今、食卓に小さなちょっと風変わりな猪口(ちょこ)がある。蕎麦をそばつゆ(汁)につけるには、少し小さすぎるかもしれない。ボクの夕食時のドブロクの盃として、愛用している。どうしたのかと、家内に聞いたら、娘がどこかに旅行したとき、求めたのだと言う。この猪口は、じゃが芋を二つに割った半分の形状であるが、不愉快そうな顔つきで渋面を作っている。なかなかの役者である。
じゃが芋といえば、春一番が吹けば、真っ先に取り掛かるのが、このじゃが芋の種芋の植え付けのための準備である。まだ、畑には雪が積もっている。それでも、この数日はお日さまが照って、だいぶ雪を解かし、雪嵩が減ってきた。北側の日の当たらない屋根の雪も概ね消えた。立春もとうに過ぎ、春分まで一カ月とない。もう旬日もすれば春一番の季節の到来である。
じゃが芋おちょこに話を戻そう。まあ、一般的には、じゃが芋顔と言うと、印象としては健康的で、ほんわかした笑顔の似合う、気持ちの豊かな性格の若者を思い出すものである。こんな渋い顔には、お目にかからないのだが・・・。まあ、ボクなりに解釈すれば、料理一つをとっても、どこにでもあるような平凡で、あまり自己主張がないはずである。日本の代表的な料理では、おふくろの味としての定番の肉ジャガやコロッケが思い浮かぶ。何の変哲もない、ありふれた存在ということだろうか。
西洋料理については、あまり詳しくはないが、たとえばドイツ料理などについては、ジャーマンポテトが思いつく。ゆでたジャガイモを適当な大きさに切り、バター・オリーブオイルなどで炒め、かりっと炒めたベーコンとタマネギを加えて、塩・こしょうで味付けしたものだが、ビールになくてならない料理である。
芋の種類で言えば、男爵薯とメークインが代表的である。男爵は丸くて芽のくぼみがある。一方メ-クインは楕円形でくぼみがほとんどない。どちらかというと、男爵には、じゃが芋らしい風情があると思う。家内は、男爵を指して「これは、コロッケ向きで、あちらは煮崩れしないからシチュウに好いわ」と言う。ボクは一向に気にしない。
ドイツは、農耕ジャガイモ文化とすれば、わが日本は、農耕米文化である。日本人の肌、米の肌のように艶があって、お米の一粒一粒に味わいがある。芋にもホクホク感とかがある。<ポテトチップス>にするか<おかき>や<あられ>にするかと問われると、ボクは正直迷うのだ。
今一度、ドブロクの話に戻すと、収穫したポテトで焼酎をつくるというプロジェクトを、ボクは温めている。お米から作るドブロクは経験済みだが、じゃが芋からつくる蒸留アルコールは、まだ経験がない。田舎で生活しながら、都会で経験できなかったことに挑戦してみようと思っている。
そういえば、ボクは田舎の人が、じゃが芋を馬鈴薯と呼んでいたから、長くそうなのだと信じていた。「日本の植物学の父」と言われる牧野 富太郎によると、ジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、馬鈴薯なるは、中国の福建省中の一地方に産する一植物の名にしか過ぎないと。ジャガイモを馬鈴薯などと言うは、馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっていると同じだと。ボクは、即刻この言いかたを止め、決して馬鈴薯などとは言うまい。
とりとめないことを考えてきたが、ここまで、じゃがいもの形をした、おちょこに幾杯、ドブロクを注いだものか。先ほどから、愚妻というか鬼嫁が、なんとも五月蠅い。ボクが、「酒は百薬の長」と口にすれば、
「適量なら人生の楽しみです。でも、あなたは、飲み過ぎるとあちこっちの人に電話をする。それは、人様に迷惑です。『酒は飲むべし飲むべからず』というじゃない。『飲むべからず』なのよ、これ以上は・・・」と口さがない。今宵は、ここまで・・・。
一杯人が酒を呑み
三杯酒が人を呑む
誰の言葉か知らねども
呑助肝に銘ずべし 菅茶山