歴史を辿る旅 「死に至るノーサイド」 | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

私のオーストラリア移住を語る中で、私はこの本のことを欠かすことはできない。

このストーリーは、ある歴史的人物に焦点を当てて描かれているが、その人物の足跡を追い駆けながら、自分の居場所を確立していった私自身の物語なのである。

THE TOS BLOG
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竹下内閣時代、日本中の自治体に「ふるさと創生資金1億円」が支給され、沖縄県具志川市(現うるま市)は、それを原資に、ノンフィクション文学賞を開催した。

朝日新聞社が主催し、井上ひさし氏、吉村昭氏、大城立裕氏など直木賞や芥川賞作家の錚々たる選者を迎えての開催となったが、この作品は「具志川記念文学賞」を受賞した。

 

故井上ひさし氏は、”読後、読み手の心には「こういう人がいるなら、日本人にも人間にもまだまだ信頼できる」という勇気が宿る” と評し、それが、ある格調高い雑誌に紹介された。

”こういう人” というのが、この作品を書き上げた私の実兄 ”蟹谷 勉” なのか?それとも、主人公の私なのか?更に私が探し求めた伝説のワラビーズ ”ブロウ井手” のことなのか? 

それを聞くことは出来なかったが、いずれにしても超人気作家に勇気を与えたのは凄いことだ。

 

「夢のオーストラリア移住」を果たし、船舶の仕事も徐々に板についていた。

ただ、毎日日本船の入港がある訳ではなく、入港時の忙しさは凄まじかったが、普段は午後4時に仕事は終了し、サマータイムの時期なら、仕事の後にゴルフも出来た。

いわゆる ”ラッキーカントリー” での生活という感じだったが、つい数ヶ月前まで日本の企業戦士として働いた私には、何か物足りなく思える日々だった。

「俺はこんな生活を続けていていいんだろうか?」

「俺はこんな生活をするためにオーストラリアに移住したんだろうか?」

どこか取り残されてしまうような危機感すら感じることがあった。

 

その頃、大学時代の仲間(後輩)から電話があった。

「仕事でシドニーに行きますが、何か欲しいものはありませんか?」

その連絡はとても嬉しかったが、久しぶりの再会だけで私には十分だった。

 

欲しいもの?
そうだ!私は「サンケイスポーツの切り抜きを一週間分持って来てくれ」と頼んだ。

あの当時、私は日本の情報に飢えていた。

サンケイスポーツには、毎日ラグビーの記事が大なり小なり掲載されている。

日本のラグビー界の情報が私にとって一番の土産だったのだ。

 

彼は律儀に一週間分の切り抜きを持参した。

それを読み進みながら、その切り抜きの中に、ちょっと気になる記事を発見した。

「あのワラビーズに日本人が居た」

見出しにはそう書かれている。


1991年のラグビーW杯でワラビーズは優勝するが、その記事を手にしたのはその1年前、オーストラリアでワラビーズへの国民の関心はピークに達していた時代だった。

テストマッチの観戦チケットは30分で売り切れてしまう時代だった。

私自身、”ワラビーズ命” という心境に陥っていた。

そんなワラビーズに日本人がいた!というのは、言葉では言い表せないほどの衝撃だった。

キャンピージーやファージョーンズ、ライナーやホランの雄姿が浮かんでくる。

そして、そこに日本人の顔をした選手が・・・ 

どう考えても信じられなかった。

*中段、左から2人目
 

その驚きを私は誰かに伝えたかった。

その頃、兄が地元の不惑クラブでラグビーをプレーしていた。

兄は本格的にプレーした経験は無かったが、すっかりラグビーの虜になっていた。

兄に国際電話を掛けた。

 

私は兄の歴史的人物への探求心を知っていたが、予想通り兄は私の電話を喜んだ。

私とは異なり、文学的な才能に長けた兄は、学生時代から文学賞などにも挑戦していた。

画して、私の日本人ワラビーズの足跡を追い掛ける旅が始まったのだ。

 

それから、兄との一年間に及ぶファックスによるやり取りが始まった。

そして、私の時間の使い方は一気に替わった。

船の入港の合間を縫い、午後4時以降、土日を使ってラグビークラブや州立図書館を訪問した。

 

パソコンもインターネットも無い時代で、私はほんの少しの情報を頼りにどこまでも出掛けた。

それしか手段がなかったからこそ、私はとことん夢中になれたのかもしれない。

一枚一枚丁寧にオブラートを剥がすようにして、徐々に明確な歴史的な部分が見えてくる。

時として簡単に剥がれない部分がある。

それを何とかしようとするのも、私にとっては冒険のようなもので、新たな発見には満足感や達成感があったし、時には落胆することもあった。

かつて、学問に没頭したことの無い私には、全てが衝撃的なことだった。

 

一人の消息を知ると、そこからもう一人、また一人と広がって行った。

オーストラリアのラグビー関係者は、出会った誰もが親切でフレンドリーだった。

「どこの紹介?」「誰の紹介?」「何に使うの?」「アポイントは?」・・・

そんな対応をされたことは一度も無かった。

どこの馬の骨かも分からない、それも英語もタドタドしい私に、誰もが胸襟を開き、私の意志や目的をしっかり理解しようとしてくれた。

そして、その後、彼らは私の友人であり歴史や英語の先生になった。

 

例えそれが協会であろうと、クラブであろうと、州立図書館であろうと、首都キャンベラにある国立戦争記念館であろうと、レセプションで門前払いを食らうことは一度も無かった。

それがオーストラリア人のマナーなのかもしれない。

熱心な私に彼らは熱心に対応してくれたのだ。

 

「死に至るノーサイド」は、出版からは20年の歳月が流れた。

私は、兄が書き上げた本の内容には満足している。

私にしか知り得ない部分、それが私がFAXで送ったまま本の大部分を占めている。

とにかく、私にはこの本に描き切れなかった実体験をしたというプライドのようなものがある。

あの頃、一生懸命仕事もしたし、家族も守ったし、新たな発見を妻と一緒に飛び上がって喜んだし、子供達のラグビーにワラビーズの夢も重ねたし、情熱が溢れていた時代だった。

「死に至るノーサイド」を題材にした映画も出来た。

「君はノーサイドの笛を聞いたか」という題名のドキュメンタリー映画である。

私も情報提供や撮影時にはサポートをしたし、また実際に映画にも出演した。

残念ながら、日本では様々な事情で脚光を浴びなかったようだが、決して出来の悪い作品ではなく、しっかりとリサーチを重ねたことが窺える素晴らしい作品に仕上がっている。