表題は社会福祉法人「同和園」の附属診療所所長中村仁一先生の5年前のベストセラーのパート2です。前作で同和園での数百以上の自然死を看取った体験から、「『死』という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。それを医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。………がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます」と自然死の勧めと、医療の死に対する過剰な関与に警告を発せられていました。
(2012.6.1 TheMidorikaiTimes vol.226 パート1の全文をこの後に掲載しておきます)
今回は自然死を肯定するのは勿論ながら、医療に次いで介護の過剰介入に警告を発するとともに、2025年問題(団塊の世代全員が75歳になり年金、医療保険、介護保険制度に重大な影響を及ぼす)に踏み込んだ提案をされています。昭和30年代頃までは死は自然に受け入れられ、ほとんどは家庭でかかりつけのお医者さんと家族が見送る、ものでした。ところが幸か不幸か(実際は不幸なことに)医療保険制度が普及し、老人ホームや特老などが比較的容易に利用できるようになって事情が一変したようです。
一つには医療と介護に対する過剰な期待が、最新の医療さえ受ければ回復する、適切な介護をすれば死なない、といった妙なマインドコントロールに日本中が侵されている。そのため本人以上に家族が過度な期待をし、医療も介護の現場もそれに応えようとして、ますます自然死を妨げているのが現状のようです。
先生のお考えを小見出しから拾ってみると、
「高度な医療は重度の障害者をつくる」
「死を先送りするだけの医療は受けるな」
「医療は『老い』と『死』には無力」
「ぼけの進行を遅らせる薬はない」
「どんなに頭を使っても、ぼける時はぼける」
「ぼけの完全な予防法は『ぼける前に死ぬこと』」以上医療に関する警鐘です。
次は介護に関する小見出しを挙げると、
「人間には穏やかに死ねるしくみが備わっている」
「『死に時』がきたら食べなくなるのは自然の摂理」
「自分でのみ食いできなくなれば『寿命』」
「“延命介護”は止めるべき」
「手を付けなければお膳はそのまま下げる」
「食事介助は“拷問”と心得るべし」
「『延命』は家族による合法的な“復讐”」
「“枯れる死”に協力する病院がやっと出てきた」などなど。
看取りにあたって医療者や介護職は勿論、家族も、守らなくて
はいけない鉄則として、
1“枯れる”自然の過程を邪魔しない(枯れて死ぬのが、一番自然で、楽で、穏やかなのです。
2 死にゆく人間に無用な苦痛を与えてはならない。
と結論付けます。
そして「2025年問題」
これに関連してまず、東京都立墨東病院救命救急センター部長の「週刊東洋経済」のインタビュー記事を紹介しています。
「救命救急センターは、本来突発的なケガや病気になってしまった人のうち、その程度が重症、重篤な人を扱う」
「高齢になると一つや二つの病気があって、つねに薬をのんでいたりするのは当たり前、そのような人が倒れたとしても、突発でも不測でもない」
「ここへ運ばれてくるような高齢者は、もともと状態が悪く、本人が顔をしかめるほどのつらい治療をしたところで、元気な状態には戻らない」
そこで「救命救急センターを利用できるのは70歳までとし、70歳以上で希望する人は、その医療費を全額自己負担してもらう」ことにしてはどうかという提案です。
これに対し中村先生は全面的に賛意を表し、年金制度、医療保険制度、介護保険制度、こんなにいい制度はありません。それを枯れ木状態やそれに近い年寄りが、いま、食い潰そうとしています。これらの制度を子や孫の世代に残してやるために、まず年寄りの幸せにつながっていない「長生かし」や「長生かされ」をやめること。そのためには、本人の幸せにつながらない「長生かし」を保険からはずし自費扱いとする。理由は、回復もせず、QOLの改善も無く死を先送りするのはそもそも医療の適応ではない。どんな姿でも生きていて欲しいというのは家族のエゴ、それに公的保険を使うのは問題、と言い切ります。
中村先生は77歳、私は79歳、これは他人事では無い、全く自分自身の晩年の大きな宿題となりました。そういう問題に私自身が直面したとき恐らく、私自身にそれを決め実行できる能力は失われているでしょう。一刻の猶予も無く今すぐに取り掛からねばと、考えています。いや考えていては手遅れになる、今すぐに取り掛からねば。
追伸 読書能力のある高齢者は、パート1、パート2ともに読んで下さい。自分と自分の家族のため、日本の近未来の為に。
--------------------------------------------------------------------------------
大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ(パート1)
表題は、社会福祉法人「同和園」の附属診療所所長中村仁一先生のベストセラーです。「老人ホーム勤務も12年目に入り、最後まで点滴注射も、酸素吸入もいっさいしない『自然死』を数百例もみせてもらえるという、得がたい体験をしました。」と、著書の「はじめに」に謙虚に書いておられます。単なる医療批判かなと思って読み出したのですが、「はじめに」だけを読んで、すでにショックでした。「目からうろこ」とはこんなことなのでしょうか。その「はじめに」をちょっと抜粋してみます。
………ですから、ほとんどの医者は、「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいく姿を、見たことがありません。だから死ぬのにも医療の手助けが必要だなどと、いい出すのです。「死」という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。それを、医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。
………がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます。以前から「死ぬのはがんに限る」と思っていましたが、年寄りのがんの自然死、60~70例を経験した今は、確信に変わりました。繁殖を終えた年寄りには、「がん死」が一番のお勧めです。ただし、「手遅れの幸せ」を満喫するためには、「がん検診」や「人間ドック」などは受けてはいけません。………
………本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。不具合のほとんどは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。………
………人間は、生きものである以上、老いて死ぬという運命は免れません。最先端医療といい、再生医療といい、所詮、「老いて死ぬ」という枠内での話です。年寄りは、あまり近づかない方がいいと思います。………
………年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。しかし、「逝き方」は「生き方」なのです。今日は昨日の続きです。昨日と全く違う今日はありえません。ということは、今日の生き方が問われるわけです。今の生き方、周囲へのかかわり方、医療の利用の仕方、これらが、死の場面に反映されるということです。………
お医者さんも知らない貴重な「自然死」を、私は幸い?な事に2度体験しています。最初は、母方の祖父です。滋賀県は真野の母の実家に疎開していた小2の時でした。夜中に起こされて、死に水をとらされました。81歳でした。子供心に恐かった記憶はありますが、その前後に本人も家人も騒いでいた記憶は全くありません。本当に静かでした。2度目は母方の祖母、95歳でしたが、直前1ヶ月はまったく食を受けつけず、水だけで過ごし文字通り骨と皮だけになって静かに旅立ちました。しかし、「さとねーちゃん」(叔父の妻)は大変だったんだろうなあ、と今だから思います。その叔母も叔父もすでにいません。父母も残念ながら病院死です。
「目からうろこ」は実はここからなのです。私は人間ドックを50歳前から毎年受けて、今年もすでに予約を入れています。おおよそ30年の間、おおむね良好という診断を受けて、安心しているようですが、さて、今年、後期高齢者の仲間入りをする年になって、ドックにどんな意味があるのかなと首をひねっています。
もう一つの「目からうろこ」は、ついこの間まで私達の先祖は「逝く」も「看取る」ことも「弔う」ことも当たり前に自前でやってきました。ところが、いつの間にか、病院や葬儀社に任せるのが当たり前のような環境になっています。仕事を人手に渡すのは一見、楽なようですが、そのために思考停止におちいり、自分の責任まで放棄しているのではないのかなとも思えます。一度立ち止まってしっかりと考えてみることにします。