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行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

 クリント・イーストウッドと言えば私の世代では、あの著名なテレビ西部劇「ローハイド」の若きカウボーイ、ジェスが瞼に浮かび上がって来るのですが、いつの間にか、ずしんとした感動を与える大監督に変身していました。「父親達の星条旗」と「硫黄島からの手紙」という二部作を見て、最近のアメリカ映画には珍しい知性を感じたのですが、「INVICTUS負けざる者たち」を見て、また新しい感動を覚えました。

 

 今年、サッカーのワールドカップが南アフリカで開催されます。これに先立つ15年前、アパルトヘイト撤廃直後の南アでラグビーのワールドカップが開催され、アパルトヘイト故に世界から締め出されていた南アが優勝したのは、かすかに記憶にあったのですが、こんなに素晴らしい話が隠されていたとは。  南アのアパルトヘイト(人種隔離政策)は遠い世界(時間も距離も)の出来事のように思っていましたが、この映画を見ると、今、我々が直面している問題との相似と、現実の日本と南アの現状との格差に愕然としました。映画は「1995年のワールドカップで奇跡の優勝を果たした南アフリカ。その裏には、同国初の黒人大統領になったネルソン・マンデラが白人のスポーツとして黒人の多くが嫌っていたラグビーを通じて人種対立の克服を目指す姿…」(京都新聞)を描いてはいるのですが。


 冒頭、27年間、政治犯として投獄されていたネルソン・マンデラを乗せた車が行く道の片側には、黒人のスポーツ『サッカー』に裸足で興じる黒人達。希望の星、マンデラの車を追うように金網によじ登って「マディバ、マディバ………」と歓声をあげる。背景に写るのは見るからに貧しい黒人居住区、多分現在も同じような風景なのでしょう。その向かい側では、芝生のグラウンドにクラブハウス、白人が彼等のスポーツ『ラグビー』を中断して「屈辱の歴史の始まり」とつぶやくコーチの言葉を前にうなだれ立ちすくんでいます。黒人の期待と白人の恐怖、その狭間を行くマンデラ。この映画のテーマと、いまに続く南アの苦悩を一発で切り取ったシーンでした。


 1960年代から始まったアフリカ諸国独立の過程で、ほとんどの国が黒人単独支配体制を取り、白人を追い出しました。その結果、白人の持っていた国家運営のノウハウは失われ、黒人支配層の独裁に陥ってゆく。独裁の行く末は支配層の腐敗、国造りの理念の消滅、批判は圧殺され、貧しい大衆の生活は放置され、経済崩壊、多くの国家が破綻したまま21世紀を迎えています。ここまで書いて突然話は変わりますが、ここ最近の国会中継を見ていると、政治主導、官僚排除と威勢はいいのですが、無知な素人大臣の答弁を聞くたびに、日本が20世紀のアフリカ諸国になりそうな恐怖を感じています。


 マンデラはアフリカ諸国の現実を見抜き、国造りには健全な経済の確立が不可欠、独裁はその最大の敵であり、白人の技術や経験による協力は欠かせないと考えます。マンデラの着任とともに左遷や弾圧をおそれ、大統領府を去ろうとする政府職員に新しい国造りの理想を語り、諄々と協力を訴えるマンデラ。もっとも象徴的なシーンは、大統領護衛班の増員を求められ、配属されたのは元白人のシークレットサービス、マンデラ派生え抜きの黒人ボディガードが「あなたを狙ってた奴らだ!」と息巻くのを「優秀な人材を色や過去で区別しない、全ては赦すことからしか始まらない。」と説くマンデラ。


 そして、白人支配の象徴の様なラグビーチームとそのキャプテン、ピナール(実在の人物)との交流から、ONE TEAM ONE COUNTRYの標語のもと、ラグビーのワールドカップを民族融和に繋げてゆく情熱と手腕。実際に試合が行われたエリスパーク・スタジアムで撮影されたスプリングボクス(南ア)とオールブラックス(NZ)の決勝戦で最高に盛り上がります。特に、マンデラが数万の観客が見守る中、スプリングボクスのジャージーを着て登場したことは、『私は白人のスポーツラグビーを支持している』『国中の白人たちに報復はしない』という決定的なシンボルになります。


 題名のインビクタスは、ラテン語で『負けざる者』、マンデラが27年間の獄中で魂をまともに保ち続けられ、勇気を与えられた詩だそうです。全部を載せたいのですが、長くなるので私が一番勇気づけられた最後の二行を書いておきます。


I AM THE MASTER OF MY FATE  I AM THE CAPTAIN OF MY SOUL

私は我が運命の支配者
我が魂の指揮官なのだ

 少し歴史のおさらいを。1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を結び、ポーランド分割を策し、9月1日、ドイツは西からポーランド侵攻を開始、同17日、ソ連は東から攻め込み「ポーランド分割」完了。第二次世界大戦の引き金に。ポーランド東部の町「カティン」はソ連占領下に。1941年6月、ドイツは不可侵条約を破ってソ連に侵攻、'41年秋、独ソ戦線は東に移動し「カティン」はドイツに占領。(1941年12月真珠湾攻撃。) 映画「カティンの森」は1941年9月27日、ポーランド東部、ブク川の橋上で始まります。ドイツ軍に追われた人々が橋のたもとに立ちつくしています。橋の向こう側から若い男を先頭に人々が一目散に走ってきます。東からのソ連の侵攻が始まったのです。ソ連軍の捕虜となっているポーランド将校を探ねて、主人公の母子がやっとの思いで再会は出来ましたが、それが永遠の別れになりました。「カティンの森」事件(ソ連軍によるポーランド将校虐殺事件)は、ちらっと何かで読んだ記憶はあったのですが、改めて映画を見て、その残虐さもさることながら、国家権力の国民に対する欺瞞に暗然たる思いがしました。

 
 1939年9月に、ソ連軍の捕虜となったポーランド将校15,000人は、1940年4月にソ連内務人民委員部によって虐殺されます。1941年秋、独ソ戦線は東に移動し、1943年6月までカティンはドイツ占領下になります。'43年4月、ドイツはカティンで虐殺された数千人のポーランド将校の遺体を発見、国際委員会により調査、「'40年春にソ連軍が虐殺した」との結論に達し、記録映画撮影。1943年6月、戦線は西へ移動、カティンは再びソ連占領下に。ソ連は、「'41年秋にドイツが虐殺した」と報告書を発表、偽の記録映画撮影。1945年5月、ドイツ無条件降伏。(同年8月日本無条件降伏。)ポーランドはソ連衛星国となり、カティンの真実追究は45年間封印されました。1990年、ゴルバチョフソ連大統領が自国の犯行と認めポーランドに謝罪。


 そして、犠牲になった一人のポーランド将校の遺児、名匠アンジェイ・ワイダが、この「カティンの森」を製作するには、さらに20年を要しました。そして、この映画のメッセージでこう語っています。「………とは言え、この映画がわが個人的な真実追究となること、ワイダ大尉(父)の墓前に捧げる灯火となることを、私は望まない。映画はカティン事件の被害者家族の苦難と悲劇について語ればよい。スターリンのナチス・ドイツの犯行であるとの嘘、……半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソ連の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきた嘘について語ればよい。若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを私は知っている。……彼等は過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの……を忘れる……。」


 当時の列強、英米仏蘭もこの独ソと似たり寄ったりでアジア、中東、アフリカに権益をのばしていました。当時の新興国日本は、ソ連の南下はかろうじてくい止めたものの、いまだ列強に対し安穏としておれる状態ではありませんでした。そこで無謀な戦争に突入し、一敗地にまみれました。その後、米ソ対立のもと、防衛はもっぱらアメリカの核の傘のもと、経済専一に再建を進め、一応の成果は上げましたが、今また経済も国の防衛も岐路に立たされています。 我々は60年前、「………日本国民は恒久の平和を念願し、……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと……」決意しました。


 平和を愛する諸国(民)とはどこの国の事でしょうか。世界の民は、すべて平和を愛していると私は信じます。しかし、国家の権力は、平和を愛する民をして残虐なことを強いるのが歴史の教訓です。公正と信義は民族によって、その歴史によってすべて異なります。

 自民党もそうでしたが、民主党も日本の防衛をどういう方向に持っていこうという根本的な議論をしようとする姿勢がありません。米軍基地の問題を、沖縄県民への同情ならまだしも、単なる人気取りで言っているとしか感じられないのです。突然、「外国人参政権」が国会に提出されると聞いて仰天しました。国民は納税の義務と国を守る義務(究極的には徴兵の義務)を持ちます。その表裏に参政権があるのです。


 いま国の将来をどっちに向ける、その上でこの国の防衛をどうするという議論を真剣に始めないと、「カティンの森」の犠牲者がこの国で起きかねないという危惧をこの映画を見て感じていました。


「むっつり右門」と「あばたの敬四郎」でアラカンこと嵐寛寿郎が頭に浮かぶ人は、何歳以上なのでしょうか。活弁(活動弁士)つきの活動写真を初めて見ました。12月12日(土)京都芸術センター(旧明倫小学校)「継ぐこと・伝えること」シリーズで、嵐寛寿郎の「右門捕物帖六番手柄」が上演されました。


 弁士は井上陽一さん、昭和13年姫路市生まれ。昭和35年から活動写真弁士として活躍、京都映画祭では平成16年に「特急三百哩」20年には「実録忠臣蔵」を活弁するなど、各地の映画祭で活躍中の関西唯一の現役弁士。それに豪勢なことに「活動写真和洋合奏団」の生演奏がつきます。バイオリン、トランペット、三味線、ピアノ、鳴り物と、歌舞伎や寄席のお囃子に洋楽器を組み合わせた楽団で、大阪ミナミの活動写真館でのスタイルのままだそうです。


 物語は「徳川三代将軍家光公の時代、仁念寺という荒寺に豊臣の残党を名乗る、九の字という不気味な謎の集団がいた。武州・忍の城下町に起こる怪奇事件を解決すべく、江戸南町奉行所から依頼を受け、ご存知むっつり右門がおしゃべり伝六をつれて忍の城下へと潜り込む。いつものように後を追うあばたの敬四郎、また二人の後を追ってゆく謎の女、櫛巻きお由。事件の真相やいかに………」「東山三十六峰静かに眠る丑三つ時、たちまちおこる剣戟の響き…………」の様な七五調の名文句を連ねた井上さんの声に、活動写真和洋合奏団が、ときには合わせ、ときには重ね、ときには演奏だけがチャチャン、チャンチャン、チャチャチャチャ、チンチャン…………と心を躍らせるあっという間の90分でした。


 ご存知のように、初期の映画は活動写真と呼ばれ、作品中に音楽や台詞は一切ない無声映画でした。欧米の無声映画は、昨年11月のみどり会タイムズでご紹介した、チャップリンの「サーカス」のように音楽伴奏と、ぎりぎりに絞り込まれた字幕で観客を楽しませました。一方、日本では落語や浄瑠璃など、独自の話芸文化が発達していたことから、映画のストーリーを解説する話芸者が登場しました。以下パンフによると「弁士は作品の台本を自ら書き、演じていました。そのため弁士の話芸によって作品は、印象ががらりと変わり、面白くも、つまらなくもなったと言います。弁士の生の語りと楽士による演奏には、演者と観客との間に独特の一体感が生まれることから、無声映画が珍しい現在でも“活弁”は根強い人気があります。」


 過去の遺物かな、話の種にでも、と思って足を運んだのですが、活弁は立派に生き残っていました。しかも、2部のトークショーの井上さんとバンドマスターの今田健太郎さんのお話を聞いていると、臨時に編成したバンドではなく、コンビを組んで全国を回っているご様子。職業としても立派に成り立っているようです。まさに、画面と台詞と音楽が一体となった一つの芸術と見た方が、より正確なようです。


 最近の映画、CGなどの最新のテクノロジーを使ったカラー画面と、大音響の効果音をふんだんに使った、例えば「レッドクリフ」の殺陣も迫力はありましたが、どこか作り物が感じられました。しかし「むっつり右門」の殺陣は人間くささを感じるのと、多分、真剣を使っていると思われるだけに「本眞もん」を感じました。


 いつまでもリーマンショックを言っていてもはじまりませんが、コンピュータと金融工学などという、得体の知れないものが世の中をかき乱しています。経済のみならず、教育や医療の世界でも、テクノロジーの進歩故の問題が山積しているようです。科学技術の発展は、欲すると欲せざるに関わらず、今後も、とどまることなく続いて行くことでしょう。それをコントロール出来る人間の叡智が今、最も必要とされるときのようです。


 今年の漢字が“新”と書き出されました。できれば“温故知新”の「新」といきたいものです。事務所の中もコンピュータ化が進み、どんどんペーパレス化しています。最近mobile+3Gという新しい道具を使い始めました。お客様のところや自宅にいても、自分のコンピュータから事務所のデータやTKCのデータが自由に使えるそうです。職員には便利な道具に使われないように注意しました。わたしは、算盤とペンだけで仕事をしていた時代の心を失わないように心がけます。


 当年とって72歳にして初めての沖縄旅行、シュノーケリングで珊瑚や熱帯魚、青空に白い雲、紺青の海でセーリング、と大いに期待していたのですが……。近畿税理士会・下京支部の毎年恒例の慰安旅行です。出発1週間前、10月16日(金)にフィリピン東方に台風20号発生、やきもきしながら台風情報を見ていたのですが、出発の23日(金)になってもフィリピンのすぐ近くにへばりついています。私でさえ気になっていたのに、支部長、厚生部長、JTBなどの方々の気苦労は大変だったでしょう。とにもかくにも、薄曇りの中、関空から那覇空港に到着しました。

 

天候を気にしながら旅程表にあった「沖縄のサンゴを救え」プロジェクトに参加するため、「かりゆしビーチ」へ。真っ黒に日焼けした3人の美(ちゅ)ら娘が操るグラスボートに乗って初めての沖縄の海へ乗り出しました。底のガラス越しに、色とりどりの見慣れない魚たちが泳いでいます。ブダイ、ヤマブキベラ、ロクセンスズメダイ、ヒメアイゴ、トゲチョウチョウウオ、ハマフエフキなどだそうです。


 期待したサンゴは見るも無惨に白化していました。聞けば昔は、「かりゆしビーチ」もサンゴに囲まれた美しい海だったのですが、1998年のエルニーニョ現象のあと、その数は減り今は面影も無いそうです。それで、昔のようにサンゴに囲まれた美しい海の再生のために「かりゆしビーチサンゴの森再生プロジェクト」の「さんご植え付け教室」に参加してきました。3センチ大の木片に針金で結わえられたサンゴを、20センチ大の板切れにボルト止めする作業でした。後に漁師さんに岩に固定してもらうそうです。修学旅行の学生、生徒が続々と参加していましたが、これでサンゴが復活するのでしょうか。


 第2日目、午前中の自由時間、昨夜フロントで確認したアクティビティの数々、パラセーリング、ダイビング、クルーザー、カタマランヨットなど盛りだくさんでした。カタマランにでも乗るかとビーチに出ましたが、いよいよ台風が動き出したのか海面はただならぬ様子、雨も降り出しそうな気配に諦めて部屋に戻りました。ビーチリゾート、ホテル・ブセナテラスのツインルームは、1人で使うのは勿体ない様な広さと、広々と開けたビーチビューを持っています。機内で読みかけた「浅田次郎」を開けました。ゆったりとしたホテルの部屋での読書は、またゴージャスな雰囲気でした。


 午後、雨のなかを「美ら海水族館」へ。迂闊なことですが、この原稿を書くために現地でもらったパンフを開くと、「美ら海水族館」は、沖縄海洋博の跡地に出来た海洋博公園の施設の1つでした。他にトロピカルセンター、沖縄郷土村、海洋文化館、サンセットプラザ、イルカのオキちゃん劇場などがありました。「美ら海水族館」は悠々と泳ぐ3尾のジンベイザメをはじめ、水槽一杯に泳ぐ魚群に次々とデジカメのシャッターを切ったのですが、魚の動きが早すぎてついに傑作をものすることは出来ませんでした。


 さて、沖縄の食事、昼食は2日ともホテルのバイキング。沖縄、中華、和風、ベトナム、タイ料理など、いろんな国の料理がミックスされて出てくるのに興味があって、美味しくいただきました。ブセナテラスの夕食はビーチ沿いでのバーベキュー。シーフードとお肉のオンパレード、生ビールと泡盛で満足でした。見えるはずの満天の星、ひょっとすると南十字星もと思っていたのは大はずれ、外は雨と風で大変でした。那覇市内での夕食は「首里天楼別邸」で琉球の王朝料理とでも言うのでしょうか、琉球舞踊を観賞しながらの豪華な料理でした。

 それにしても、今、台風20号の進路図をインターネットで見てみると、23日までフィリピン近海で西向きに停滞、24日に進路を北に向け25日に沖縄南方、26日に九州の南、27日には一気に東北地方の東に達しています。まさに綱渡りの様な旅行でした。24日中に、帰りの便を25日夕刻から早朝に変更した決断は、どなたがされたのか、また30人余りの人数を一気に変更できたのも、今から思うとお見事でした。いつもながら幹事役は大変です。ご苦労さま、ありがとうございました。見られなかった首里城と星空、紺青の海のセーリングを夢見て、今一度、沖縄へ行って見ようと思います。


 一つ賢くなりました。泡盛は沖縄産の芋か麦焼酎だと思っていたのですが、実は昔も今もシャム(タイ)米が原料だそうです。シャム、ルソン、明、薩摩など古来から自由に貿易を手広くしていたことが伺えます。沖縄は海洋王国だなあと、改めて知りました。



 

 2年に1度の事務所の慰安旅行に、職員の全員一致でTKC本社見学を決めたのは、私にとってちょっと意外でした。行ってみて皆さんの感想文を読むと行って良かったなあ、という思いで一杯です。私自身はというとTKC草創期からの40年のつきあいではありますが、コンピュータのこの間の進歩は驚くばかりです。京都・滋賀の会員のみの処理に清水ビル7階の大半をコンピュータが占めていましたが、今ではビデオデッキ大のサーバ3台に、全国50万社の12年間のデータが保存されています。


 ハードだけでなくソフト面でも会員は今年ようやく1万名を超え、毎月の巡回監査に支えられた会計帳簿や決算書は、税務当局や金融機関の信頼を勝ち得て、書面添付や電子申告でも他の群を抜いています。これらを支えているTKCの本社社員の姿を目の当たりにしたのも収穫でした。関与先の皆様も機会があればご一緒して、当所とTKCへの具体的な信頼を共有出来ればと思っています。


以下、松田事務所職員の感想です!



【飯田 玲子】
 今回の事務所旅行は、栃木県にある㈱TKCの本社など関連施設の見学へ行ってまいりました。


 本社には、システムの開発研究所や操作に困った時に電話でサポートをして頂いているセンターがあり、常日頃私たち事務所が、お世話になっているところでもあります。どの様な環境でシステムが作り上げられているのか、電話で助けて頂いているのか、知ることが出来たのは大変勉強になりました。


 TISCという顧問先様のデータ等を保管している施設では、造りの強固さ、万全のセキュリティ体制に驚かされるばかり…、あの様に皆様のデータを大切に保管されているとは!とにかくTKCシステムを安心してご利用下さいませ、とお伝えしておきます。


 常の仕事でもそうですが、改めて現場を見ることの大切さを実感しました。
 

 そしてこの見学中、感動したのは本社の一室に昔からの電算機が並べてあり、その中に私が事務所入所当時に使用していた機種と同じものがあったことです。退職の直前に「初心忘るべからず」と言われている気がいたしました(笑)。


 最後の事務所旅行が、ただの観光旅行ではなく、意義のある研修旅行となり大満足です。


 現地で各施設の案内をして下さったTKCの方々に、感謝申し上げます。



【小島 慶嗣】
 今回の研修旅行では大変貴重な体験ができました。㈱TKCのシステム開発や、データ保管体制をこの目で見て感じたことは、感謝と安心感でした。


 ㈱TKCは普段使っているFX2に始まり、法人税等申告書作成や年末調整に関するシステム等、様々なシステムを開発しています。完全なる法令遵守はもちろん、実務家の現場の声を取り入れたシステム開発には感謝するばかりです。


 またTISCでは、日々の仕訳や申告等の電子データを、万全のバックアップ体制で保管しています。京都から電車等で4時間半かかったTISCまでも、データでは瞬時に送られ、瞬時に保管されています。この施設は、完全な雷・地震・水害対策がされており、ミサイルが飛んでこない限りデータが壊れることはないでしょう。お客様のデータは最高度のセキュリティで守られているのです。

 

 最高のバックアップをしてくれるTKCとともに松田進税理士事務所を、安心・信頼していただけるよう努めますので、これからもよろ


 今回の研修旅行で他にも色々と見学させていただきましたが、この「水月庵」が、今でも目を瞑るとその光景がふと浮かんでくるくらい一番深く心に残りました。


【木村 千香子】 
今回、㈱TKC本社へ訪問し自分の目で見て受ける研修はいつも受講している研修とは違ったとても新鮮な気分を味わいました。


 最初の本社の見学では、興味深いものを見せて頂きました。本社建物の中の一室に、これまでTKCが使用してきた会計帳簿の結果を処理する機械が時系列に並べてありました。会計の手計算から始まりコンピュータで処理できるようになった現代までの流れをみたようで驚きの連続でした。

 

 普段、当たり前に使用しているシステムが、かなりの時間と手間を費やして作られているだろうことは頭では分かっていたつもりですが、研修を受けてその現場を自分の目で見て感じるのでは全然違ってきました。システム開発だけでなく、アフターケアやその後、出てきたトラブルがどうして起こったのかの報告をするだけでなく、全社員が共有できるような体制になっている。ここまで体制がなっているところはそう多くないような気がしました。

 

 本社見学の後、全国のお客様のデータを保管している建物に案内され、地震対策や雷対策の説明を受けました。建物のセキュリティは本社以上に厳しく、またデータが安全な場所で保管されていることに、『もしもの時にも大丈夫です!』と、㈱TKCが自信をもって宣伝する意味がやっと理解できました。


 今回の研修は、現場を見なければ理解できないこともあるのだと改めて実感するとともに、日常では見られないものを見ることができ、とてもいい経験ができました。


【荒木 一彰】
 研修旅行として、栃木県にあるTKCシステム開発研究所、TKCインターネットサービスセンター(TISC)などを見学してきました。TKC本社の奥には、TKCの創始者である飯塚毅初代会長が住まわれていた「水月庵」が移築されてきており、まるでTKCを陰から守っているかのような独特な存在感を醸し出していました。

 

 この研修旅行にあたって、とりあえず予習の意味でと、飯塚毅初代会長の半生を描いた映画「不撓不屈」のDVDを出発前夜に見ていた私は、「水月庵」に一歩足を踏み入れた瞬間まるで映画の中に入り込んだかのような錯覚に陥りました。
 

 また、「水月庵」には、飯塚毅初代会長の生涯の師である植木義雄老師からの手紙が額に入れて飾られていたり、本棚に所狭しと色褪せたままの本が並んでいたりと、それらをただぼんやりと眺めているだけで不思議とわくわくしている自分がいました。


【松尾 理恵】
 この度TKC本社研修旅行に参加させて頂きました。本社ビルにて、歓迎とレセプションを受けた後、開発研究所を筆頭に最前線のオフィスを見学し、常日頃お世話になっている部署などを実際に目の当たりにすると、頼もしさもまた新たに感じました。

 

 また、敷地の一角に佇む水月庵は、故飯塚先生の住居を移築したものであり、元は料亭だったそうで洒落た品のある日本家屋でした。苔むした小さな庭も素敵で、こんな処に住めたらなぁ!とため息がもれました。


 さらに、郊外にあるTISCと呼ばれる情報センターでは、その厳重なセキュリティーと管理体制に驚き感服しました。あらゆる災害・事故を想定し可能な限り労力と知恵を惜しまず、TKCの名に相応しい「信頼」そのものを体現しているかに思えました。


 2日目は、TKCの書籍や映画等で馴染みとなった山深い雲巌寺を訪ね、一服の静寂を愉しみました。

 本社のビル群と水月庵、要塞の様なTISCから雲巌寺へと。日本の会計界の中核を担うTKCの現在とその原点を行き来した旅でもありました。