77歳にもなると、昔からの友人がひとりふたりと減っていくことはあっても、新しい友人が増えることはまずない・・・と、私はこのブログで書き続けてきた。

 

 

 

 しかしその一方で、私には新しい ”友人” が生まれ続けている。

 

 

 今週から、その多くの “友人” たちの中から3人の話を書こう。

 

 

 ただ、その ”友人” とは会ったことも、電話などで言葉を交わしたこともない。

 

 

 “友人” といっても、ブログの文字や写真等を通しての関係だけで、私の片思いの “友人” だ。

 

 

 だから、タイトルに書いた “文字友(もじとも)” も私の勝手な造語だ。

 

 

 

 第1回は、暮らしの中の出来事とともに、ラグビーに関するブログを時々投稿してくれる “友人” の話だ。

 

 

 

 

 

 

 8年ほど前、ブログを始めた頃はよくラグビー観戦に行っていた。だからシーズン中によくラグビーに関するブログを投稿していたが、最近は投稿しなくなった。

 

 

 

 コロナ禍の間に私も年を重ね、今シーズン観戦に出かけたのは大学ラグビーの早慶戦だけだ。ブログで取り上げるラグビーに関する情報やデータを入手していた「ラグビーマガジン」の購読を止めたのも投稿しなくなった理由のひとつだ。紙面の小さな文字が読みづらくなってきたのだ。

 

 

 

 さて、第1回のその “友人” とは、『オーストラリア移住日記 ~ 憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・』 というブログを、2012年から投稿しているToshiさんだ。

 

 

 

 彼は私より10歳くらい若い。

 

 

 

 先週25日、そのToshiさんが下記ブログを投稿していた。そして31日には <その2> が投稿された。

 

 

( Toshiさんのブログ『オーストラリア移住日記』2024年3月25日と31日投稿 枠内をクリックすればお読みいただけます。)

 

 

 

 

 

 投稿は、ラグビーに関するエピソードだった。

 

 

 彼が主宰している日豪スポーツ交流で、2007年に豪州遠征に来た愛知県立旭丘高校ラグビー部にいた若者が主人公だ。その若者が社会人になってメルボルンに駐在、3年の勤務を終えて今般帰任することになり、日本に戻る前に高校時代の思い出の地を訪ねたい・・・と、当時お世話になったToshiさんに連絡を取ってきた・・・そして、17年ぶりの嬉しい再会となったという話だった。

 

 

 

 <その2>まで読んで、私はコメントをToshiさんに送信した。

 

 

 「私は昭和53年から46年間、学生ラグビーを中心に観戦を楽しんできました。183㎝100kgの体格ながらプレーの経験はありません。ラグビー部もありませんでした。今回の投稿も、ラグビーの良さ、神髄を教えていただいています。他の競技にも似たようなエピソードはあるのでしょうが、ラグビーはチームや時代を超えて、タテヨコのヒトの繋がりや絆が強いことを教えられます。ありがとうございました。」

 

 

 

 すると、すぐToshiさんから返信があった。

 

 

 ・・・コメントへのお礼の後に、奥様が私の故郷・鹿児島が大好きとのことで、ご長男に「隼人」という名前を付けたことが書いてあった。さらに嬉しいことに、私の実家近くにある「隼人塚」という平安時代の仏教遺跡(注:以前は隼人族の霊魂の供養塔と伝えられていた)にも行ったことがあるとも書いてあった。そして、Toshiさん自身のラグビー歴の一部も書いてあり、私がずっと応援してきている早稲田大で昭和50年代前半にプレーしていたとあった。

 

 

 

 私の故郷にも足を運んでいただいたことを知り、感激した私はまた返信した。

 

 

 「そうでしたか。隼人塚は実家の近くで私のペンネーム “はやと” もそこから借りました。昭和53年に東京転勤になりましたから、Toshiさんのプレーもおそらく見ていますよ。これからもラグビーの原点に触れる、郷愁溢れるブログを楽しみにしています。」

 

 

 

( ブログ『オーストラリア移住日記』より。)

画像 テストマッチ の記事より 5つ目

 

 

 

 じつは数年前、私のラグビーに関する拙いブログを読んで「いいね」を押していただいたことがあり、その時Toshiさんのことを知った。

 

 

 私はそのことがキッカケで、彼のブログを過去のものを含めて読み始めた。

 

 

 ラグビーに関する投稿を中心に読んでいくうちに、彼が昭和50年代に早稲田大ラグビー部でプレーしていたことを知った。私は当時の早稲田大ラグビー部に関する書籍をめくり、Toshiさんはこの選手だな・・・とほぼ目星をつけた。

 

 

 

 また、読み進めていく中で「死に至るノーサイド」という一冊の本がよく取り上げられていることに気づき、私はさっそくその本を探し中古本を入手して読んだ。

 

 

 その本は、1930年代ラグビー豪州代表に選ばれたひとりの日系人に関するノンフィクションだった。

 

 

 

 

 

 

 その本のプロローグに次の文章があった。

 

 

 “ 何年前になるだろうか。広野は、東京の国立競技場で早明戦の晴れ舞台に立った時の興奮を思い出していた。あの時、彼は背番号5をつけていた。圧倒的な観衆の津波のような声援に、キックオフの笛が鳴るまでの心と身体はてんでんバラバラだった・・・”

 

 

 私は、この本の中で、その日系人選手の足跡を追い駆ける主人公・広野は、間違いなく目星をつけていたあの選手だ・・・と確信した。

 

 

 

 しかし私は、彼の130編ほどある投稿を全部読んでいた訳ではなかった。彼のブログは、投稿数そのものはそれほど多くはないのだが、丁寧に書かれた長文が多い。

 

 

 私は、今回このブログを書くにあたって、彼のラグビーに関する投稿を再び検索し、そのいくつかに目を通していた。

 

 

 すると先日、彼がブログを始めて間もない2012年8月31日に投稿した『歴史を辿る旅「死に至るノーサイド」』という投稿に出会った。

 

 

 この投稿はまだ読んでいなかった。

 

 

( Toshiさんのブログ『オーストラリア移住日記』2012年8月31日投稿  枠内をクリックすればお読みいただけます。)

 

 

 

 そのブログは次の文章で始まっている。

 

 

 “・・・私のオーストラリア移住を語る中で、私はこの本のことを欠かすことはできない。このストーリーは、ある歴史的人物に焦点を当てて描かれているが、その人物の足跡を追い駆けながら、自分の居場所を確立していった私自身の物語なのである”

 

 

 

 1938年のラグビー豪州代表(愛称・ワラビーズ)に日系選手がいた。日本から届いたサンケイスポーツの切り抜きの中に、その選手に関する小さな記事を見つけた彼は、豪州でその日系選手・ブロウ井手の足跡を追い駆け取材する。

 

 当時、シドニーに入港する日本船の物資調達等のビジネスをしていた彼は、その合間をぬって精力的に取材を進めた。そして、その取材成果を本にまとめたのは日本にいる彼の兄・蟹谷勉だった。彼は取材して入手した資料や原稿を日本にいる兄にFAXで送った。

 

 兄弟で力を合わせて上梓したこのノンフィクションは「具志川記念文学賞」を受賞し、井上ひさしや吉村昭、大城立裕等多くの作家から高い評価を得た。

 

 

 

 

 さて、Toshiさんの早稲田大時代に戻ろう。

 

 

 前述のToshiさんからの返信の中に、「昭和52年の早明戦がデビュー戦で・・・」とあった。

 

 

 下の資料がその試合の記録だ。この早稲田大学のメンバーの中に彼は名前を連ねている。

 

 

( ベースボールマガジン社「ラグビー早明戦80年」より )

 

 

 

 当時の早稲田大ラグビー部には、ラグビー強豪校からの入部者は少なく、一般入試を経て入学しよく鍛えられたラグビー無名校の選手が大半を占めていた。彼もそうした選手のひとりだったようだ。彼は記録を見ると、3年生になっても対抗戦の他の試合には出場していない。しかし、12月4日開催の伝統の早明戦でデビューしているから驚きだ。

 

 

 怪我でそれまで出場できなかったのか、秘密兵器として早明戦まで隠しておいたのかそれは知らない。

 

 

 4年生になると不動のレギュラーとして活躍するも、宿敵・明治との早明戦は、3年生の時の6対17に引き続き、4年生の時も6対16で惜敗している。

 

 

 ちなみに彼の背番号は、3年時が8番、4年時が5番だった。

 

 

 ところで彼が4年生の時に、オールドファンならご存知の、本城和彦、吉野俊郎、津布久誠らの好素材が入部している。そして彼らが3年生になった時に、5年ぶりに早明戦で勝利しているが、この頃は明治大、同志社大の壁が厚く、1987年度まで早稲田大の大学日本一はなかった。

 

 

( ブログ『オーストラリア移住日記』より。)

画像 感動的な瞬間 の記事より 1つ目

 

 

 

 彼は、NPO法人日豪スポーツプロジェクトを主宰している。ブログの中で1998年からコロナ禍に入る2019年の間に、100以上のチームの豪州遠征を請け負ったと書いている。加えて日本で数十回のセミナーも開催、その間に出会った選手の数は、ゆうに5000人を超えているらしい・・・今回17年ぶりに再会した若者もそのうちのひとりだった訳だ。

 

 

 

 彼のブログの画像を見ていると、豪州を訪れた多くの有名無名のラグビー選手や関係者が掲載されている。彼がラグビーというスポーツを通して取り持った日豪の交流の長さ、深さ、広がり、そして温かさを私は感じていた。

 

 

 

( ブログ『オーストラリア移住日記』より。)

画像 タックルに命を懸けた男 ドス の記事より 8つ目

 

 

 

 長い間ラグビーを観戦し、ラグビーに関する様々な書籍や記事に接してきた私は、ラグビーを通して生まれた人と人のいい話を、これまでもたくさん読んできた。

 

 

 チームや学校、クラブを超え、そして世代や国籍を超え ”楕円球” が生んだ人間の話はこれからも続くだろう。

 

 

 しかしその陰には、Toshiさんのように “楕円球” を通して、地道に人と人を繋げている多くの方々の働きがあることを、改めて教えられたブログ「17年ぶりの嬉しい再会」だった。

 

 

( ブログ『オーストラリア移住日記』より。)

画像 嬉しいメールが届いた! の記事より 3つ目

 

 

 

  ・・・だから、私はこの “文字友” の次の投稿を楽しみに待っているのだ。