行雲流水 ~所長の雑感~ -26ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

大阪は黒門市場の近くの「国立文楽劇場」へ、みどり会のレクリエーションに、顧問先の皆様と大勢で出かけたのは、いつだったのかなと、「みどり会タイムズ」を1号から繰ってみても記事がありません。ということは1993年以前、20年以上前の経験でした。そのときの感想は、古くさい難解なものという先入観が見事に払拭され、意外と親しみやすい面白いものでした。特に、失礼ながらお名前を忘れてしまいましたが、ご高齢の人間国宝の人形使い、人形宜しく左右から支えられて舞台に登場されたのに、人形を使い出すと別人のように滑らかな動き、永年鍛えた芸の力に圧倒されたのを思い出します。機会があれば、また行こかと思っていたのが、大阪の黒門は近くて遠い、あっという間に20年の年月が経過していました。

 

 ところが、わざわざ出かけなくても、毎年3月と10月に「文楽地方公演」と題して京都でも毎年やっていることを今回初めて知りました。2月25日から3月17日まで、おきなわ、かごしま、北九州市、大分、広島、京都は3月4日(日)、その後、倉敷、東京、尼崎、姫路、堺、津と22日間に12公演とかなりの強行軍です。結構頑張っているじゃん、というのが率直な思いです。大阪市長の橋下さんが、文楽への市の補助金を減らすと言ったとか、言わなかったとか。真意は分かりませんが、彼は文化、芸能の価値には無関心なのか無教養なのでしょうか。

 

 日曜日の5時、京都府立文化芸術会館へ出かけました。玄関へ入ると文楽人形が握手で迎えてくれました。あとで知ったのですが、本日のヒロイン、玉手御前でした。演目は、夜の部「団子売」と「摂州合邦辻」(合邦住家の段)。昼の部「新版歌祭文」(野崎村の段)ならご存知、お染、久松の心中噺、少々の予備知識はあるのですが、夜の演目は全くの初対面です。心配ご無用、太鼓拍子木の鳴り物とともに舞台に登場した裃姿の太夫さんが、見所、聞き所、勘どころ、あらすじなどをリズミカルに話してくれました。こころ準備が出来たところでいよいよ文楽の始まりです。

「団子売」は、江戸市中の団子売り夫婦、お臼と杵造の舞踊劇。「サァサァこれは大評判」、「御ひいき高い飛び団子」、「そんならお臼」、「杵造さん」、「さらばこれから始まりはじまり」と、4人の太夫の吟ずる声と、3人の太棹三味線の力強い音色が迫力一杯に、二人の踊りを盛り上げます。人間が踊るよりも、3人使いの人形ならではの振りが、色っぽく感じられました。

 

 さてさて、メインイベントの「摂州合邦辻」。元武士の出家、その妻、その娘 辻―今は玉手御前(河内の国高安家の老主君の後妻)、妾腹の子 次郎丸、前妻の子で嫡子の俊徳丸、その妻 浅香姫が繰り広げる波瀾万丈の物語。親子の情愛、嫉妬故の女同士の乱闘、お家大事と一死をもって殉ずる玉手姫。義理と人情のてんこもり、人形とはとても思えない表情と激しい立ち回り、充分堪能しました。また、人形使いの正面を見据えたままの無表情と、対照的な浄瑠璃語り(太夫)の物語の進行に合わせ千変万化する顔、体。英文の紹介によれば、He chants(歌い、吟じ)、shouts(叫び)、whispers(ささやき) or sobs(すすりない)the dialogue for all characters appearing in the play(劇中、全てのキャラクターのそれぞれの場面に応じて)―ていました。

 

 戦後、日本の歴史と伝統をないがしろにする風潮が、長い間続いてきたように思います。未だに公務員であり、なおかつ、子供を指導すべき教師でありながら、日の丸や国歌に対し、素直に敬意を表せない馬鹿者も若干いるようです。安倍内閣の「戦後レジームからの脱却」や「美しい国、日本」の発言あたりから、やや見直しの傾向は出ていたようですが、特に昨年から日本人の特質、優れた伝統を見直す発言が目につくようになりました。それには芸能は最高の媒体です。能、歌舞伎も大いに結構ですが、やや難解や、エクスペンシブな印象があります。その点、文楽は最高です。床本(台本)を目で追ってゆくだけで、充分楽しめます。また、一般4,000円、シルバー3,500円でした。

『広大な西本願寺の庭には、四季折々に花が咲き乱れる名庭「百華園」があって池の周囲は濃い緑に包まれている。その向うに平らな芝生の庭が広がり、大谷家と隣接する。実はこの芝が曲者で、近づいてみるときれいに刈り揃えてあって、なんと中央にはカップが切られていた。物陰から本物のピンが登場し、カップに差し込まれると、それまでの美しい庭が一転してグリーンに変貌し、難易度の高いゴルフコースが誕生するという仕組みだ。

「西本願寺の隠しホール!」そう思って、ゾクッとした。

門前さんこと大谷光照師によると、9ホールでパー「27」。かつて杉原輝雄プロもここでプレーしたことがあるが、六甲より難しいとつぶやき、パープレーは出来なかったとか。

ウェッジ一本を持って、「西本願寺カントリークラブ」をスタートしたが、いやはや、そのレイアウトの巧みさには舌を巻いた。茂み、木立ち、蹲(つくばい)などの各所に、庭園を散歩する人の目からそれとわからないようにティグラウンドが設置され、マットが固定してあった。短いアイアンを振る空間しかない上に、すぐ目の前に枝や葉が迫って、プレッシャーは強烈である。………日本のゴルフのルーツをたどっていくと、やがて西本願寺に行きつくことをつくづく思い知らされた愉快なラウンドであった。

――「読むゴルフ」(夏坂健)』

西本願寺前門主、大谷光照師は京都ヨットクラブ(KYC)のオールドメンバーで、琵琶湖ヨットクラブ(BYC)とは長い付き合いで何度もお会いしています。当時70歳代だったと思いますが、その頃、KYCとBYCで盛んだった最小クラスのディンギー、ヨーロッパ級でよくレースをされていました。沈(転覆)の用心に、艇尾に小さな縄梯子をつけておられたのを記憶しています。また、桂ゴルフ練習場でも何度かお会いし、気軽に声をかけて頂いていました。

 

 昨年暮れ、TKC全国ゴルフ同好会の全国大会が京都で開催されました。その世話役の一人だった、滋賀県の鈴木勝博先生が「こんなん知ってるか。」と冒頭のメモを私に見せてくれました。夏坂健は、35年間シングルを維持し、作家として『するゴルフ』『見るゴルフ』の2種類しかなかった日本に『読むゴルフ』の分野を開いた人として有名です。興味をもってインターネットを開いてみますと、いろんなことが見えてきました。

 

 まず、光照師のお父上、大谷光明さんは、ゴルフ黎明期の日本で有名なゴルファーで、1922年には日本アマになっています。また、川奈ゴルフの大島コースや、難コースで有名な名古屋の和合コースも設計されているとは、今まで知りませんでした。20世紀初頭シルクロードの研究に功績のあった大谷探検隊で有名な、大谷光瑞22代門主の弟が光明さんで、そのご長男の光照師が16歳で23代門主を嗣がれたようです。話があちこち飛びますが、現在のKYCの会長は、光照師の三女、大谷紀美子さんです。家内とは京女の中高での同級生で、最近、丹後プロジェクトなどでお会いする機会が多いのですが、例のメモをFAXすると、「そう言えば、庭でクラブを振らされた記憶があるが、ヨットは教えてくれたけど、ゴルフクラブは2度とさわってへんわ。」と、メールが返ってきました。また、221号で紹介した、『しょうがのたいたん』をつくって頂いた㈱オノウエさんの社長からも、実家が大谷家の近くだったのか、「子供のころ大谷家の庭に潜り込んで遊んでいて、よう追い出されたけど、芝生みたいなもんがあったなあ。」という情報も入って来ました。さて、西本願寺ゴルフコースは現在も実在するのでしょうか。期待は大いに高まったのですが……。

 

 年が明けて1月も終わりになったころ、大谷紀美子さんから家内へメールが入りました。用件の最後に、大谷家の新年会があったそうで、隠しホールが話題になったようです。メールに曰く、『9ホールはかなりの誇張のようです。そんなには無かった。ホールは開けてないけどマークがつけてあり、カップみたいなのをおくらしい。ティグラウンド?スタートのとこはあったそうです。もうゴルフに関連するものは一切ないとのこと。宗教施設に娯楽関係のものを作ってマスコミの餌食になるような事はしたくないので、すべて撤去したとのこと。なお新門はゴルフをするそうですが、家で練習するほど熱心ではないとのことです。』

 

 残念でした。

 皇后杯・全国女子駅伝が30回を迎えました。今年も京都は、連覇の期待がかかっていたのですが、残念ながら中盤の追い上げも実らず2位に終わりました。我が家から小川通を北へ300メートル行くと、往路は2区の勝負処、紫明通のS字カーブ、帰路はアンカーの序盤の走りが見られます。鞍馬口通を東へ500メートル行くと、往路は第二中継所、帰路は第八中継所、アンカーへの最終タスキリレーが見られます。地の利に恵まれすぎて、毎年どっちで見ようかなと迷っています。今年はキャノンの流し取りを試みようと紫明通へ出かけました。


 12時30分、西京極競技場のスタートから五条通を東へ、西大路で左折して北へ、正面に見える左大文字を目指して、6キロのゆるやかな登り道を一気に駆け抜けます。47人の大集団が徐々にばらけだし、数人に絞られ、残り100メートルで大阪の木崎選手が一気にスパート、トップでタスキを渡し、大阪優勝の流れを作りました。京都は、トップ集団の中ほど、3位か4位か、有力チームの兵庫、岡山がずいぶん遅れているようです。競技場でずいぶん遅れていた福島が気になりますが、トップがぼちぼち千本北大路にさしかかるぐらい、中継のヘリコプターの爆音が大きくなってきました。防寒具に身を固め、カメラを片手に自転車を引き出します。

 

 紫明通に着いてしばらくすると、まず、露払いの白バイが現れます。少しの時間差で福知山自衛隊の応援トラックが、続いてNHKの放送車、そのあと赤い制服の白バイ2台に導かれて選手の姿が見えて来ました。ゼッケン22は愛知です。大阪2位、京都は3位、中盤ぐらいに兵庫の小林選手の姿が飛び込んで来ました。3年前に、同じ2区で29人抜きの区間賞を獲得した選手です。小林選手は8年くらい前、須磨学園高校時代、12月の高校駅伝で3年間一区を走り、常に先頭でテレビカメラの正面に20分足らず映り続けていましたので、一目で分かりました。いつもはほんの2分ほどで全員が駆け抜けるのですが、今回は5分ほどの空白がありました。そして福島が来ました。最後のランナーへの大声援はいつもの事なのですが、今年は「がんばれ福島!」と大歓声です。


 3区から8区まではテレビ観戦。中学時代、連続区間賞を取り、京都の連覇に大いに貢献した久馬萌、悠の双子の姉妹の活躍に期待もしたのですが、順位は変わらず。後半は、1区30位から4位まで盛り返した兵庫の粘りや、千葉のアンカー、新谷選手の7位から一時は京都の2位をおびやかしそうな走りが目立っていました。トップでテープを切った大阪の徳田選手を迎えるチームメートの中で、3区中学生区間で区間賞の高松選手(ケニア人の父親がコーチ)の真っ黒い顔と白い歯が印象的でした。

 

 19年ぶりに大阪が2回目の優勝をしたのですが、複数回優勝は意外と少ない。京都の14回は別格ですが、他は千葉と兵庫の3回ずつだけです。地域別に見ると近畿の京都、大阪、兵庫の19回が突出していますが、関東が5回、九州が4回、中部と東北が1回ずつ、この大会が女子の長距離ランナーの底上げに寄与していることは疑う余地もありませんが、中学生から社会人まで9人、補欠を入れると12人の選手を揃えることの難しさがしのばれます。


 翌日の新聞から2つ、3つ。


 その一。閉会式での有森裕子さんの「……私が高校1年の時から大会が始まり、私は3年連続補欠。それから20年後、西京極の門外に足型ができる選手になれました。……この場にいるのはあなたたち。最高のチャンスです。ここから先はあなた次第で変えられる。京都から世界へ羽ばたいてほしい。駅伝は日本の誇れる、たすきをつなぐ競技です。この大会を大切にしてください。」というエールは、この場にいる選手に、勇気と希望を一杯与えたことでしょう。


 その二。30回大会を機に出来た「京都OG会」、第6回の優勝メンバーの一人、真木(現姓・山岡)和さん(43)が御所の前で中学生に応援する姿が写っていました。20数年前、烏丸鞍馬口周辺で、練習している姿や、アンカーとして緊張した表情で待機している姿を何度も見かけ、「がんばって!」と声をかけたこともあるだけに、変わらぬ可愛い顔に思わず懐かしさが込み上げてきました。


その三。「強い大阪の復活」という見出しで、3年前に32位と低迷した大阪の強化策と、優勝の感想が出ていました。「実業団選手が引っ張り、中高生が奮起するという、女子駅伝の一番いいところを出しての優勝は素晴らしい。」と前回優勝時のアンカー藤村(現姓・比護)信子さんの話が出ていました。停滞気味の政界に波紋を投げかけそうな「大阪維新の会」とともに関西の復権がなるといいのですが。


沸騰する土鍋に、とれとれの蟹の足をつけると、一瞬にしてパッと花が開きます。上を向いて口を開けると、蟹の甘さが口中に広がります。もう一本、もう一本と瞬く間に、足は無くなりました。次は甲羅を焼きガニに、はさみを刺身で、特注した緑のタッグ付きの間人蟹(タイザカニ)を瞬く間に平らげました。さて、これからが本番です。

 

 都市農村交流などで親しくなったニュー丸田荘の女将さんから、「蟹の安いうちに来ませんか?」と、電話がありました。名にし負う間人蟹も解禁直後の11月初旬と年末年初は高騰しますが、11月下旬から12月初めにかけて、それにウィークデイは、かなり落ち着くのだそうです。そこで、顧問先の草津鋼業の会長、横田さんに声をかけると、二つ返事で「行こか。」となりました。横田さん、中学時代からの付き合いで、草津鋼業は私が初めて設立(の手続き)をした会社で、来年50周年を迎えます。長い付き合いなのに夫婦で出かけたのは初めてやなあ、と後から気がつきました。

 

 ところで、ペンション『ニュー丸田荘』は、丹後半島琴引浜にあります。女将は二科会の会員で、玄関には自作の絵と、元花園大学学長の西村恵信先生の、その絵に「無」の心を感じるというお墨付きの色紙が並んでいます。蟹シーズンの料金は、一泊二食で15千円、いつも食べきれずに、今回も蒸し蟹一匹はお土産にして貰いました。


 みどり会タイムズの京丹後との付き合いも10年を越えました。2001年12月の「共育の里づくり」に始まって、2011年5月の「イノシシ・シカ供養祭」まで9回登場しています。人とのつながりが増えるとともに、京丹後の美味しい情報が一杯入ってきて、我が家の食卓はどんどん豊かになってきました。NPO法人・日本都市農村交流ネットワーク協会が出来てからは、交流も活発になり、人と人とのつながりで新しい事業も生まれつつあります。その1つが、「しょうがのたいたん」、農水省の第一回認定六次産業化事業計画(農林漁業者の加工・販売への進出)に選ばれました。これは、久美浜の専業農家㈱エチエ農産を中心にした『のうゆう会』と、京都のお惣菜屋さん㈱オノウエさんが協力することで誕生しました。(添付のしょうがの絵は家内の昌子、ひらがなは孫の拓朗の共同作品です。)

 

 2005年9月のみどり会タイムズでもご紹介しておりますが、延利地区のブランド米『京の宮御膳』は顧問先の深尾米穀で、『いかが紫峰米』はやはり顧問先の洛東食糧で販売していますのでいつでも購入できます。琴引浜の近くの長浜農園の7月限定のメロン「新ホウロウ」の味は何とも言えません。宮津の浜文さんの「ぐじの一夜干し」は絶品、生より味がぐっとしまっています。尉ケ畑(じょうがはた)の田圃で、田植えから稲刈りまでして収穫した日本晴れで、久美浜の熊野酒造で作ってもらった「じょうの酒」は市販されていて、京都市内でも購入できます。

 

 また、間人中浜の永雄酒造で偶然出来た17年ものの、「純米古酒」は何とも表現しにくい妙なる味がします。中川秀雄さん達、若い人たちが立ち上げた「源ちゃん」という米や無農薬野菜の販売所も繁盛しているようです。時々送ってくれる野菜やお米は、スーパーで買って来るのとは、ひと味もふた味も違います。久美浜の比治の里では、京丹後市直営の猪・鹿肉処理場ができ、いつでも気軽に買えるようになったそうです。毎月第3金曜日に行われるKBSの朝市にも、気軽に出展する人たちが増えてきました。


10年余りの交流で感じることは、京丹後に限らず日本の農村は、意外に物心両面とも、豊かなのではないか、ということです。今回の農家の所得補償や、大規模農地政策など、一律に農村が疲弊しているような報道や、政策が目に付きますが、単純な年間収入の比較だけでは計りきれないモノがあるように思えます。JAが買い上げない規格はずれの果物や野菜など、個人的な交流や流通が出来れば、都会の人々にとっても大きな幸せと恵みになりえます。JAは、手間ひまかけた美味しいお米も皆一律に目方だけで買い上げています。これも納得出来れば、美味しくて高いものが、当たり前に受け入れられそうです。


今のところ、田舎の親戚がたくさん出来たみたいで、大変重宝していますが、皆さんにもできることなら、おすそわけをしたいものです。今のところ組織的に何かをすることは、私自身考えてはいませんが、情報提供やご紹介はいつでもしますので、いつでもお声掛けをしてください。

 11月6日(日)同志社のホームカミングデーに、同志社版紫熱(はくねつ)教室が開かれました。これは、ハーバード大学教授、マイケル・サンデル氏の「白熱授業」の向こうを張って、マスメディアで活躍する3人の人気教授を迎えて、熱い講義とパネルディスカッションです。講師とテーマは、浜 矩子(同志社大学ビジネス研究科長)「グローバル経済の今とこれから―何がどうなる、何をどうする?―」、村田 晃嗣(同志社大学法学部・法学研究科長)「震災後の日本の課題」、今里 滋(同志社大学政策学部教授)「良心教育としてのソーシャル・イノベーション」でした。


村田教授の、日本がGDP、世界第二位に躍り出たのが1968年、明治維新から丁度100年目、2010年に中国が第二位になったのは、孫文の辛亥革命から100年目、近代化から経済的に成功するまで同じ時間という指摘には、興味を覚えました。また、戦後66年間、「戦前」、「戦後」という区分けを続けてきたが、今後は大震災を契機に「災前」、「災後」という枠組みで思考やライフスタイルを組み立てるだろうという言葉に、良くも悪くも大きな変化が待ち受けている予感がします。


浜教授の「何がどうなる」は、ポイントが三つ。その一 財政恐慌、その二 ドングリ戦争、その三 通貨激変。恐るべき事は財政恐慌とドングリ戦争、通貨激変は恐るるに足りない、と例によって一刀両断。ギリシャに始まって、イタリア、アイルランド、スペイン、US、日本と、予断を許さない財政恐慌。理由は、国々は多数、されど地球は一つ、地球は一つ、されど国々は多数。ヒト、モノ、カネが、大量に自由に国境を超えられるのに、国家は国境を超えられない。そのために、本来、国家経済のレスキューボートであるはずの財政が、難破しかかっている。


 ドングリ戦争とは、かつてパックス・ブリタニカ、パックス・アメリカーナの時代は、それぞれ英国と米国が軍事力も経済力も併せ持って、文字通り世界の工場となって、富を一国に集中させてき、日本の場合も軍事力を除いて、同じように稼いできた。今、中国がそのように見られているが、そうではない。中国が世界の工場になった、ではなく、世界が中国を工場にしている。従って、突出したものの存在を許さない。ドングリ達のツブシ合いが延々と続く。


最後に、日本と日本人にとって大変迷惑な通貨激変。しかし、1ドル50円に向かって収斂しつつある現象で、恐るるに当たらない。借金しすぎ、消費しすぎのアメリカが、無理をしつつ、機軸通貨たろうとする矛盾が今の現象。世界と日本が、ドルを必要としない時代、ドルの頸木から解放される地球経済回復のシナリオで、歓迎すべき現象とのこと。

いずれにしても、一つの国や地域で独自の文化を育てて、つつましやかに暮らしてきた時代から好むと好まざるとに関わらず、地球規模の坩堝の中へ放り込まれようとしています。


1492年、コロンブスのアメリカ大陸到達から始まりました。16世紀に入るや、スペインとポルトガルは、南米で金銀を略奪し、インディオを殺戮し、アステカ文明とインカ文明を瞬く間に崩壊させ、ヨーロッパ最強の国家を作り上げました。17世紀には、オランダが東印度会社を軸に、アジアの富を収奪しつつ、植民地支配を進めていきます。17世紀に入る直前、スペインの無敵艦隊を破ったイギリスが、産業革命に成功し、次々と植民地を増やし、18、19世紀の200年間、パックス・ブリタニカの世界を作り上げます。アメリカでは、19世紀の100年間、フロンティア・スピリットの美名のもと、ネーティブを殺戮しながら、土地を奪ってゆきます。思えばこの500年間は、ヨーロッパ列強の白人国家が、アジアと南北両アメリカの人々と文化を破壊しながら、自らの繁栄を競った時代でした。その後遺症に、未だ中東、アフリカが呻吟しています。アジア人の唯一の抵抗が、日露戦争と大東亜戦争だと、私は認識しています。

 

 21世紀の世界は、どういう展開になっていくのでしょう。浜先生は、「何をどうする」の解として、「国富論」を超えて「僕富論から君富論」へ、と締めくくられていました。新島襄の良心教育、先義後利(孟子)、自利利他のような東洋の哲学が、世界の人々に浸透してゆくのでしょうか。