シドニーへの移住 12 独立 ② | オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

「ユーカリ堂」は、留学生やワーキングホリデーの若者を中心に客が増え始めた。

階下の焼き肉レストランは、私の予想通り行列のできる隠れた人気スポットになっていた。

昼食のピーク終了後に、オーナーが札束を数えていたほどだ。

私は妻と共に考えた。

やはり食べ物を置かなければ客は集まらないし、正直儲からない。

だが、下水処理設備の問題で調理はできない。

となれば、法律に沿った形で何らかの対策を考えなければならなかった。

スナック・フード(その場で調理を伴わずに作れるメニュー)の提供は法律上何ら問題が無い。

そうだ! 調理したものをここで温めて出そう。

実際、残った晩のおかずを翌日電子レンジで温めて食べても美味しく食べることは可能だった。

「きのうのカレー」は、更に美味しくなることでよく知られている。

 

最初に ”定食屋” にしようと考えた時に、私はある程度の候補メニューリストを作成していた。

絶対流行ると思ったのは「牛丼」。

私は、学生時代はもちろん、社会人になってからもよく食べたし、牛丼屋はいつも混んでいた。

早稲田大学の西門の傍には ”三品” という牛丼専門店があり、いつも学生で賑わっていた。

 

ところが、多少問題があった。

一般に肉のブロックやステーキは売られているが、牛丼用の超薄切り肉を売っている店は無い。

包丁で裁いた肉では、私が考える牛丼には到底厚過ぎるのだ。

考えに考え、思い切って、私は本格的な肉のスライサーを購入してしまった。

20年前で、3,500ドルだった。

調理は自宅でする予定だったが、普通の家庭の我が家に配達した業者から握手を求められた。

ズンドー(大きな縦型の鍋)も購入した。

どれもが私達を支えてくれた同士であり、大切に扱い、今も我が家の戦力として活躍している。
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その頃、まだ船舶の仕事を続けていたため、肉は卸店から卸価格で購入出来た。

ブリスケットと言うあばら骨付近の牛肉を使ったが、多少脂身があり、牛丼には最適だった。

味付けは試行錯誤を繰り返し、ダシと醤油と砂糖でシンプルに煮込み、赤ワインを加えた。

日本の有名牛丼店が赤ワインを入れている聞いたことがあり、それを信じて真似てみたのだ。

最後に玉ねぎを入れて出来上がり、これが美味かったし、癖(クセ)になる味だった。

牛丼好きの私にして美味いと思うほどの出来だった。

それを冷凍し、電子レンジで温めてみたが、味が全体になじみ、出来立てよりも美味しかった。

 

よし!これならいける!

味噌汁と漬物付きで6ドル(500円)。

具をたっぷり乗せた大盛り牛丼を喫茶店のメニューに加えた。

またたく間に日本人留学生やワーキングホリデーの若者たちの話題になり、1ヶ月もしない内に炊飯器や電子レンジは2台ずつになった。

嬉しい悲鳴だったが、毎日閉店までに牛丼は売り切れてしまっていた。

そのため、巨大な冷凍用ストッカーを購入、塊の牛肉(ブリスケット)を大量にストックした。

売上も徐々に上向き、コンスタントにアルバイトも雇えるようになった。

 

私は仕事から戻ると家で牛丼作りに専念、小分けにして毎日100袋近くを冷凍ストックした。

ユーカリ堂では、毎日50食以上牛丼の注文があったが、私は毎週20kgの牛肉の塊を購入して、その塊を薄切りにスライスしなければならなかった。

 

近年は穀物で育てた牛肉が、WAGYU BEEFとしてオーストラリアでも売られるようになった。

それを薄切りにしてパック詰めにし、冷凍して販売したが、これが飛ぶように売れた。

豚肉も同様の形で販売したが、あっと言う間に売り切れてしまう。

断腸の思いで高額なスライサーを購入したが、私達にとっては、正に ”金のなる木” だった。

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この好調さは嬉しかったが、何か工夫をしなければ絶対に飽きられてしまうと思った。
次に挑戦したのは「お母さんのカレー」である。

カレーには豚肉の薄切りをどっさり入れ、ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎを入れて炒め、カレー粉は絶対に日本製のハウス・バーモントカレーと決めていた。

シドニーにはインド人も多く、スパイスや調味料は簡単に手に入ったが、それらを使わず、あまり凝った味にしないことが私の作戦だった。

留学生やワーキングホリデーの若者達は、きっとお母さんの作ったカレーが恋しいはずだ!

この読みも見事に当たった。

そして、日本の若者達の口コミは早かったし、それは本当に有難かった。

「若い人達はいつもお腹をすかしているんだから、大盛りで出してね!」

妻はアルバイトに、いつもそうハッパを掛けた。

あの当時、大型の炊飯器が2回転、3回転していたようだ。

 

船舶の仕事をしていたため、客船で働くコック長からも情報を仕入れることができた。

船でご馳走になったドライカレー(ひき肉を使った日本風キーマカレー)は絶品だった。

「客船の乗客が、豪華な食事に飽きる頃に出すとこれが喜ばれるんだよ!」

この秘伝のドライカレーは、今でも日本郵船の名物メニューになっているそうだ。

そのレシピを教えてもらい、教えられた通りに作ってみた。

正にプロの味と言えるドライカレーが出来た。

早速、メニューに加えた。

言うまでも無く、瞬く間に人気メニューになった。

折角ひき肉を使うならハンバーグも作ってみた。

デミグラソースで煮込んだ "煮込みハンバーグ" とポン酢と大根おろしをかけた "おろしハンバーグ" の2種、それに味噌汁とサラダとご飯を付けて出した。

みじん切りの玉ねぎを炒め、ひき肉に混ぜ、ナツメグや塩コショウで味を整え、ハンバーグの形にして焼き上げ、それをデミ蔵ソースで煮込み、小分けにして冷凍、それを電子レンジで温めて出し、おろしハンバーグはポン酢と大根おろしを混ぜて "たれ" を作り、冷凍した焼いただけのハンバーグを電子レンジで温め、それにたれをかけて出した。

この作業は大変だったが、このメニューも喜ばれ、大ヒットだった。

 

通常、20kgのひき肉でドライカレーやハンバーグを作り、小分けにしてストックした。

アルバイトは、炊飯器でご飯を炊き、電子レンジでおかず類をチンすればOKだった。

 

また、究極のメニューとして、納豆と生卵とご飯と味噌汁(納豆定食)をメニューに加えた。

長ネギも刻んでサービスした。

これが意外にヒットメニューになった。

 

忙しかったが、それでも、楽しかった。

10月に開店し、無我夢中で働き、アッと言う間に年末になってしまった。

夏のクリスマス、夏の大みそか、そして元旦・・・

バタバタしていたが、それなりに年末年始はワクワクするものである。

特にこの年はその思いも一入(ひとしお)だった。

 

私の本業の船舶会社では、クリスマスに大きなターキー(七面鳥)がプレゼントされる。

通常は、それをオーブンで焼いて食べるが、私はそのターキーをスンドーに入れ、醤油で味付けしてグツグツと煮込めば、贅沢で素晴らしいスープが出来上がった。

日本食料品のミニコンビニもやっていたため、卸店から大量の蕎麦(そば)を仕入れ、大晦日に日本の若者達のために ”年越し蕎麦” を1杯1ドルで出した。

そして元旦には、母が日本から送ってくれた "餅つき機" で大量に餅をつき、同じスープベースに野菜やかまぼこを加えて雑煮を作り、やはり1杯1ドルで出した。

もちろん、儲けなど度外視し赤字覚悟だった。

同じ顔が何度も店にやって来て、2杯も3杯も食べてくれた。

年末年始はほとんどの店が閉まっていたが、ユーカリ堂だけは日本人客で賑わった。

こうして慌ただしかった年が暮れ、新しい年が始まった。

 

年末年始にはコンビニの食材の売り上げも良く、全体の売り上げは記録的だった。

努力が徐々に実っているのを妻も私も感じていた。

 

オーストラリアでは元旦の翌日から通常の仕事が始まる。

1月2日、イミグレーション(移民局)から黄色い封筒が届いた。

「あなたの永住権申請は却下されました」

封を開けると、最初にそう書かれていた。

私は辞書を引きながら、何度も何度も読み返した。

それは、「私達の移住の夢は断たれた」という通知に他ならなかった。

 

つづく