「節義」というあまり聞きなれない言葉であるが、
なぜか晩節を気にするようになってあらためて意識している。
節義とは、
人としての正しい道を護り通すこと、節操と道義とある。
人生100年時代だからといって、高齢者が働いているわけではない。
「働く」という経験済みでもあり進行中の時間の果てに、未だその意味を見いだせないでいるだけである。
「正しく働いているだろうか?」「ただいるだけではないか?」「徒に生きていないか?」など。
そんなことを自問自答しながら、晩節を全うしたいと・・・今も動き回っている。
安岡正篤先生は、
「徒に生きないということは、節義を立てること」だと。
節義とは人の体の「骨」である。
その「骨」がなければ自分では立っていられない。
周囲からは「老害」だと揶揄されても仕方ないが、誰でもそういう時がやってくる。
だから、せめて後ろ姿を見せておこう。
「寒花晩節」
この言葉を思わせるような老人でいい。