのしい)

 

 明治時代の写真と同場所・同角度から撮った「棺掛椎(かんかけのしい)」。 社殿が建っていた場所と姿がおおよそイメージ出来る。

 

 拝殿の床に敷かれていた砂利が、今でも残っているのが確認出来る。

 

 古宮の社殿と棺掛椎は江戸時代後期(1820年前後)、奥村玉蘭が描いた「筑前名所図会」の香椎宮の頁にも確認できた。 でも、この時代には未だ楼門も中門も廻廊も建っていない。

 

 古宮の社殿と棺掛椎は大正2年(1913年)の絵図の中にも見える。  でも2年後の大正4年(1915年)に古宮の社殿は、棺掛椎だけを残して廃社となります。 その話は後ほど・・・。 明治31年~32年(1898~1899年)、国に財政支援を求めた活動が功を成し、明治36年(1903年)に楼門中門廻廊が建造されたのです。 大正2年(1913年)に描かれたこの絵図の中では、それが確認できる。

 

それでは、古宮の社殿は何故消えてしまったのか・・・。 その前に「古宮」とは、もともと何だったのかを確認しなければならない。 古宮跡には、「香椎宮起源の地」と説明がある。 香椎宮は神亀元年(724年)、神功皇后の霊を祀るとして創建されたのであるが・・・その前の4世紀後半(時期は僕の仮説)、皇后の夫である仲哀天皇が、熊襲征伐の際に仮の皇居(橿日宮=かしいのみや)をこの地に造営したのが説明の始まりとなる。 しかし、神社としての「香椎宮起源」とは未だ言えない。

 

明治31年~32年(1898~1899年)、森禎次郎氏や木下美重氏らが作成した国に財政支援を求める資料の中に、福岡の洋画家・矢田一嘯氏が神功皇后を題材に描いた絵がある。 絵の中の数枚を使って、「古宮」と「香椎宮」の起源説明につなげたい。

 

古事記日本書紀によると、古代の政(まつりごと)で重要事項を決する時は神託を受けて進められる。 神託を受ける祭祀は三人一組で執り行う。 一人が神主、一人が琴を弾く、もう一人が審神者(さにわ)を担う。 

画 : 矢田一嘯  九州産業大学図書館所蔵

 

仲哀天皇神功皇后と重臣の武内宿禰の三人は、熊襲との戦いを占うために橿日宮で祭祀を執り行った。 神功皇后は巫女(シャーマン)の能力があるので神主となり、仲哀天皇が琴を弾いて、武内宿禰が審神者(さにわ)を担当した。 審神者とは神が馮り移った神主が発する言葉の意を翻訳し伝える役をいう。

 

神が馮り移った神功皇后の口から発せられた神託(おつげ)とは・・・『熊襲の痩せた国と戦うより、西の海を渡ったところの金銀財宝を持つ国に出征すべし』と言う内容だった。 仲哀天皇は近くの高い山(立花山だろうと思う)に登って、西の海を望んだが何も見えない。 古事記によると、神託(おつげ)を疑った天皇は神の怒りにふれ急死してしまう。 日本書紀には異説があって、天皇は熊襲との戦いで敵の矢に当たり戦死した、とある。

 

何れにしても、神功皇后は悲しみのなか、老いの山大槇の木でお棺を作り天皇の亡骸を納めた。 お棺を作った大槇の木は、現在も「香椎台5丁目」の「おいのやま公園」にある。 

おいのやま公園内の神木・大槇の木

 

 皇后は、そのお棺を橿日宮の庭にあった「椎の木」に掛け吊るし、武内宿禰ら五人の重臣と共に祈りを捧げた。 すると、椎の木の周りに香ばしい香りが一面に漂ったそうだ。 これが「香椎」の名の由来とされ、神木「棺掛椎(かんかけのしい)」として現在に伝えられてきた。

棺掛け椎   画 : 矢田一嘯  九州産業大学図書館所蔵

 

しかし、現在の「棺掛椎(かんかけのしい)」が、1600年以上前のものとは思えない。 江戸時代の黒田藩の学者・貝原益軒は「筑前国続風土記」の中で、「この木、まことに古木と見ゆ。されど、その時の木には非ず。昔の種を植え伝えしならん」と書いている。 

 

お棺を木に掛け吊るす民俗葬法は、現在に馴染めない感がある。 日本の古代に於いて、遺体を長いあいだ棺に仮安置する「(もがり)」と呼ばれる葬儀儀式の一種ではないだろうか。 九州産業大学 石川泰成教授プロジェクトチームの一員・須永 敬氏によると、樹上から棺を掛け吊るす民俗葬法は朝鮮半島を含む東アジアで、その存在が確認されているらしい。

 

 

やっと、「古宮」の話しに触れられる。

仲哀天皇の意志を継ぎ熊襲を征伐した神功皇后は、神託(おつげ)に従い朝鮮半島への出征を成功させて橿日の宮に凱旋した。 仲哀天皇の遺体は大和で葬るので、皇后は仲哀天皇の棺を掛け吊るした椎の木の後面に小さな祠()を建てて天皇の霊を祀った。 これが「古宮」の起源となる。

神功皇后 坐像  (奈良 薬師寺)

 

ここからが少し不思議な話になる。

奈良朝廷は神亀元年(724年)になって、神功皇后の霊を祀るを現在の香椎宮本殿の地に造営した。 このが神社(香椎宮)として記録されるのは、平安時代になってからだ。 その間、約150メートルの距離を置いて、仲哀天皇の廟と神功皇后の廟が別々に祀られていたことになる。 普通に考えると、神功皇后の廟を造営する時点で、ご夫婦一緒に祀れば良いのではと思うのだが・・・。

 

神功皇后廟が神社として「香椎宮」と記録されると、仲哀天皇廟は「仲哀社」となったのだろうと思う。 江戸後期に描かれた「筑前名所図会」の中でも、「古宮」は「仲哀社」と書かれている。 江戸時代・明治時代になっても仲哀天皇神功皇后は別々に祀られていたことになる。 香椎宮境内で祀られていた「仲哀社」は香椎宮の摂社だったそうだが・・・大正4年(1915年)になって、「仲哀社」は香椎宮本殿に合祀され、廃社されたのです。 やっと仲哀天皇神功皇后のご夫婦が本殿に一緒に祀られ、現在に至っている。

 

古宮」には二つの意味があると思う。 一つは仮の宮(仲哀天皇と神功皇后の皇居)としての「橿日宮」を言い、もう一つは仲哀天皇の霊を祀ってきた仲哀廟(社)を言う。 どちらにしても「香椎宮の起源」には間違いない。

 

 

参考文献 : 「古い絵葉書・絵図などにみる香椎宮パネル展」 九州産業大学プロジェクトチーム(石川泰成・井上友子・須永敬・森誠子)

 

うっちゃんのブログ 香椎宮

香椎浪漫トップページ

 

飲酒運転は身を滅ぼすヨ!