移民局から届いた通知を前に、私や妻の上気していた気持ちは一気に冷めた。
と言うよりも、どん底に落とされたと言った方が適当だろう。
あの時、妻の瞼から流れた涙を私は忘れない。
信頼出来る仲間も交え、その通知を更に読み返した。
「あなたがたは、✕月✕日までにオーストラリアを出国しなければなりません」
「その日程をイミグレーションに知らせなければなりません」
そう明確に書かれている。
「この決定に対し、あなたはアピール(異議申し立て)が出来ます」
最後の部分には、そう書かれていた。
いずれにしても、船舶会社がスポンサーになっている以上、ボスに相談するしかなかった。
ボスは私の家族の状況をよく知っていたし、私の仕事ぶりも鑑み、とても親身になってくれた。
永住権申請を自分ですることも出来るが・・・
通常は弁護士を通じて行うのが一般的で、その時点で却下された申請に関して、私はその全てを会社に任せ切りで、申請前も申請中も一度も弁護士に会うことはなかった。
思い切って、ボスに相談し、弁護士を替え、アピールの手続きを進めることにした。
新しい弁護士は中国系の女性だった。
彼女は移民を対象としたTV局 ”SBS” のコメンテーターとして出演するような弁護士だった。
見るからに才女という感じで、テキパキと私に様々な資料の提出を求めて来た。
まずは大学の成績証明書だった。
早速、早稲田大学に連絡をし、その書類を取り寄せた。
日本での就職の際にも求められることは無く、こんな書類が大学に保管されていることを知らない私は、成績に関してはいささか無頓着であり、無知だった。
封がなされ開けられない印が押されていたが、政府公認の翻訳業者に英訳を依頼しなければならず、その中身を確認したが、考えていたよりも決して悪い成績ではなかった。
体育会ラグビー部として大学選手権などに出場した写真や新聞記事も弁護士に求められた。
次に日本での職歴証明書を求められた。
少しためらったが、私は日本で勤めたライオン株式会社人事部に連絡をした。
言ってみれば、私が裏切って辞めた会社であり、未だ私を覚えている社員も多いはずだ。
電話に出た女性が、男性の担当者に替わったが、案の定、ラグビー部の先輩だった。
そして、人事部長は私が働いていた時代に私を可愛がってくれた上司で、私の切羽詰まった状況を理解した上で私の相談に親身になってくれた。
その寛容さが私には有難かったが、天の助けと思うばかりだった。
私がこの会社においていかに有能な社員であったかを書いてもらう必要があった。
また、会社の業務はもちろん、ラグビー部に所属し、キャプテンとしてリーダーシップを発揮しチームを支えたことも重要だった。
他にも様々な書類を求められたが、ボスもこの船舶会社にとって私がいかに必要な人材であるかを弁護士と協議しながら、書類を作成してくれた。
女性弁護士は強い口調で「もっと大げさに!」と求めた。
とにかく、「私がオーストラリアという国にとっていかに必要な人材なのか!」を明確にアピール出来なければ、今回の異議申し立ては上手く行かないわよ!という強い意志が感じられた。
求められるものは全て提出したが、”まな板の鯉” 、後は待つ以外に無かった。
数か月後に弁護士から連絡があり、裁判所への出頭が求められた。
ボスと私は指定された日の指定された時間に、シドニーの中心街にある裁判所に出頭した。
もちろん、法廷に入るのは初めてだった。
法廷に入ると、若い女性が2人座っていた。
裁判官が登場したが、女性だった。
裁判官は審議に入る前に弁護士に話し掛けた。
「この2人は法律を学んでいるシドニー大学の学生で、法曹界に入る前に実際の現場で学んでいるところなのです。今日の審議を見学させてもらってもよろしいですか?」
弁護士が、強い口調でそれに応じた。
「今日の審議はあくまでもプライベートな用件であり、見学はお断りします」
裁判官は、「プライベートな問題こそ、彼らの勉強になるのです」と食い下がった。
結局、数分間のやり取りの末、2人は法廷から退出した。
私やボスは、裁判官の心象を悪くするのではないかと気が気でなかった。
欧米社会で自己主張の出来ない者は成功しないと言われているが、正にそんな感じだった。
女性弁護士が集められるだけの書類や資料を提出していたため、それらはすでに裁判官の知るところであり、審議は私が考えていたよりもスムーズに進んだ。
最後に裁判官から私に質問があった。
「あなたはラグビーをプレーしていたのですね、どのチームを応援していますか?」
「もちろん、ワラビーズです!」
私は胸を張ってそう答えた。
それから約2週間後、イミグレーション(移民局)から永住権取得の通知が届いた。
その後、指定の病院で簡単な健康診断を受けた。
その後、警察署に出頭し、両手の全指のフィンガープリント(指紋)が取られた時だった。
「ああ、これで安心して暮らせるんだよなぁ」
妻にそう話し掛けたことを私は今も忘れない。
つづく