父の告別式を終えてシドニーに戻り、その翌日から私は船舶の仕事に戻った。
私は海外で暮らすことが私自身を強くしていると実感することがある。
正直、私は悲しかったし、母を心配する気持ちも大きかった。
それでもなぜか、その押し潰されるような重い感情や不安な気持ちをコントロール出来るようになっている自分を感じるようになっていた。
それは妻や息子達を守ろうとする強い意志がそうさせているのかもしれなかった。
シドニーで生活して、すでに4年の歳月が経過していた。
「今のままでいいんだろうか?」
いつの間にか、私の心の片隅にそんな思いがふつふつと沸き上がっていた。
しかし、その頃、私達はまだ「永住権」を取得出来ていなかった。
いわゆる”免罪符” を手にしていない訳で、勝手な振る舞いが許される状態ではなかったのだ。
”ビジネス・ビザ” という滞在期間の限られたビザで滞在していたが、それはスポンサーの基盤(私で言えば船舶会社)があって取得出来るビザであり、もし、独立するためにその会社を退職すれば自動的に消滅してしまう成り行きなのだ。
よくビジネスビザを "奴隷ビザ” と揶揄する者がいるが、言ってみれば、使えるだけ使って、最後は使い捨てに出来るビザという意味で言ったのだろう。
我が家から程近いボンダイジャンクションの繁華街を歩きながら、大型ショッピングセンターの真ん前に新しい日本レストラン(焼肉屋)が開店しているのに気付いた。
ボンダイビーチの玄関口であるボンダイジャンクションには日本人留学生が多く、留学生をターゲットにすれば、この店は間違いなく流行るだろうと私は直感した。
ずっと先の話だが、私が予想した通り、この店のオーナーは、この店の成功を皮切りに数年後には繁華街のキングスクロスで大きなカラオケ居酒屋を経営するまでになった。
また、この通りにはケンタッキーや巨大スーパーのコールズやKマートなどが軒を連ねていた。
その店の2階の窓には大きく「Rent」と看板が掲げられていた。
私は直感した!「ここでカフェをやれば、この界隈の日本人留学生の溜まり場になるはずだ」
そう思った瞬間、私の悪い癖(たまには良い時もある)が私を動かした。
私は誰にも相談せずにそのまま不動産屋に直行し、その場でその物件をレントする仮契約をしてしまった、なんと妻には事後報告で。
突拍子もない私の行動に妻は驚いたが、頭ごなしに私を批判することは無かった。
「やるなら、私も必死でやるわよ!」
移住の時のそうだったが、妻は常に私の前向きな行動に寛容で、妻自身がポジティブだった。
妻は "悩むなら手を出さない!" という私の性格を良く知っていた。
もし最初に私が妻に相談していたら、たぶんこの計画はやらない方向で決着しただろう。
その頃、長男が小学校に、次男も幼稚園に通い始めていた。
ただ、私はまだ船舶の仕事を続けていたし、その船舶の会社に永住権申請のスポンサーになってもらっていたために、大っぴらに商売を始めますとは言えなかった。
したがって、妻が全てを切り盛りする方向で計画を進めるしかなかったのだ。
私の行動には時として自分でも「あんなことをよくやれたなぁ」と感じることがある。
それでも、私も妻も大きな後悔をしたことは一切無い。
とは言え、後悔では無いが、小さな言い争いはしょっちゅうなのである。
当初、私は「定食屋」を考えた。
1階は韓国式焼肉店だったし、その頃シドニーには寿司や天ぷらが食べられる日本食レストランはあったが、" 早い・美味い・安い" 三拍子揃った定食屋の存在を聞いたことが無かった。
特に、このボンダイ地区には日本人留学生やワーキングホリデーの若者が数多く住んでおり、彼らをターゲットにすれば、絶対に流行る!と私は確信していた。
その計画で動き出したが、オーストラリアの法律には様々な制約があるのを知ることになる。
調理を伴うレストランをやるには下水処理の設備が必要で、今まで事務所だったこのフロアにはそれが無いため、その設備を新たに作るかレストランを諦める以外に無かった。
新たに設備を作るには数万ドル(数百万円)の費用と大規模な工事が必要だった。
したがって、自信満々だった私の当初の計画は変更を余儀なくされた。
それでも不動産屋とは3年の契約を済ませてしまっていたために、引くに引けない状況だった。
私はプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、悩みに悩んだが、ふと考えた。
日本に居た頃、2階の喫茶店からよく外を眺めていたことを思い出した。
喫茶店(カフェ)なら、その場で調理しない限り、下水処理設備を設置する義務は無いのだ。
留学生達がここに集まって語学の勉強をするかもしれない。
それと喫茶店脇のスペースに日本食料品を売るミニ・コンビニでもあれば、喫茶店に寄ったついでに食材なんかも買うかもしれないし、その逆もあるかもしれない、私はそう考えた。
私は一気に方向転換を決断した。
知人を介して紹介された内装業者にも真剣に相談した。
船舶の仕事は、船の入出港が無い限り土日は休みだったため、週末は妻や息子達と電化製品やテーブル等の家具、食器などを扱う店舗を足繁く回り、徐々に準備を整えた。
今思えば、それらの経費をどのように回していたのか?見当もつかない。
1992年10月、私達のカフェ&ミニコンビニ「ユーカリ堂」が開店した。
多くのスッタモンダを乗り越えての開店だった。
その頃、次男も長男と同じ小学校に通い始めており、授業が終了すると、近所のケアセンターのスタッフが彼らをピックアップし、夕方の6時頃まで面倒を見てくれた。
夫婦共稼ぎの多いシドニーで、それは素晴らしいシステムだった。
もちろん、私達夫婦にとっては最高だったが、息子達の英語学習にも申し分なかった。
朝、私は船舶の仕事に出掛け、妻は息子達を小学校に送ってから、11時に店を開ける。
夕方私が仕事から戻り、店の仕事を引き継ぎ、妻が息子達をケアセンターからピックアップして家に戻り、夕食や風呂、その他の家事をこなす。
私は夜10時に店を閉め、家に戻るというのが毎日の生活パターンだった。
ただ、私の仕事もあり、アルバイトを1人雇い、妻だけではやり切れない部分を補っていた。
私は良き友人に恵まれ、その友人が様々な面で私達家族や店の経営を支えてくれた。
初日の売上げは、なんと、たったの10ドルだった。
妻は、コーヒーの注文が数杯あっただけとちょっと寂しそうに言った。
それでも、何の広告も出さずに、自分達の店に客が来てくれたことが大きな喜びだった。
日本食材などは、船舶の仕事関係の卸業者から卸価格で融通して貰うことが出来たが、当初配達して貰うほどの発注はなく、また信用も無い中で、妻がオーストラリアの運転免許を取得して、開店前に郊外の倉庫まで商品を買い付けに行き、車と2階を何度も往復して運び上げた。
常に不安が付きまとう毎日だったが、それでも妻も私もワクワクしていた。
決して独立などと言えるものではなかったが、それでも私達の独立への第一歩だった。
つづく