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行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

我が家の床の間のガラスケースに、平櫛田中作の金色の恵比寿さんが収まっています。そのそばには

 

「六十、七十ははなたれこぞう おとこざかりはこれからこれから 寿 八十扇田中」

 

と書かれた額が置かれています。40年前、現在の住所に移転したとき、祝いに友人がおくってくれたものです。当時八十歳になったときに、20年以上使える木材を買い込んだ彫刻家として広く報道されていた記憶があります。八十歳といえば人生の終末期、そのとき20年以上、情熱を持って仕事をする意欲、情熱、体力にすごいなぁ、と思っていました。

 

812日(土)7時、最近評判の「焼肉弘祇園店山名庵」に息子、娘夫婦が私たちを招待してくれました。なんと私の一足早い「傘寿祝い」だそうです。私の誕生日は93日なのですが、横浜に住む娘夫婦と大学生の孫息子、孫娘がお盆休みに我が家に帰省するのに合わせて、開いてくれたようです。年寄り二人だけではついつい肉は敬遠しがちですが、今回は久しぶりに上等の美味しい肉を堪能しました。「山名庵」は百年以上の歴史ある料理旅館「祇園山名」を継いだ由緒ある風情に満ちた建物でした。また山名家は「応仁の乱」の一方の主役、山名宗全の後裔とパンフレットに書かれているのを読んで二度びっくり、京都はまだまだミステリーに満ちています。

 

傘寿直前の現在の私、頗る快調です。毎年行っていた人間ドックは5年前にやめました。その代わり年2回の血液検査を近所の医院で受けています。毎朝1錠ずつの高血圧と中性脂肪の薬は飲んでいるものの、5年間毎回先生の笑顔とともに、「パーフェクト」の声が返ってきています。60歳前後、結構長い間悩まされていた、腰痛、膝痛が今はどっかへ消えています。昨年呉とニューヨークで味わった「脊柱管狭窄症」もその後影をひそめています。なぜか良くわかりませんが、一つは10年くらい前に30年続けていた朝の散歩を、「歩いても筋力つかんよ」と言われて、小一時間の「筋トレ」に代えたこと。最大の理由はピーク73キロあった体重が現在は59キロから60キロ、腹がへこんで立ち姿勢、歩く姿勢が良くなったからでは、と思っています。

 

さてこれからの私、平櫛田中ばりに「おとこざかりはこれからこれから」と力むつもりはありませんが、少なくとも5年は現状を変えることなく、現在の優秀なスタッフの助けを受けながら、皆様の経営のお役に立てるものと思っています。特にここ5年、10年世界は大きな変革期に入るのではないか、と思われてなりません。米、中、欧、アラブ世界の政治の変化は予測不能ですが、産業技術は確実に一大転換を遂げます。ひとつはAI(人工知能)の発展、いま一つは内燃機関が世界から消えます。今からその時を考えてわれわれの事業も変えてゆかねばなりません。ピンチはチャンスです。年齢のことは一切気にせずいつでもなんなりとお申し付けください。すぐ飛んでゆきます。

 

今年のお盆休みの私のスケジュール

 

111430 PM、近畿税理士会の「ディズニーオンアイス鑑賞会」、大阪城公園の大阪城ホール、夫婦で行って童心に返ってきました。

12日 一足早い傘寿祝い。

14日 娘夫婦と京都ゴルフ上賀茂コースで1ラウンドプレイ、久しぶりにハーフ40台が出ました。

15日 孫2人と買い物の後、千本釈迦堂へ、応仁の乱以前から残る京都最古の本堂にお参りして来ました。

16日 娘と孫と一緒に大原の「里の駅」に野菜の買いだし、彼らが帰った後、夫婦で「音戸山畑善」で大文字鑑賞、去年は雨でさんざんでしたが、今年は鮮やかに「大」の字が浮かび上がりました。結構あわただしい、楽しい盆休みでした。

 

プライベートでは「スミス英会話」のフランチャイズのイギリス人、ピータ先生と付き合いが始まって何年になるでしょうか。未だ週150分のレッスンに行っています。昨年からCSフォレスターの「ホーンブロワー・シリーズ」8巻を原書で読んでいます。ナポレオン時代のイギリス海軍士官の物語、訳本で何十年前に読んでいるので、あらましは分かるのですが、なかなか進みません。死ぬまでにはせめて一つぐらいの外国語をマスターしたいと思っています。もう一つはゴルフ、川端今出川下がるのインドア、月4回のレッスンつきコースに通っています。今からシングルは無理でも、エージシュートは向こうから近づいてくるのではと思っています。

火曜日の7時に4チャンネルで「この差って何ですか?」という番組があります。ニュースとスポーツ中継以外は滅多にテレビを長時間見ることはないのですが。番組では街頭で男性にインタビューしていました。「あなたの配偶者をどんな呼び名で紹介しますか。」が質問です。話はまったく変わりますが、以前から若い人(私から見て若いだけで充分おじさんな人たちですが)がご自分の連れ合いを「ヨメ」と発言する人が結構多いことに、何とはなしに違和感を覚えていました。滅多に見ないテレビ番組を熱心に見たのには、多分この違和感が少数派なのか多数派なのか確かめたかった、のかも知れません。

 

「ツマ」

「ヨメ」

「ニョウボウ」

「オクサン」

「カナイ」

「カミサン」 など

 

人によってまちまちで特に片寄りはなかったように思いますが、番組の趣旨が多数派探しでなく、外国人に「ワイフ」だけじゃないよ、と解説していたせいかも知れません。面白かったのはそれぞれの出典と言葉が生まれた背景でした。うろ覚えと新聞の片隅に書いたメモだけなので正確でないことを承知の上で書いてみます。

 

まず「ツマ」

古くは古事記に出てきます。もっとも夫、妻ともにツマと発音し、当時は婚姻制度はありませんので、親もしくは家族に認められた「ツレアイ」を意味します。万葉集にも「ツマ」は多数出てくるようです。明治民法には「………妻は婚姻に因りて夫の家に入る」という表現があったようですが、現民法にはありません、男女同権のせいでしょうか。

 

「ヨメ」

1275年に書かれた「名語記」に「子息の妻をよめとなつく」と

あり、また一説には両親が近所の人に、息子に「良い女」が来て

くれた、ヨいメが省略されて「嫁」となった、という説もあるよ

うです。

 

「ニョウボウ」

平安時代の貴族は、妻以外に食事など身の回りの世話をする使用人を家に住まわせていました。その使用人の女性が住む部屋を「女房」と呼んでいました。そしていつの間にか使用人の女性のことを「女房」と呼ぶようになった。から正しくは使用人の女性。

 

「オクサン」

1562年「北条幻庵覚書」に書かれている「奥方」は奥の方の部屋を表す言葉。身分の高い屋敷の主はパートナーを奥の方の部屋に住まわせていた。屋敷のみんなは敬意をこめて「奥方」と呼んだ。それが「奥様」「奥さん」と変化した。

 

「カナイ」

明治時代に会社制度が誕生。それまで百姓、町民など庶民は家で共働きなのが男は外へ出て働くようになった。そこで外で働く人がパートナーを「家を守る人」、「家にいる人」という意味で「家内」というようになった。

 

「カミサン」

もともと目上の人を指す言葉。「上様(カミサマ)」が変化して出来たもの。「カミサン」は自分より偉い人を指す尊敬語。

 

改めてもともとの意味を整理しますと、

 

「嫁」    息子のパートナー

「女房」   使用人の女性

「奥さん」  奥の方の部屋に住む女性

「家内」   家の中にいる人

「カミサン」 目上の人

 

となってしまいました。歴史的にも由緒正しい日本語で、法律にも使われたのは「妻」だけ。さて皆さんはご自分の連れ合いをどんな呼び方でご紹介されていますか。私も何を使っているか、その時々で違うような気もするのですが、「家内」が多いように思います。とすれば明治時代の感覚から進歩していない感じ。反省して正しい日本語を使うように心がけます。

表題は社会福祉法人「同和園」の附属診療所所長中村仁一先生の5年前のベストセラーのパート2です。前作で同和園での数百以上の自然死を看取った体験から、「『死』という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。それを医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。………がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます」と自然死の勧めと、医療の死に対する過剰な関与に警告を発せられていました。

2012.6.1 TheMidorikaiTimes vol.226 パート1の全文をこの後に掲載しておきます)

 

今回は自然死を肯定するのは勿論ながら、医療に次いで介護の過剰介入に警告を発するとともに、2025年問題(団塊の世代全員が75歳になり年金、医療保険、介護保険制度に重大な影響を及ぼす)に踏み込んだ提案をされています。昭和30年代頃までは死は自然に受け入れられ、ほとんどは家庭でかかりつけのお医者さんと家族が見送る、ものでした。ところが幸か不幸か(実際は不幸なことに)医療保険制度が普及し、老人ホームや特老などが比較的容易に利用できるようになって事情が一変したようです。

 

一つには医療と介護に対する過剰な期待が、最新の医療さえ受ければ回復する、適切な介護をすれば死なない、といった妙なマインドコントロールに日本中が侵されている。そのため本人以上に家族が過度な期待をし、医療も介護の現場もそれに応えようとして、ますます自然死を妨げているのが現状のようです。

 

先生のお考えを小見出しから拾ってみると、

 

「高度な医療は重度の障害者をつくる」

「死を先送りするだけの医療は受けるな」

「医療は『老い』と『死』には無力」

「ぼけの進行を遅らせる薬はない」

「どんなに頭を使っても、ぼける時はぼける」

「ぼけの完全な予防法は『ぼける前に死ぬこと』」以上医療に関する警鐘です。

 次は介護に関する小見出しを挙げると、

「人間には穏やかに死ねるしくみが備わっている」

「『死に時』がきたら食べなくなるのは自然の摂理」

「自分でのみ食いできなくなれば『寿命』」

「“延命介護”は止めるべき」

「手を付けなければお膳はそのまま下げる」

「食事介助は“拷問”と心得るべし」

「『延命』は家族による合法的な“復讐”」

「“枯れる死”に協力する病院がやっと出てきた」などなど。

 

看取りにあたって医療者や介護職は勿論、家族も、守らなくて

はいけない鉄則として、

 

1“枯れる”自然の過程を邪魔しない(枯れて死ぬのが、一番自然で、楽で、穏やかなのです。

2 死にゆく人間に無用な苦痛を与えてはならない。

と結論付けます。

 

 そして「2025年問題」

これに関連してまず、東京都立墨東病院救命救急センター部長の「週刊東洋経済」のインタビュー記事を紹介しています。

 

「救命救急センターは、本来突発的なケガや病気になってしまった人のうち、その程度が重症、重篤な人を扱う」

 

「高齢になると一つや二つの病気があって、つねに薬をのんでいたりするのは当たり前、そのような人が倒れたとしても、突発でも不測でもない」

 

「ここへ運ばれてくるような高齢者は、もともと状態が悪く、本人が顔をしかめるほどのつらい治療をしたところで、元気な状態には戻らない」

 

そこで「救命救急センターを利用できるのは70歳までとし、70歳以上で希望する人は、その医療費を全額自己負担してもらう」ことにしてはどうかという提案です。

 

これに対し中村先生は全面的に賛意を表し、年金制度、医療保険制度、介護保険制度、こんなにいい制度はありません。それを枯れ木状態やそれに近い年寄りが、いま、食い潰そうとしています。これらの制度を子や孫の世代に残してやるために、まず年寄りの幸せにつながっていない「長生かし」や「長生かされ」をやめること。そのためには、本人の幸せにつながらない「長生かし」を保険からはずし自費扱いとする。理由は、回復もせず、QOLの改善も無く死を先送りするのはそもそも医療の適応ではない。どんな姿でも生きていて欲しいというのは家族のエゴ、それに公的保険を使うのは問題、と言い切ります。

 

中村先生は77歳、私は79歳、これは他人事では無い、全く自分自身の晩年の大きな宿題となりました。そういう問題に私自身が直面したとき恐らく、私自身にそれを決め実行できる能力は失われているでしょう。一刻の猶予も無く今すぐに取り掛からねばと、考えています。いや考えていては手遅れになる、今すぐに取り掛からねば。

 

追伸 読書能力のある高齢者は、パート1、パート2ともに読んで下さい。自分と自分の家族のため、日本の近未来の為に。 

 

 

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大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ(パート1

 

表題は、社会福祉法人「同和園」の附属診療所所長中村仁一先生のベストセラーです。「老人ホーム勤務も12年目に入り、最後まで点滴注射も、酸素吸入もいっさいしない『自然死』を数百例もみせてもらえるという、得がたい体験をしました。」と、著書の「はじめに」に謙虚に書いておられます。単なる医療批判かなと思って読み出したのですが、「はじめに」だけを読んで、すでにショックでした。「目からうろこ」とはこんなことなのでしょうか。その「はじめに」をちょっと抜粋してみます。

 

………ですから、ほとんどの医者は、「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいく姿を、見たことがありません。だから死ぬのにも医療の手助けが必要だなどと、いい出すのです。「死」という自然の営みは、本来、穏やかで安らかだったはずです。それを、医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのです。

 

………がんでさえも、何の手出しもしなければ全く痛まず、穏やかに死んでいきます。以前から「死ぬのはがんに限る」と思っていましたが、年寄りのがんの自然死、6070例を経験した今は、確信に変わりました。繁殖を終えた年寄りには、「がん死」が一番のお勧めです。ただし、「手遅れの幸せ」を満喫するためには、「がん検診」や「人間ドック」などは受けてはいけません。………

 

………本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。不具合のほとんどは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。………

 

………人間は、生きものである以上、老いて死ぬという運命は免れません。最先端医療といい、再生医療といい、所詮、「老いて死ぬ」という枠内での話です。年寄りは、あまり近づかない方がいいと思います。………

 

………年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。しかし、「逝き方」は「生き方」なのです。今日は昨日の続きです。昨日と全く違う今日はありえません。ということは、今日の生き方が問われるわけです。今の生き方、周囲へのかかわり方、医療の利用の仕方、これらが、死の場面に反映されるということです。………

 

 お医者さんも知らない貴重な「自然死」を、私は幸い?な事に2度体験しています。最初は、母方の祖父です。滋賀県は真野の母の実家に疎開していた小2の時でした。夜中に起こされて、死に水をとらされました。81歳でした。子供心に恐かった記憶はありますが、その前後に本人も家人も騒いでいた記憶は全くありません。本当に静かでした。2度目は母方の祖母、95歳でしたが、直前1ヶ月はまったく食を受けつけず、水だけで過ごし文字通り骨と皮だけになって静かに旅立ちました。しかし、「さとねーちゃん」(叔父の妻)は大変だったんだろうなあ、と今だから思います。その叔母も叔父もすでにいません。父母も残念ながら病院死です。

 

「目からうろこ」は実はここからなのです。私は人間ドックを50歳前から毎年受けて、今年もすでに予約を入れています。おおよそ30年の間、おおむね良好という診断を受けて、安心しているようですが、さて、今年、後期高齢者の仲間入りをする年になって、ドックにどんな意味があるのかなと首をひねっています。

 

もう一つの「目からうろこ」は、ついこの間まで私達の先祖は「逝く」も「看取る」ことも「弔う」ことも当たり前に自前でやってきました。ところが、いつの間にか、病院や葬儀社に任せるのが当たり前のような環境になっています。仕事を人手に渡すのは一見、楽なようですが、そのために思考停止におちいり、自分の責任まで放棄しているのではないのかなとも思えます。一度立ち止まってしっかりと考えてみることにします。

 

 

 

同志社会計人会という集まりがあります。設立からほぼ20年になります。他の大学にも会計人会はたくさんありますが、会員は税理士、会計士に限られています。なかには税理士、会計士と別々に組織しているところもあるようです。同志社は比較的自由で、会計に携わっている人ならOKで、税理士、会計士のみならず一般会社の経理マン、監査役、税務署職員など多士済々です。私も2003年から2004年まで会長を務めていました。またその当時から始めた寄付講座、「企業経営と税理士・公認会計士業務」もすっかり定着し、学生の人気授業になっているようです。(2004.10.1 The MidorikaiTimes  Vol.134

 

さて表題のツアー、高橋新会長の提案で始まりました。48日東京八重洲口バス乗り場に午前930分集合、小雨の中バスに乗り込むとほぼ満席、百合野先生と数年前、早稲田に移られた松本先生の顔も見えます。会員の奥様や友人も数人おられるとのこと、予想外の大人数でした。

 

まずバスが向かったのは、新島襄の生誕地、安中藩上屋敷跡。皇居のすぐ近く神田錦町にありました。新島襄は安中の田舎の生まれではなく生粋の江戸っ子、神田っ子だったのですね。跡地には「新島襄先生生誕之地」という石碑と、その説明文の書かれたものが残されています。そして非常に興味があるというか、皮肉なことというか、同敷地には学士会館が建っています。その説明書きの題に「我が国の大学発祥地」と書かれ東大がここで産声をあげたこと。そしてこの学士会館は東大、京大、東北大、九大、北大、阪大そして名大と旧七帝国大学に、京城、台北を加えた九帝国大学の卒業生で組織された学士会がその事業の一つとして建設し経営に当たっている、と書かれていました。

 

そしてバスは小雨の中、次の目的地大磯へ向かいます。大磯は新島襄終焉の地、百足屋旅館の跡地です。同志社大学設立運動中の188911月、群馬県、前橋で倒れ、この旅館で静養しますが1890123日死去します。新島襄47年の生涯をバスは一気に3時間ほどで駆け抜けました。大磯の旧国道沿いの一角に、低い石垣に囲まれ、手入れのされた樹木に覆われた百坪足らずの土地に「新島襄先生終焉之地」の石碑と説明文がありました。どういう方がこの地を残し、どんな方が今この場所の世話をなさっているのか、感慨深いものがありました。

 

大磯プリンスホテルで昼食のあと、シャンシャンと降る雨の中、バスは八王子、高崎を経て安中へ向かいます。2時間余りのドライブのあと、安中に到着する頃には幸運にも雨が上がっていました。安中市指定史跡「新島襄旧宅」は藁葺の二軒長屋、うち一軒は資料室と管理人室、他の一軒は昔の儘の土間が残っていました。自然光だけの薄暗い中に、囲炉裏と炊事場その前にお膳が数膳置かれていました。片隅に張り紙が、良く見ると、

 

「炊事場の心得」

◎炊飯時

◎千の薪より蓋一つ

◎始めチョロチョロ中パッパ、赤子泣いても蓋とるな

    ・・・・・・・・

 

 

 最後は「安中教会」、明治7年帰国した新島は直ちに安中に向かい、両親と10年ぶりの再会を果たしますが、牧師としての任地である神戸に赴くために、安中には3週間しか滞在出来ませんでした。しかしその間に30名以上の人々に洗礼を授けたそうです。神仏への信仰が強固であったろう土地の人々に対し、新しい思想を伝えた新島の強固な信念と説得力に驚かされました。安中教会はそれらの人々が3年後の明冶11年に建てた、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会だそうです。現在の建物は3代目で、大正8年に建てられた大谷石造の立派なものでした。帝国ホテルに5年先立つこの石造建築は、建築史上の意義が高いものだそうです。

 

現在の安中教会の牧師は、同大神学部卒業で京都伏見生まれだそうです。1時間余りこの建物のことを始め、新島の脱国、上海から米国へ渡ったワイルドローヴァー号のオーナー、ハーディ夫妻との出会いなど、また帰国後の言動などを改めて聞くにつけ、新しい感慨が生まれてきました。21歳の青年が単身海を渡り、運にも恵まれてアメリカで10年間もの高等教育を受け、維新政府への任官を拒み、日本での政府の息のかからない教育にその一生を投じました。その当時発足した大学は国立、私立をとわず官吏、学者、経済人を育てるという具体的な社会の要請に応えるものでした。しかし新島は一人「人を育てる」ための大学を目指しました。同志社には今も色濃くその心が流れています。そんな恩恵の一つを私も受けている、ことを再確認しました。

 

同志社会計人会、来年は出国の地、函館へ、再来年はアマースト大学へと計画しているそうです。今から楽しみにしています。

 

321日、大相撲春場所10日目エディオンアリーナ大阪(大阪府立体育館)へ行って来ました。今場所は稀勢の里ブームで前売りは即日完売だったのですが、幸運にも桝席A(砂かぶりから10列目ぐらい)という願ってもないチケットを入手出来ました。入口でチケットを示すと係りの女性が席まで案内してくれます。丁度、幕内土俵入りの直前です、席につくと「後でお茶をお持ちします」とのこと、ちょっとしたビップ気分を味わうことが出来ました。一息ついて横綱土俵入り、三横綱それぞれ立派でしたが、稀勢の里の柏手がパチンとひときわ大きかったのは気のせいだったのでしょうか。

 

中入り後2番手の鳥羽高出身の「宇良」、大関返り咲きをかけた「琴奨菊」、稀勢の里と同部屋で10連勝をかけた「高安」、1敗の「照ノ富士」と気になる力士が次々と勝ち名乗り、横綱「鶴竜」が3敗目を喫したあと、「稀勢の里」が「玉鷲」を堂々の寄り切り。1差の「照ノ富士」がちょっと気になるものの、「稀勢の里」の二場所連続優勝間違いなしと、安心して帰路に就いたのですが。13日目に奇跡の物語の序章、異変が起こります。みなさん良くご存知の話を承知の上で再現しますと。

 

13日目結びの一番、今場所横綱初対決、全勝の「稀勢の里」、すでに3敗の「日馬富士」。立ち合い、先輩横綱の意地をかけてのすさまじい気迫で一気に出た「日馬富士」に「稀勢の里」は寄り倒されます。そのあと顔をしかめて左肩を押さえて立ち上がれません。すぐ救急車で入院したようですが休場の二文字がちらつきました。

 

14日目、10勝しての大関復帰にあとが無い「琴奨菊」と1敗で「稀勢の里」と並んだ「照ノ富士」。好勝負を期待する場内の期待に水を差す注文相撲「照ノ富士」は右にかわって「はたき込み」。大ブーイングが場内に沸き起こりました。結びは「鶴竜」と「稀勢の里」負傷を押して出場したものの、なすすべも無く完敗。日経新聞では「賜杯への未練、休場をよしとしない美学、綱の責任感。様々な思いを込めた決断だったのだろう。だが弱った姿を満天下にさらして判官びいきを誘い、あげく相手にまで気を使わせては、かえって「『横綱の威』を毀損することにならないか。」と散々な批評まで出ていました。

 

さて千秋楽「稀勢の里」が優勝するには、本割と優勝決定戦と2番続けて「照ノ富士」に勝つしかありません。鶴竜戦の状態から見てそんなことはあり得ない、むしろ今後を考えれば休場が妥当とほとんどの人は思っていたことでしょう。ところがあり得ないことが起こるから人生は面白い。涙の表彰式は日本中すべてに感動を与えました。

 

さて問題はこれからです。20015月の千秋楽、「貴乃花」と「武蔵丸」。貴乃花が足のケガをおして出場し本割ではなすすべもなく敗れて132敗、武蔵丸と並びました。優勝決定戦では鬼気迫る表情で上手投げに仕留め優勝はしたのですが、7場所休場の後引退に追い込まれました。その後日本人横綱は稀勢の里が初めて、モンゴルの3横綱と共に来場所元気な姿を土俵上で見たいものです。

 

外国人力士が土俵をにぎわせたのはまずハワイ勢、先頭をきったのは「小錦」です。「小錦」と「千代の富士」の初戦を私は奇しくも蔵前の国技館で見ています。1984年秋場所14日目、横綱「千代の富士」94敗、前頭筆頭「小錦」113敗。見た目、倍ぐらいに見える「小錦」に4突き5突きで土俵外に吹っ飛ばされました。こりゃ相撲にならんと危機感を覚えたものですが、翌日の新聞は「黒船再来」などと書きたてていました。「小錦」が横綱昇進に外国人に差別があると不満を漏らしたようなことがあったように思いますが、その後、「曙」「武蔵丸」と昇進して今では問題ないようです。

 

「朝青龍」の土俵内外のマナー、「白鵬」がときどき繰り出す横綱らしくない猫だましなどの奇手、今場所の大関「照ノ富士」のはたき込みなど、モンゴル勢は品位にかけるなどの批判もありますが、日本人の横綱が堂々とそのお手本をみせて行けばおのずと良くなって行くでしょう。そういう意味でも稀勢の里への期待は大いにたかまっています。また高安や遠藤など若手の力士の台頭が待たれます。ふと思い出して昔のThe MidorikaiTimesを引っ張り出すと、No.7199311月に「『米と鯨』~曙の三連覇に思う~」と題して書いていました。

 

 

The MidorikaiTimes No.7 より

「米と鯨」~曙の三連覇に思う~

今日、1121日で大相撲も今年の千秋楽。横綱曙の優勝で打ち初めとなりました。一時は小錦の横綱昇進問題で大相撲の国際化?に疑問符がついたりしましたが、曙の昇進と三連覇で、まずは目出たし目出たしです。

 ところで、国際化と一口にいいますがアプローチの仕方に決定的な違いがあることを認識しておかないととんでもない誤解を生じます。一つは世界の価値観に100%同化して行く方向と、もう一つは、日本の価値観を100%主張し、世界に向かってそれを理解してもらうのに全力をあげる方向です。

前者の代表的な例が柔道であり、後者の典型は大相撲でないかと考えます。柔道は、もともと相手の死命を制する武術から“体重別を取り入れる“判定を受け入れる”など(世界の価値観に合わせる)ことで、世界中に普及しました。

 相撲は、日本の文化として伝統を重んじ、外人の受け入れはしても、彼らに伝統としきたりに従うことを要求しました。横綱曙と大関小錦の差は、日本文化の理解度の差とでも云えるのではないでしょうか?

 「米」、「鯨」、「税制」、「系列」、「入札」などなど、21世紀に向けて世界の価値観を受け入れるか(柔道型)、日本の文化を主張するか(相撲型)どちらかに決めなければならない問題が山積しています。

 「有利か不利か」「正しいか正しくないか」の議論に片寄って、私達がどういう主張をするのかということが欠落しています。「どちらが正しいか」でなくて、私達が「どちらの道をとるのか」の選択だと思います。選択した上で、メリット・デメリットをしっかり覚悟した上ですべての施策を講じるべきだと考えます。

 ちなみに米と鯨に関しての個人的な意見は、「米は柔道」・「鯨は相撲」だと考えています。