行雲流水 ~所長の雑感~ -30ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

茶色のアンツーカの走路が一直線に伸びています。電光計時も高速度撮影の準備も全て調っています。スターティング・ブロックに足を乗せスタートの合図を待ちます。「用意、ドン!」と号砲がなって飛び出しました。一、二、三、四……………と頭の中で歩数を数えつつ全力(?)で100メートルを駆け抜けました。21秒43が記録でした。

 

「100メートル・全力疾走に挑戦」という記事が6月9日の京都新聞に載っていました。興味を持って読んでみると、びわこ成蹊スポーツ大学(大津市比良)が、「中高年向けの短距離走の指導ノウハウを作り、市民への普及を目指す。」「参加者個々人のカルテを作り、筋力や柔軟性を測定したり、高速カメラで走りを撮影、再生して、参加者が体の動きや変化を正確に把握できるようにする。」「35歳以上に限る、定員20名」「6月26日から10月23日まで月1~2回、土曜日に8回開催、参加費12,000円」と書いてあります


朝の鴨川の散歩の途中、仏教大や京産大の女子学生が朝のトレーニングに颯爽と駆け抜けて行くのを見て、駆け足のまねごとなどしてみるのですが、「かっこよく」にはほど遠いのは分かっていたので、早速メールで申込みました。結果、20名の募集に50名の応募が有り、抽選で30名にしぼって開催されました。冒頭の100メートル走はその講座の第二日目7月10日、第一回の100メートルの計時でした。

 

 第一日目は、6月26日に行われました。多分、私が最高齢かなと思っていたところ、76歳の方がいて吃驚、マスターズ陸上の年齢別チャンピオンがいたり、何十年運動したことないという主婦など、まさに多士済々の30名です。「これから『全力疾走に挑戦』の日々が始まります。不可能の反対語は可能ではなく『挑戦』です。無理なく、ケガなく、気持ち良く。そして“何のためのトレーニングなのか”を考えながら有意義に走ることを楽しみましょう。」という岩井有史先生の挨拶から始まりました。

初日は、「体力測定と軽いランニング」と書いてありましたが、さすがスポーツ大学、「軽いランニング」にさまざまな工夫が凝らされています。歩幅を決めての駆け足、障害物を置いて小さくジャンプする駆け足、連続して両足飛びで低い台の上に飛び上がり飛び降りる(これが結構難しい)、これを5周、結構ハードでした。4周目ぐらいに「ジャンプせずに横を走ってください。」とケガ予防のトレーナー、久家暁子先生から、最初のドクターストップがかかりました。体力測定の結果は、総合体力年齢は61歳。握力、背筋力、30秒スカット、上体起こし、は合格点、垂直飛びは平均以下でした。先ほどの両足飛びと合わせ、縦の運動はしてないな、と感じました。


さて、第二日目のテーマは、「筋力トレーニングの基礎と100メートル・タイムトライアル」です。まずは、本格的な400メートルのトラックを軽く一周、というものの終わり頃には息が上がりかけています。その後、手をゆっくり回しながらの駆け足、横っ飛び、白いラインの両側を意識してのランニング、飛び上がるスキップ、速いスキップなど、休み休みではありますが、ほぼ1時間。足に身が入り、息が上がりかけ、これで100メートル走れるかなと思いかけたころ、筋力トレーニングは終わりました。


そして、いよいよ100メートル・タイムトライアル。スターター、電光計時、撮影、などに8名の学生がスタンバイしています。白板にスタート順が示されました。なんと一人ずつスタートし計時、撮影をしてくれるようです。なんと贅沢、かつ、なんと晴れがましい。第一走者がスタートしました。結構速い、ゴールすると、思わずみんなから拍手が沸き起こりました。第二走者も第三走者も思ったより速い。ちょっと場違いな場所に来たのかな、と軽い後悔にみまわれたとき、びわこ成蹊スポーツ大学の陸上部監督の志賀充先生から、「初日の体力測定の結果で、A,Bに分けています。今走っているのは強い方」と、聞いて少し安心はしましたが、結構どきどきするものです。そして、私の史上初めての100メートル・タイムトライアルで、冒頭のシーンになりました。一所懸命、健気に、全力で走るみんな、素晴らしかった。ちなみに一番速かったタイムは11秒99、凄いですね。私は30人中29位、BBでした。


子供のころから、走ることにはほとんど興味の無かった私ですが、あと6回の講義に、何故かワクワクしています。パソコンに収まっている第一回の映像に比べ、10月の最終回の映像がどれぐらい「カッコヨク」なっているか。USBに取り込んで自己満足に浸りきろうと思っています。

毎年6月14日、太鼓橋で有名な住吉神社で、日本三大御田祭の一つが催されると聞いて出かけて来ました。あとの二つは、御伊勢さんと鹿島神宮だそうです。事前に頂いた平成18年の大阪府教育委員会の資料を読むと、祭を続ける人々の苦労や誇りが忍ばれて興味津々でしたが、いざ見終わって、こんなに盛大なものとは思いも寄りませんでした。


この資料の中の一文に「……田遊び・御田植祭としての祭ごとは、………田植え始めに早乙女達が田の神の神霊をお迎えし順気で稲が無事に成熟することを祈って祭り、………さらに田植えがすんで田の神の神霊が田から上がられるときに、田植え仕事に携わった人たちが揃ってひたすら豊穣を祈願し、早乙女達を労って祝いまつる祭ごとであった。………なお田楽ももとはといえば農耕儀礼に端を発した神事芸能で、田の鎮魂舞踊の田遊びが芸能化したもので………」と書かれています。住吉さんのお祭りも、一「粉黛・戴杯式」、二「本殿祭の儀」、三「御田式場の儀」と目録にありますが、一、二は主に神事、三が労働を労うお祭りだったのでしょうか。私が見たのは「御田式場の儀」でした。


式に先立って、「代かき」(田植えの前に田を平らにならすこと)のために、錦に飾られた牛が登場してきました。これが但馬のブランド牛の二才の牝と、紹介されました。ところが、慣れない田圃で働くなんて初めての経験です。思うようには動きません。満場の笑いを誘っています。今の日本には労働する牛馬は一頭もいないのだと、改めて気がつきました。


そうこうするうち、二反歩(600坪)の田の周りの畦道に、「住吉大社御田植神事」の幟を立て、裃に一文字笠の御田植講員が先導し奴行列が毛槍を奴同士で受け渡す華麗な技を見せながら入場してきました。続いて、風流武者(大将・采配・鉦・太鼓各一名・法螺貝六名・紅白旗持ち四名・紅白の棒打ち合戦の少年達数十名)、楽人(笙・篳篥・横笛)、宮司他神事の神官、八乙女、「新町花街」の提灯と役員関係者、稚児八名、御稔女(みとしめ)、植女(うえめ)八名、替植女、男女奉耕者多数、田植踊りの少女達多数、住吉踊りの少女達200名ほどと、人々が畦道を埋め尽くします。



御田の中央の舞台上で、神職が四方を清め、御神水を田に注ぎます。植女、替植女各八名が中央で向かい合って早苗を授受、替植女と男女奉耕者20名ほどが御田に入り植え付けが始まりました。男女とも菅笠に白い着物、女性は赤い襷と腰ひもをつけ男性は黄色のものをつけ、なかなか艶やかです。そして、中央の舞台と畦道で次々とテンポよく芸能が披露されてゆきます。


まず「田舞」。八乙女八名が、舞台中央で風流花笠を中心に輪になり巫女舞を舞います。衣装は白い着物に赤の袴姿、頭上に枝を飾った冠を被っています。


次に「神田代舞」(みとしろまい)。御稔女(みとしめ)が豊穣祈願の神楽を舞います。衣装は紫の裾ぼかしの袴に、扇を持っています。以前は、維新に際して中絶したとき、新町郭が御田を奉納した縁故により新町郭の芸妓が奉仕していたそうです。


続いて「風流武者行事」。鍬形の兜を被った大将が、舞台中央で武運長久を祈る舞の後、甲冑武者が陣太鼓、陣鐘、法螺貝を吹き鳴らし合戦開始の合図をする。


棒打ち合戦」。合図と同時に御田の東西から紅白別々に少年達の兵士が歓声と共に走り出す。それぞれ二名の長刀を持った武将を先頭に六尺棒を持った雑兵が突進、出会った所で棒打ち合戦。カッカッという棒打ちの響きと砂ぼこりでなかなか勇壮。上は高校生、下は幼稚園児?ぐらいのちっちゃい子が必死に兄貴分について走っているのが微笑ましい。


田植踊」。植女と同じ衣装を付けた少女達(舞台の上は中学生ぐらい、本部前の畦道では小学生と幼稚園児ぐらい。)が、菅笠、白の衣装に手甲、脚絆に草鞋履き。赤い襷に赤い紐が良く似合ってめっちゃ可愛い。


住吉踊」。大社の門が開き、住吉踊りの少女たちが一斉に走り出して来ました。赤い布を巻いた笠を頭に被り、白い着物に紺のスカート、手甲、脚絆に草鞋履き、住吉踊と赤く染め抜いた白い手ぬぐいを腰に下げ、鈴の着いた団扇を右手に持ち、同じ団扇を腰に差し、その数約200名、畦道を埋め尽くしました。歌にあわせ、「心」の字を形づくるという調子のいい踊りでした。


午後1時から始まった行事が、次々と進行している中、替植女、奉耕者などの植え付けは、御田の中で黙々と続けられ、全て終了する4時頃には、二反歩の御田は緑の早苗におおわれて、そよそよと風にそよいでいました。ここで秋に収穫するお米は、住吉神社に納めるのは勿論ですが、皇室と伊勢神宮にも奉納されるそうです。日本という国の成り立ちの基に出会えた様に思えます。

「春は福寿草が咲く山々が山菜の宝庫となり、

夏は野間川の鮎が解禁となる。

手つかずの自然とその恵みの中で、

人々が心豊かに暮らす、山里、野間。

寒暖の差が激しい気候ゆえに、

昔から旨いそばも作られてきた。

そんな山の恵みたちをこよなく愛する夫婦は、

丹後町の老舗旅館よ志のやの当主と女将を引退後、

この地に移り住み、『天風』を営む。

山の恵みに感謝しながら、

野間の素材を生かした料理を楽しみ、

訪れた客をもてなす。」

 京丹後市弥栄町野間にある、「野間そばと山菜」の店「天風」のパンフレットの一節です。これに惹かれて、このそば屋さんにゴ-ルデン・ウイークの一日、行って来ました。


 京丹後は比較的土地勘もあるところ、京都府縦貫道を宮津でおり、国道178から府道53を経て国道482に乗り、パンフにある通り駐在所を右折、府道654へ、これで一本道と安心して走っていたのですが、行けども行けどもそれらしい店がありません。一つの村を通り越して、次の村が見えて来たところで、道を間違えたかなと、一旦ターンしてもとの村中で停車すると、年頃の娘さんが「どこへいきなる。」と柔らかな丹後弁で聞いてくれました。次の村を越えて、スイス村へ通ずる丹後縦貫林道の手前だと教えてくれました。


 ようやく到着すると、駐車場は10台ほどで満車。ナンバープレートは、京都より他府県の方が多くて、玄関には何人かの人であふれています。通りすがりでは決して行けない山の中、この人気は何だろうと、逆に期待が膨らみました。古民家の玄関を入ると、10人ほどが囲める囲炉裏がでんと控えています。次の間には、椅子テーブルが何脚か。一度に20人は、ちょっと無理のようです。


 待つことしばし、山ウド、山クラゲ、ワラビの酢のものの突き出しの後、山野菜の天ぷらが運ばれて来ました。山ウド、たらの芽、たけのこ、なすび、かぼちゃ、こしあぶら、ごんぼと豆のかきあげ、あおじそ。ワラビやたらの芽は、食べたことがありますが、山ウド、山クラゲ、こしあぶらは初めての食感でした。なすび、かぼちゃ、あおじそなどは、山菜だけだとあくが強すぎるので野菜も混ぜているのだとのこと。山や野の幸をいっぱい頂いた後、地元の野間そばと、黒米入りの黒豆ご飯が濃い紫色に染まっています。注文すれば、目の前の囲炉裏でイワナや鮎も竹串にさして焼いて頂けるようです。こんな野趣に満ちた昼ごはん、久しぶりに贅沢の極みでした。


実は、ここのご主人、福山勝彦さんは平成21年に「京都府の現代の名工」に選ばれています。10年前まで福山さんは、間人の料理旅館「昭恋館よ志のや」の2代目の経営者でした。間人ガニ、今でこそ日帰り操業で鮮度抜群、そのブランド力は丹後一帯に響き渡って一匹数萬円も不思議では無いですが、実はこの福山さんが仕掛人だったそうです。20数年前、カニの旨みを引き出すだし作り、カニ刺しのための瞬間冷凍、カニの甲羅蒸しなどを考案、こうした成果を伝える講習会を毎年開催するなど、地域をあげてのブランド化の確立に貢献したことが評価されての受賞だそうです。それをポンと息子夫婦に渡しての山奥でのそば屋の開業、隠居仕事にしてはこの繁盛ぶりはお見事です。


宿泊は、この「昭恋館よ志のや」にお世話になりました。フロントに着くと、女将さんがにこやかに迎えてくれました。聞けば「天風」でお手伝いをしていたここの娘さんが、一足先に帰り、われわれのことを知らせてくれたとのこと。お陰で最初からアットホームな気分に包まれました。食事は敢えてカニを避け魚料理にしました。夕食、朝食とも、なかなかのものでしたが、鮮度の関係で町には出回らないという白エビの炭火焼き、殻ぐちほおばるとその香しいこと、絶品でした。昭恋館の意味は、80畳敷だった大広間を改築したダイニングと、「昭恋の湯」と名付けられたお風呂に行って分かりました。デザインを任せたアレックスという名のアメリカ人の彫刻家兼ジャズピアニストが、大の日本好き、昭和好き。懐かしい家具、建具、調度品が、小粋に調和していました。


帰り際、3代目のご主人に、面白いですねと、語りかけると、「女将の趣味です。」とのこと。昭和好きのアメリカ人と、もとアリタリア航空勤務の滋賀生まれの女将がコラボレートすると、こんな空間になるのかなと妙に納得しました。ダイニングには、森繁久弥の毛筆のお礼状が扁額にして飾られていました。


シャングリラ(桃源郷)は架空の物語かと思っていたら現実に存在していました。それも漢字で。古くは陶淵明(365425)の「桃花源記」の桃源郷、近くはジェームズ・ヒルトンの「失われた地平線」(1933)で画かれた理想郷。『雪山が聳える峡谷、神秘的な寺院、森林と湖、麗しい草原、そして羊が群れなす世界』それらがチベット族自治州の州都に酷似しているとして、雲南省政府はそこを1997年に「香格里拉」と命名していました。


 京都府・雲南省友好協会の第10回友好親善訪問団は、そのシャングリラを目指して4月7日早朝、昆明空港で離陸直前のエアバス330の機内にいました。ところが、さすがは桃源郷、そうやすやすと迎え入れてはくれませんでした。香格里拉空港雪のため閉鎖、降機、待合室で待機。今日は駄目かと諦めかけたお昼前、ようやく搭乗案内があって昼過ぎに無事海抜3,300メートルのシャングリラに到着しました。


 此処には、ラマ教の聖地ラサのポタラ宮に似た「松賛林寺」があります。雲南のチベット族自治州のチベット仏教の中心地で、800人余の僧侶が修行しているそうです。高山病を気にしながら140段の階段を登り始めました。何回も休憩しながら、1キロリットル入りの酸素ボンベで酸素を補給します。日本の寺院とは違い、金ぴかの建物や仏様を仰ぎ見ながらの参拝でした。


 途中、すごいものを見ました。酸素ボンベを片手に休憩中、一元札を示しながらこちらへ手を差し出す女性がいます。物乞いのようでもあり、そうでもなさそう。どう対応していいのか躊躇っていると、なんとその女性は手に下駄をはめ直し、石段の上を五体投地をしながら登って行くではありませんか。同行のチベット族の女性ガイドに聞いてもらうと、遠く1,000キロほど北の青海省から、喜捨を頼りに子供2人を含めた男女6人でお参りに来たそうです。思わず十元のお布施をしました。


 1,000キロ以上の険しい山川を、歩きながら五体投地を繰り返し、何百日かかったのかは分かりませんが、とうとう聖地を目前にしてどんな思いで登って行くのだろう。仏様を拝み見た時どんな思いが彼等の胸中にわき上がるのだろう。そして、同じように1,000キロの道を北へ戻ってゆく。不思議な思いがわき上がってきました。そして、 お釈迦様の一生が重なって見えてきました。ブッダも生涯、居を定めず歩き続ける一生でした。何かが私の胸の中で はじけました。


 訪問第二日、風光明媚のはずの国定公園は、寒さと時間の関係で割愛し、高山植物が一斉に咲き乱れ、松茸が一杯取れる夏に再訪を期して長江(揚子江)の上流、金沙江沿いを麗江(海抜2,600メートル)目指してひたすら下って行きます。このあたりは、世界遺産「三江並流」地帯のはず。60キロほどの狭い地帯に東から金沙江、瀾滄江(メコン)怒江(サルウィン)という3つの大河が北から南に交わることなく並流しています。さすがの長江もこのあたりでは清流、渓流魚が、たくさん群れていそうな気配さえあります。車窓の東に哈巴雪山、玉龍雪山の神々しい姿を仰ぎ見ながら、世界遺産、瓦屋根の美しい古都麗江に到着。273キロ、信号が一つもありませんでした。麗江は白(ベイ)族文化が色濃く残る町、世界唯一現存する絵文字の様な象形文字が未だに使われています。


 第三日、大理市巍山県文筆中学校訪問。ここは奨学金を贈った生徒(2008年タイムズ177号作文掲載)の中学です。4年前の訪問時には大里市から車で、野越え山越え町を過ぎ、を2・3回繰り返し一日がかりだったのですが、今回は高速道路が一週間前に開通したということで約1時間で着きました。歓迎会兼説明会で校長先生がパソコンとOHPを使って奨学金を受けている生徒の氏名、写真、学校の教育方針(智徳体美労)などを説明してくれました。前回訪問時の我々の写真なども写され、和やかな雰囲気と共に躍進中国の意気込みも感じました。晴れやかなイ族の民族衣装を付けての校門前のお出迎えと見送り、歓迎の歌や私達を巻き込んでのダンスなど楽しいひとときでした。

 最終日、大里古城での「冬虫夏草」や「田七人参」など漢方薬の買い物を済ませ、州都昆明市へ。昆明は人口300万人の大都会、中国らしく雑然として活気に満ちあふれています。4年前、町の中心部にあった市場も高層ビルに替わっていました。空港まで20分と誠に便利なのですが、40キロ離れた所に新空港を建設中とのことで、ちょっと残念な気もします。


 夕刻、雲南省人民政府外事弁公室主任、周紅(女性)さんの心遣いで、政府の招待所・「紫苑」でご馳走になりました。日本政府の要人もまだ二人しか招かれていないそうです。なかでも鹿のアキレス腱と松茸の煮物は、ちょっとよそでは頂けないものでした。


 皆さん、京都府・雲南省友好協会に参加されませんか。年会費は三万円、ちょっと珍しい経験とささやかな善意を満足させてくれます。

 大河ドラマ「龍馬伝」が好評の様です。福山雅治演ずる龍馬も新鮮な魅力があります。これからどんな幕末絵巻が繰り広げられるのでしょうか。司馬遼太郎の「龍馬が行く」の印象が強すぎる所為もあるのでしょうが、明治維新の青年群像はかっこよすぎますねえ。特に龍馬、維新の成就を目前にして凶刃に倒れた。維新後、もし生存していれば自身どんな生涯を送り、日本をどんな方角に導いてくれたのかな、という願望も手伝っているのでしょうか。


 ところで、司馬遼、龍馬を肯定しながら、何か今ひとつ腑に落ちないところが二つありました。一つは「船中八策」、ちょっと長いですが書いて見ると……。
『一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ返還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ズベキ事。 二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。 三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備エ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。 四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新タニ至当ノ規約を立ツベキ事。 五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ選定スベキ事。 六策 海軍宜シク拡張スベキ事。 七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事。 八策 金銀物価宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。』

 

 特に二策、いかに龍馬が天才的であり勝海舟などの師匠がいたとしても、「万機宜しく公議に決すべき事」は頭で考えて浮かぶとしても「上下議政局を設け……」は二院制を表現しているものと思いますが、現実にその政体を直に見るか、しかるべきレクチュアなしではちょっと思いつくとは考えにくい。そして八策、海援隊で貿易のまねごとをしていたとしても、大政奉還に建言出来るほどの外国為替の知識があったのでしょうか。


 二つ目は暗殺の謎。当時、龍馬は海援隊長にして、薩長連合を成し遂げたばかりの有名人、中岡慎太郎も陸援隊長で幕府武力討伐の一方の旗頭、二人とも一介の浪人ではありません。しかも、龍馬は北辰一刀流免許皆伝、中岡も龍馬の護衛をかって出るほどの腕に覚えのある者、一撃のもとに斬殺されるのも納得いきかねます。事件のあった「近江屋」は河原町通をはさんだ土佐藩邸の真向かいです。にも関わらず、未だに真犯人は謎のまま。当時、事件後近江屋に集まったと言われるのは谷干城(土佐藩)毛利恭介(土佐藩)田中光顕(土佐藩、陸援隊)白峰駿馬(海援隊)吉井幸輔(薩摩藩)ら。彼等が事件直後に組織をあげて犯人詮議をした形跡も伺われない。「龍馬伝」がこの暗殺をどう画くかは興味津々というところですが。


 そんなとき、大垣書店二条店でこんな表紙の本を見かけました。「龍馬の黒幕 明治維新と英国情報部、そしてフリーメーソン」(加地将一・詳伝社文庫)『フリーメーソン』というカナ文字は日本人でも多くの人が眼にしているにも関わらず、その秘密結社という存在故に良く知らない、というより良く知ろうとしないのかも知れません。しかし、その「自由」「平等」「博愛」の旗印によってアメリカの独立戦争を勝ち抜き、フランス革命を成功させたのは、事実のようです。そして著者は、アメリカ独立の立て役者ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソン、フランス革命のロベス・ピエール、ダントンなどもメンバーだと指摘しています。


 そこで明治維新。この本では、龍馬の千葉道場での剣術修行は隠れ蓑、土佐藩の情報収集員だ、としています。世情騒然としていたこの時代、藩として右するか左へ舵を取るか、中央の情報はいくらあっても足りない事はない。その時、一流の剣術道場は、全国の俊才のみならず、幕府の英才も集まる絶好の良質の情報の集積地だったのでしょう。優秀なスパイは往々にして二重スパイになります。幕臣、永井玄蕃、勝海舟などとお互いの情報交換は頻繁に行われます。長崎のグラバーを通じ海援隊をつくり、英国との接触も緊密になっていきます。


 伊藤博文、井上馨他3名の長州ファイブと呼ばれた若者が1863年当時のロンドンにいました。また薩摩藩家老、小松帯刀は五代友厚、寺島宗則ら19名の薩摩ナインティーンを藩命でヨーロッパへ送り出します。西周(にし・あまね)という幕臣がいます。私は今回初めて名前を知りましたが、蕃所調所教授として「自由」、「平等」、「博愛」、「哲学」、「現象」、「客観」、「主観」などの日本語を造語したそうです。彼はオランダのライデン大学留学中に、日本人として最初のフリーメーソンのメンバーになり、パリでなんと薩摩の国費留学生、五代、寺島と密会しています。1867年に徳川慶喜に提出した「議会草案」によると、上院下院による議会制を提案しています。幕臣でありながら幕藩体制を崩そうとしていたのでしょうか。維新時、慶喜の政治顧問から即天皇側近となり、「軍人勅諭」をしたためています。


 さて、舞台は、駐日公使ハリー・パークス、部下の日本語通訳官、というより英国の対日政策のプロともいわれるアーネスト・サトーなど英国諜報の思惑、薩長を中心とする武力討伐派、慶喜に「大政奉還」させようとする無血革命派を巡って展開してゆきます。そして、「大政奉還」を葬ると決意した薩摩と岩倉具視は「倒幕の密勅」を偽造し、しゃにむに武力革命をぶちあげる。


 その時龍馬は「同じ日本人の殺し合いが嫌でたまらなかった。目指すは無血革命。それこそが彼にとってはかけがえのない守るべきものだった。誰にも律することのできない大物諜報部員それが龍馬だったのである。」(「龍馬の黒幕」より)
 大変面白い読み物でした。二つの疑問のかなりの部分で納得出来ると共に、現在でも油断なく情報を収集し分析し諜報戦を展開している諸外国に対して、日本は、国益を守る意志と体制が万全に機能しているのでしょうか。

 龍馬暗殺の真犯人は誰か。それは「龍馬の黒幕」を読んでのお楽しみに。