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行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

前原誠司前外務大臣を、献金問題で辞任に追い込んだり、古くは小沢一郎の不動産疑惑を税理士らしく自分の調査をもとに、白日のもとにさらしたり、NHKの全国放送で放映された事で西田昌司参議院議員の名が、良くも悪くも話題に上るようになりました。

 

 彼は、実際に事務所を持っている現役の税理士でもあり、TKC会員でもあります。TKC全国政経研究会の坂本孝司幹事長によると、「税制改正を本当に実務レベルで理解出来ている国会議員は西田先生しかおられない。」と、おっしゃっているほど貴重な存在でもあります。TKC近畿京滋会では、「TKC会員・西田昌司を囲む会」を昨年立ち上げ、私が代表世話人をしています。5月13日第六回の「……囲む会」の席上の話題の一つが「企業財務会計士」でした。

 

 税理士と会計士の区別も定かで無い皆さんに「企業財務会計士」など、何の関心もないことは百も承知で、少々お付き合いをお願いします。長らく公認会計士二次試験と司法試験は国家試験の中でも最難関の双璧といわれてきました。しかし、法科大学院を作り、司法試験をいじった結果、弁護士の資質に問題が起こっているように聞きますし、また司法試験に受かっても、弁護士事務所での求人の方とバランスせず、実習が出来ない弁護士浪人が問題になっています。一方、会計士の方でも税理士受験の専門学校で、税理士試験を受けるより、公認会計士二次試験の方が易しいからと、そっちを進める事もあると聞きました。そして、二次試験合格者は、監査法人での二年の実務研修の後、三次試験に合格して公認会計士になれます。ところが、リーマンショック後、監査法人の求人が激減し、二次試験合格者が公認会計士になれない状況が出てきました。安易に制度をいじった結果が悪い方になっています。


税理士は、税金全般の相談、代理が業務ですが、公認会計士としての唯一の業務は、上場会社が金融庁に毎年提出する有価証券報告書の監査証明です。監査証明は、ほとんどが大手の監査法人の寡占状態なので、個人の会計士で監査業務を業としているのは、皆無に近いでしょう。ところが、公認会計士は、登録して税理士会に入会すれば税理士業務ができます。多くの会計士は、税理士業務で飯を食っているのが現状です。これが、税理士と公認会計士との区別を分かりにくくし、世間の誤解を招く理由の一つです。

ところで、本日の「企業財務会計士」、ややこしさに輪をかけたような話です。深刻化した会計士の就職難を解決するために、という名目で金融庁が一年前から検討し、2013年から導入しようとしていました。公認会計士法の改正で臨んでいたのですが、どう考えても奇々怪々。まず、企業財務会計士は試験に合格すれば実務経験なしに資格はもらえるが、監査業務は出来ない。一般企業に会計のプロとして就職するのだそうです。これが会計士二次試験に合格しながら監査法人に就職できない「就職浪人対策」として出て来ること自体が見当違い。かえって監査法人を諦めて、一般企業に就職しようとする二次試験合格者の道まで狭めることになります。

 

 「会計士にも税理士にもなれない。ニーズが無いのに資格を作れば、一生懸命勉強する人がかわいそうではないか。」と、参院の財政金融委員会での西田議員の切り込みで他の議員からも集中砲火。ここに前代未聞、明治の国会開会以来、初めての出来事、政府与党提出の法案が、委員会での野党の反対意見により、引っ込んだという事態が起こりました。ある意味、民主的といえばまさに民主的。法案を国会に提出し、賛否両論出尽くして全員での採決に従う、ようですが。問題はそんなことではありません。聞くところによると、この法案は、一年前に大塚耕平・前金融副大臣を中心に検討が始まった、そうです。冒頭に「税制改正を本当に実務レベルで理解出来ている国会議員は西田先生しかおられない。」と、坂本幹事長の言を紹介しましたが、税法という専門的な問題で、実務レベルで理解出来ないのはわかりますが、この法案に代表されるように、世間で起こった問題に場当たり的に対処しようとして、深く考察せず、まさに実務に疎い政治家が、結局ドジを踏んでいるのが今の民主党の政権です。この話を聞いてぞっとしたのは、私だけではないと思います。

 

 一日も早く日本の進むべき道を模索しながら議論し、しっかりとした国に立て直すために私達の責任は重大です。結局、現在の政治状況を生み出しているのは、私達国民なのですから。政治に関心を持ちましょう。一人でも多く芯を持っている政治家を捜し出し応援してゆきましょう。

 

 西田昌司君は、私の税理士事務所の後輩でもありますので、府会議員時代から話を聞いていますが、しっかりとした座標軸を持っています。応援してやって下さい。


 手始めに6月10日午後6時~8時までシルクホールで彼の「時局講演会」を開催しますので、是非ご出席下さい。

 自然の恵みに感謝する「イノシシ・シカ供養祭」が、京丹後市峰山町の全性寺で4月2日、営まれました。天龍寺のお声掛けで、京都北部の天龍寺の末寺11ケ寺から14名の僧侶により厳かに営まれ、参加した猟友会のメンバーをはじめ、京丹後市の旅館のおかみさん会、農業関係者、われわれ京都市からの参加者など数十名の出席者は、その荘厳な供養に一様に驚いていました。NPO法人・日本都市農村交流ネットワーク協会が、永年の交流の一つの区切りとして企画したもので、京都・毎日新聞社からも取材が有り、3日の朝刊に写真付きで掲載されました。(松田事務所も天龍寺も協会のメンバーです。)

 

 思えば、京丹後・大宮町とのお付き合いも10年を越えました。01年の京都府の「共育の里づくり事業」に参加して、日本の南限のブナ林散策に始まって、コンバインを操縦しての稲刈り体験や、2千年来の日本の伝統技術であるにも関わらず途絶えてしまいそうなわら草履づくり、05年には顧問先である、深尾米穀さんや洛東食糧さんへの京丹後産米「京の宮御膳」と「いかが紫峰米」のご紹介をしています。毎年のいろいろな企画で紫頭巾(枝豆)やショウガの植え付け、収穫。印象に残るのは、久美浜町尉ケ畑(じょうがはた)での田植えと稲刈り、その米を使った「じょうの酒」の完成と販売でしょうか。07年12月に久美浜湾沿いの熊野酒造でいただいた初絞りの「じょうの酒」のおいしかったこと。勿論その後はカニづくしの都市農村交流大忘年会でした。

 

 そして、08年にいよいよNPO法人・日本都市農村交流ネットワーク協会が立ち上がります。その活動の一つに京丹後プロジェクトがあり、そのプロジェクトの一つにイノシシ・シカ肉の有効利用がありました。10年5月、猪・鹿肉処理施設「京たんご ぼたん・もみじ比治の里」の竣工式での京丹後市長、中山 泰市長の挨拶から抜粋しますと……。


 「……近年、本市におきましても猪、鹿など鳥獣による農作物への被害が増えておりまして、防除や捕獲を積極的にさせていただいているところですが、捕獲後のあり方が大きな課題となっております。このような中で、猪、鹿については、むしろ食肉として積極的に活用し、地域振興や観光振興に役立てられないか、との観点から、平成19年度  から地元猟友会の皆さんはじめ市民の皆さん、市内外のレストランの皆さんなど関係者により食肉有効活用研究会を立ち上げていただいて、料理研究やレシピなどの検討を重ねていただきました。そして昨年には建設のための予算をいただいて、本日、竣工をみました……。」


 と、いうわけで、京都は室町の「ビストロ山形」で08年~09年にかけて、数回の「わが家で楽しむジビエ料理教室」や09年3月の弥栄町での試食会、京丹後市のおかみさん会との交流、10年3月の「わが家で楽しむジビエ料理」の発刊、そして猪・鹿肉処理施設の完成などを踏まえての「イノシシ・シカ供養祭」でした。


祭壇には、『亡野畜生生類各々の霊位』の立派な位牌が飾られています。式後、全性寺の木村大閑住職から法話をいただきました。そのなかで、「位牌のなかに『畜生』の文字が入っているのは、本山の天龍寺さんからのご指導で入れました。」とのこと。六道輪廻の天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界からの言葉だそうです。「4月8日の花祭り、お釈迦様が天上天下唯我独尊と言って七歩、歩かれるのは、この六つの迷いの世界を飛び越えて、仏の世界にお入りになった象徴。畜生を意識したとき、人間としての世界が見えてくる。人間として認識すると自分の有り難さが見えてくる。畜生よりもいい心を持っているか、畜生以下になってはいまいか。他の生き物の命を取り立てただけの『生』を生きているか。」という戒めだそうです。


そのあと、峰山の吉翠苑さんのお世話で、交流会が開かれました。意外なことに都市と農村の交流のはずなのに、京都市から参加した私達は、猟友会、おかみさん会、農家、ご住職それぞれに知った方が多いのですが、京丹後市の方々はお互いを良く知らないことに気づきました。女将さん達がご住職方に名刺を配り、挨拶を兼ねて営業活動をしているのが微笑ましかったように思えました。


 すべてを震災に結びつけて考え過ぎるのは、あまり良くないとは思います。しかし、経済的合理性に極端にこだわり過ぎ、地域の文化や伝統を破壊し続けてきたのも、また事実です。鹿や猪を有害鳥獣として駆除するとは、なんと悲しい言葉でしょうか。経済発展という20世紀のお題目は、人間として生きるとき、何か違うということを、今、日本人は気づき始めているのでないか、と期待しています。この供養祭が小さくとも、少数の人々の間でも役に立てればなあ、と思いました。

今、みどり会タイムズの原稿を書こうとしていますが、筆が進みません。「太平洋の奇跡」という感動的な映画のことを書こうと、パソコンに向かってはいるのですが、やっぱり地震、「東北地方太平洋沖地震」のことが頭に一杯でまとまりません。さりとて地震のことを書くとなると……。

 

とにかく大変なことが起きました。11日金曜日午後3時、ヤフーを見ていた所員の一人が「東北地方で地震……。」と声を上げたので、テレビをつけてみると、ご承知のようにあっという間に大惨事となりました。津波があの様に恐ろしいものとは。インドネシアの場合は、津波警報が無くて突然襲われて人が犠牲になったものと思っていました。テレビの画面に同時中継で、信じられない光景が次々と映し出されます。車と漁船とコンテナがごちゃまぜになって流れています。畑や道路が見る見るうちに飲み込まれていきます。多分人々も……。


そして、一斉に引いたあとは瓦礫のみ。しばらくして、ヘリコプターが二次津波の映像をとらえました。一瞬にしてあれだけの恐怖を与えた津波の美しさに息をのまれました。青い海面に一直線になって進む白い細い帯、自然の美しさと残酷さを目の当たりにした思いでした。連日の報道が改めて被害のただならなさを伝え続けています。原発の事故がどうなっていくのか、いまの時点では不安が募るばかりです。


緊急時に諸外国からの援助の申し入れが間髪を入れずあったのは嬉しい思いがします。特にアメリカが空母まで投入してきた力の入れようと、地震の後遺症がまだまだ残っているニュージーランド・クライストチャーチからの救援隊派遣には驚きました。


15日付けの日経新聞の「春秋」欄にこんな記事が出ていました。「震災後、外国からは驚きを込めて日本を評する言葉が伝わってくる。不屈、自制心、連帯そして勇気。改めて国の財産と強さを教えられた気がする。」ここまできて、はっと気付きました。映画「太平洋の奇跡」は、サイパンで戦った一アメリカ人兵士が、一人の実在した日本人将校を通じて、不屈、自制心、連帯そして勇気など日本の財産を失っちゃいけないよ、というメッセージだったんだということを。


この映画の原作は、ドン・ジョーンズという海兵隊伍長が、戦後37年たってから1944年のサイパンで戦った大場大尉を捜し出し、インタビューを重ねて書いた「タッポーチョ『敵ながら天晴』大場隊の勇戦512日(注)」が原作です。私のサイパン戦の印象は、バンザイ・クリフが強烈で悲惨な思いが強かったのですが、この映画と小説で考えが一変しました。あらすじは……。


1944年7月7日、日本軍守備隊が最後の総攻撃をかけて玉砕し、その後、北へ逃れた1万人前後の民間人も北端のマッピ岬へ追いつめられ、多くの人が投身し「サイパンの悲劇」をもって幕を閉じた。と思われ、私もそう信じていました。ところが、玉砕を覚悟していた大場大尉は一夜明けると、100人余の兵士と数百人の民間人がタッポーチョ山に生存していることを知ります。その日から大場大尉の民間人を守り、米軍を積極的に攻撃するという新しい戦いがはじまります。縦6キロ横5キロの限定された地域で、玉砕せず、降伏せずの正に神出鬼没の戦いで米軍を翻弄します。


実際のわれわれの洞窟抗戦の生活は、もっと暗く、不衛生きわまりなく、陰惨で、こんなに勇ましく米軍を手玉にとったようなことではなかった。しかし、米軍基地からパンを盗んできたことも、大掃討があったときのことも、堀内一等兵の活躍や数々の戦闘も、野営地の中で神がかりになる兵隊が現われたことも、すべて事実である。」………『タッポーチョ刊行に寄せて』(大場栄)。


そして、1945年12月1日まで、上官の命令書が届くまで降伏を肯んじなかった、大場隊47名は、「新しい軍服に着替え、戦友の霊に3発の弔銃を捧げた後、山を下っていった」と戦史叢書に記載されています。しかしこの物語は、一般にはほとんど知られることがありませんでした。


不屈、自制心、連帯そして勇気。これは日本人が本来培ってきた、大和心そのものだと思います。数万の敵を相手に、武器、弾薬、食糧、医薬品すべてが欠乏するなかで、屈することなく、戦い続け、生き続け、敵をしてリスペクトせざるを得なかった大場隊の話は語り続けられるべきです。


いま、東北が関東が日本が受けつつある困難も、日本人すべてが積極的に戦い抜き、「東北太平洋沖の奇跡」を来るべき近い将来に必ず実現させてみたいと、強く強く考えます。

どうして君は、それほどまで、我々の指令に応えてくれるのか?

地球に向かう軌道の精確さ、大気圏再突入の精確さを追求することは、自身の最後、熱に焼かれて燃え尽きるという残酷な運命を徹底することにつながるというのに。そして、その冷酷なシナリオを書いているのが、我々だというのに。

どうして、そうまでして君は……。」本文189ページ

 

2010年6月13日、7年間、60億キロの旅を終えオーストラリア南部、ウーメラ砂漠の空に鮮やかな軌跡を残し、その使命を100%果たした「はやぶさ」の姿は皆様の記憶に新しい事と思います。表題のこの本は、「はやぶさ」の生みの親、宇宙航空研究開発機構の川口淳一郎さんがはじめて明かすプロジェクト秘話として書かれたものです。

 

世界で初めてのイオンエンジンを使い、小惑星「イトカワ」とランデブーするまでの順調な往路、イトカワに着陸し標本を採取するスリルに満ちた物語、日本の探査機「はやぶさ」が、人類初の偉業を達成したはずだったのですが。「ところが、歴史的なタッチダウンから数時間後、『はやぶさ』に異変が生じていることが明らかになります。それは、地球帰還までの長く、あまりにも過酷な、もう一つの『はやぶさの旅』のはじまりでもあったのです。」本文136ページ。


ここからはタイトルだけを書いておきます。イメージ出来ますでしょうか。


歓喜の瞬間から一転、暗雲に包まれた管制室・燃料漏れによって、姿勢制御が困難な状態に……危機を救った、「生ガス噴射」という奇策……「弾丸発射されず!」管制室に走った衝撃……サンプル採取の、わずかな可能性を求めて……通信が途絶。無言のモニターをただ見つめていた……わずかな望みに賭ける!救出モードが発動……1パーセント、または0.1パーセントの確率……できるのは、「祈り」を送ることだけ……静かにすぎていった、「はやぶさ」のいない冬……最悪の次には「好転の兆し」がある。そう信じていた……3億キロ彼方の宇宙から届いた、「はやぶさ」のSOS……奇跡的に通信が復活。しかし、残された時間は少なかった……「はやぶさ」に手を握り返してもらうために……太陽の光で姿勢を制御して、ガス欠の危機を乗り越える……神の差配?生き残っていたリチウムイオン電池……誰が補充電回路をONにしたのか?……プログラムにない指令が、実行された不思議……「はやぶさ」の心臓、もはや停止寸前に……「ここまでなのか」、一瞬、頭をよぎった運用停止……ファインプレー。起死回生の一手が残されていた……「はやぶさ」に託されていた最後のカード……運命を受け入れた「はやぶさ」への言い尽くせない思い……「はやぶさ」の思いを、しっかり受け止めよう……


と、冒頭の「はやぶさ」への思いが語られるのです。一つの使命(ミッション)に一緒に立ち向かう幾つかの人口頭脳を持つ探査機ロボットとスタッフの人間的な、あまりにも人間的なやりとりでした。この感動的な本に出会ったのは全くの偶然でした。

 

特に見たいという意志もなく、ただただ偶然に導かれて、深い感動を覚えた経験はありますか。小惑星探査機「はやぶさ」がそうでした。2月3日節分、午前中時間が空いたので、吉田神社でもお参りするかと、思いついたのが始まりでした。東一条の交差点でタクシーを降りて人混みにもまれながら、吉田神社の参道を東へ、鳥居をくぐって境内へ、賽銭をあげて柏手うって、お豆さんを二袋買って出てきました。参道沿いに京大のキャンパスが見えています。ふと気がつくと正門を通りすぎて、百周年記念時計台記念館の中のフレンチレストラン「ラ・トゥール」の前でした。待ち時間を聞くと一時間、あきらめて正面玄関へ向かうと「はやぶさ帰還カプセル特別公開」のポスターが張ってあります。吸い込まれるように京大総合博物館へ入って行きました。

 

展示物は、はやぶさの1/8モデル、カプセルのカットモデル(模型)、あとは本物のインスツルメントモジュール、搭載電子機器、背面ヒートシールド、パラシュートでした。


7年間、60億キロの過酷な宇宙の旅をしてきたものとしては、可愛いい。貴重なサンプルを持ち帰ったカプセルは20×20×10センチ、大気圏突入で燃え尽きた本体は1×1.×1.1メートル、ソーラーパネルを含んだ全幅が5.7メートル。


そして、この会場の出口でこの感動的な物語が語られた本に出会いました。


 12月のみどり会タイムズでお知らせした11月5日の経営革新セミナーの会場で、「お一人でも参加があれば『経営者塾』を開きます。」と発表したところ、4社の申込があり、12月、1月、2月のそれぞれ第一土曜日に開催中です。

 

 テーマは、第一回「経営者のための会計力」、第二回「社長の夢をかなえる経営計画」、第三回「PDCAによる業績管理手法」です。社長様の多くが毎年、毎年見ていらっしゃる筈の貸借対照表、損益計算書などの財務諸表のご理解がいまいち弱いのと、経営計画を立てるのには欠かせない変動損益計算書を、どうしてもマスターして頂きたいとの思いから開催に至りました。

 

 参加者は、セミナーを社用で途中退場されたにもかかわらず、申込書を会場に残して置いて頂いた㈱ソルベックスの藤原忠生社長、今年喜寿を迎えられる園部重工業㈱の正木章三社長、女婿の上野修司様と、伝統的な西陣の帯製造の㈱高島織物の辻弘正社長、社長命令で参加された㈱トダコーポレーションの社長のご長男、次期経営者戸田慶吾様と彼を補佐する営業マネージャーの山口高治様の6名です。

 

 第一回「経営者のための会計力」は、貸借対照表と損益計算書の仕組みを理解して頂き、変動損益計算書を活用してもらうのが目的。いわば私の専門中の専門分野ですから、私の講義のあと、それぞれの会社の財務諸表を材料に自社の分析をしてもらう。当事務所の巡回監査担当者が各社につきっきりで補助をしていますから、比較的スムーズに進行し、それなりの成果はあったのではと思っています。

 

 第二回「社長の夢をかなえる経営計画」は、実は開講する前、少々心配しておりました。というのは講座の性質上、一方的な講義だけでは退屈ですし、効果も少ないと思われます。どうしてもブレーンストーミングなどの、参加者自らの体験や夢、経営理念などを語り合う事が不可欠と考えていましたが、上は77歳、下は28歳という半世紀に及ぶ年齢差、業種が違うのは当然ながらそれぞれのお立場の違い、活発なディスカッションが成り立つのかなとおっかな吃驚で始まりました。

 「経営計画の必要性」や「中期経営計画の特長」などを話しながら「経営計画の内容」まで進んで、「経営計画には社長の考えに基づく『経営方針』つまり『魂』が入っていなければならない」とまで読み進んだとき、突然、藤原社長が「そうだ、我が社は経営理念もあり、経営計画数値も毎年作っているが、『魂』が入って無いんだ。今日は『魂』の入れ方を勉強しに来たんだ。」と発言され、38年間の会社経営の経験を赤裸に吐露して頂き、俄然活発な議論が始まりました。午前10時から午後5時まで、いささか私も含めて全員お疲れ気味でしたが、終了する頃には中期経営計画の必要性とその効果に確信を持って頂いた様に思います。

 

 全国3000カ所で行われた「経営革新セミナー」も、続いて全国各地で行われているはずの「経営者塾」も、社長自らの会計力を高め、魂を込めた経営計画のもと全社一丸となって、全国で7割を越えるといわれる赤字企業を一日も早く黒字転換してもらいたい、というTKC会計人の祈りから始められたものです。勿論これら「セミナー」や「塾」だけで解決出来るほど単純なもので無いことは百も承知しております。しかし、失われた20年だとか、政府の無策を嘆いていては一歩も前に進めません。とにかく前に一歩踏み出しましょう。「セミナー」に参加頂き「塾」で学んで頂いた皆さんには、改めて勇気を貰った思いがします。

 

 今新たにTKC全国会では、金融円滑化法でリスケを申し込んだ企業が一年以内に提出しなければならない、「実抜経営計画」の作成を応援する契約を各地の金融機関と結びつつあります。そのため「継続マス」に加えてTKCシステム以外の企業にも使えるシステムも構築中です。金融円滑化法を利用する、しないに関わらず、今後経営計画を立てることは社内の活性化のためにも必須事項になるものと思われます。


今回事情があり、参加出来なかった方々のために、4月、5月、6月と経営者塾を開催する予定でおります。必要なら、開けという声が出るなら、その後も開催するのにやぶさかではありません。とにかく行動しましょう。

LETS GO!