10月29日付けの京都新聞に、『角倉了以の17代目という角倉吾郎さんが、10月30日から2月19日まで5回連続で「角倉了以の足跡に迫る」という講演会を、それぞれ了以ゆかりの場所で開く。』という記事があり、早速参加してきました。第一回は保津川開削の結果出来た材木の集積場と管理屋敷の跡と言われる嵐山の「花の家」、第二回は「ホテルフジタ京都」、第三回は「すみや亀峰庵」、第四回は「がんこ高瀬川二条苑」、第五回は「京都ホテルオークラ」で開催されます。
「角倉了以」で私がすぐ頭に浮かんだのは、保津川と高瀬川の開削だけでしたが、他にも徳川幕府の名で富士川や天龍川の開削も行い、琵琶湖疎水の計画までしていたそうです。
高瀬川の開削は、お上の命令や慈善事業で行われたのではなく、れっきとした事業でした。1611年から14年の4年間、長さ11km、総工費75,000両(推定150億円)をかけて行われました。舟賃は、一艘一回2,500文(125,000円)、その内幕府へ(税金?)1,000文(50,000円)、舟の維持費に250文(12,500円)、残りの収入は1,250文(62,500円)。年間36,000艘が運行したと言いますから、年間収入は1,250文×36,000艘=11,250両(22億5千万円)です。投資額75,000両は、ほぼ7年で回収したことになります。投資額75,000両に対し11,250両、率にして15%、投資としては効率がいいですね。しかも、運河としての高瀬川は明治初年まで機能していたと言いますからほぼ300年、年間22億円の収入が誰の懐に入ったにせよ、このプロジェクトは大成功でした。
また面白いのは、高瀬川沿岸住民への誓約書が残っているそうです。そこには田地の損失と用水の欠乏を補償し、万が一、事業が途中で休止した場合の現状回復まで約束しているそうです。運送業者に対しても、舟数の制限と荷種の制限(炭、米などに限り、特に人は乗せないなど)を約束しています。天文学的数字の公共事業を突然やめたり復活したり、高速無料化を叫んで他の交通機関を廃業に追い込んだりと、無定見
などこかの政治家に爪の垢でも残っていれば飲ましてやりたいものです。
角倉船という名の朱印船貿易を安南(ヴェトナム)としていたというのも初耳でした。当時、江戸時代初期、秀吉の朝鮮征伐などの影響で、朝鮮や明との交易の道が閉ざされていて、中国を通り越えヴェトナムの東京(トンキン)まで出かけたようです。輸出品は銀、銅、刀剣、塗り物など。輸入品は生糸、絹織物、鉄砲、火薬、砂糖など。特に目をひくのは医学書などの書籍類や薬品です。角倉家の家系が土倉(金融業)の他、医業を営んでいたからでしょうか。貿易額は一回10,000両(20億円)、渡航回数は17回(1604年~38年)、了以の死後も長男の素庵などが引き継いでいたようです。清水寺に航海の無事を祈願した角倉船絵馬が残っているようですが、それを見ると航海士には紅顔碧毛の白人、マストに登っている水夫は、黒人や中国人もみられます。鎖国の始まる前の国際色豊かな時代だったのでしょうか。長さ40m、重さ800t、乗員400名の大きな船です。
ところで、角倉了以の優れた土木技術と、自然や建造物に対する感性が、実感出来る場所をご存知ですか。二条から伏見まで運河「高瀬川」を開削したとき、水は鴨川から取り入れました。その取水口から今も400年前のまま「がんこ高瀬川二条苑」の庭園を流れ、人々の目を潤いつつ高瀬川へ流れ込んでいます。いささか季節はずれですが、夏の風物詩、鴨川の床の下を流れる「禊ぎ川」、決してお客の納涼のためにあるのではありません。高瀬川へ水を取り込む巧みな仕掛けの残り水なのです。
禊ぎ川は、鴨川の丸太町橋のちょっと下がったところから始まります。鴨川から西へ別れた禊ぎ川は幅3mほどの水路をゆっくりと下り始めます。300mほど下った二条橋を過ぎしばらくして、水路は左右に分かれます。右の水路は、長さ5m高さ1mほどの登り勾配、300mの下りのエネルギーを一気に角倉屋敷(がんこ高瀬川二条苑)へ注ぎ込みます。庭苑を左右に弧を描いて流れながら、今も昔のままに高瀬川へ。そして、本来の役目を終えた左の水路が、納涼床の風情を引き立てつつ五条大橋の北側から鴨川へ戻って行きます。
歴史が過去の遺物では無く、歴史が現在の我々を生きている京都のすごさをまた一つ発見しました。第四回は、「がんこ」で1月15日11時~12時半まで。良ければご一緒に講演を聴いたあと、400年間地球の引力だけを利用し続けている、見事な仕掛けを確認しながら、昼ご飯を「がんこ」で食べませんか。