死ぬいのちをかかえて | 道元のブログ

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ものの見方・考え方そして生き方に関すること。

新緑という新たな緑(いのち)が眩しい。

 

何の計らいもなく、自然のいとなみの流れのなかで消え去るいのちもある。

 

妻の葬儀が娘さんの手で執り行われている時、その妻の夫は病床に臥していた。

94歳になる同級生が亡くなった時、幼馴染のおばあさんはそのことを知らされずに入院していた。

車の中でラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いていた時、

後で奏者フジコ・ヘミングさんが亡くなられたニュースを知った。

 

「生きているということは

死ぬいのちをかかえて

いるということうれしいような

さびしいような愛しくて

ならぬこのなまあたたかい

生きているということの

肌ざわり」

 (東井義雄)

 

いつ訪れるかわからない「死」。

頭のなかではわかっているが、普段の生活の中では私のことにはなっていない。

 

「生きているということは、

少なくともわたしたちが気がついているくらいの、

あたりまえのことではないようだ。

生きているということのただごとでない底深さ、

根深さは、たとえ感傷的にでもいい、

知っておく必要がある。」

 (東井義雄)

 

わたしたちは「死ぬいのち」をかかえて生きている。

だから「生」そのものが当たり前でない、

ただごとではないということを知ることで、初めてうなずける。

「死ぬいのち」かあるからこそ、「今」(生)を・・・。