行雲流水 ~所長の雑感~ -24ページ目

行雲流水 ~所長の雑感~

松田進税理士事務所 所長の松田が日々思うことを思うままに綴った雑記帳

 「スサノオノミコト様があまりに乱暴なさるので、アマテラスオオミカミ様は天の岩戸にお隠れになり天地は真っ暗になりました。その天の岩戸が向かいの崖の中腹の洞窟です。そこでお困りになった八百万(ヤオヨロズ)の神々は、すこし上流の天安河原(アマノヤスガワラ)に集まって相談しました。そして岩屋の前で宴会を始めアメノウズメノミコトが賑やかに舞い踊り、大騒ぎに興味を示した、天照大神が岩戸を少し開いたところをタジカラオノミコトが岩戸を開け信州の戸隠山まで投げ飛ばし、世に再び光が戻って参りました。」九州は高千穂の天の岩戸神社、若い禰宜の淡々とした説明を聞いていると、古事記の世界が現実味を帯びてきて、神妙な気持ちになり思わず手を合わせていました。


 農水省の六次産業化プロジェクトで、京丹後と京田辺の生産農家と一緒に、家内が大分県竹田市の「工房あゆか」(テレビ朝日の『人生の楽園』に昨年出演)に見学に行き、そのあと高千穂峡と天の岩戸神社を回る、と聞いて二つ返事でアッシー君を引き受けました。子どもの時、絵本で見た高千穂峡の真名井の滝の印象が深くて、一度は見たいなと思っていた潜在意識が甦ったのかも知れません。

 このあと天安河原へ。本宮から10分以上岩戸川を遡ります。さすがヤオヨロズの神々が集結している場所、仰慕窟(ギョウボガイワヤ)は、天の岩戸以上にスピリチュアルな雰囲気が漲っていました。さて高千穂峡はここから車で10分ほど、阿蘇カルデラを作った12万年前と9万年前の火山活動と何万年もの五ケ瀬川の浸食により出来たV字峡谷で、高さ80m~100mの断崖が7kmにわたり続いているそうです。神話によれば「真名井の滝」は天村雲命(アメノムラクモノミコト)が天孫降臨の際に水種を移したのが滝となって流れ落ちているのだそうです。美しい景色に見とれながら、あまりにもイメージ通りでかえって拍子抜けしたほどです。

 

 ひそかに神楽は見れないかなと期待していたのですが、流石に農水省のご紹介、高千穂神社の神楽殿で毎夜8時から演じられる「観光神楽」が予約してありました。開演まで2時間余、その間に腹ごしらえ「そば処『天庵』」へ。最近、日本国中何処へ行っても食事は豪華かつ平凡、代わり映えがしないものですが、さっと出てきた二皿に目を奪われました。まず一皿目は、煮物、しいたけ、自家製こんにゃく、さといも、

 

 高千穂の夜神楽は、毎年11月の末から翌年の2月にかけて各村々で33番を奉納し、秋の実りに対する感謝と翌年の豊饒を、文字通り夜を徹して祈願します。観光神楽はそのうちの4番を1時間ほどで演ずるそうです。高千穂神社の駐車場から松明の灯りだけの参道を神楽殿まで登り静かに開演を待ちます。ウィークデイの片田舎の夜、我々だけかなと思っていたら、開演直前にはほぼ満席、100人ぐらいはいたでしょうか。入場券と一緒に渡された簡単な説明書によりますと、①「手力雄(タジカラオ)の舞」②「鈿女(ウズメ)の舞」③「戸取(トトリ)の舞」④「御神躰(ゴシンタイ)の舞」と書かれています。①②③は天の岩戸神社の神職の説明通り、日本人なら誰でも知っている物語を順番に演ずるようです。④は説明書をそのまま写しますと「一名、国生みの舞と申しますが、イザナギ・イザナミお二神が酒を造ってお互いに仲良く飲んで抱擁し合い、極めて夫婦円満を象徴している舞であります。」とあります。

 

 笛と太鼓の音とともに始まりました。手力雄は雄々しく鈿女は妖艶に、野趣にあふれたお神楽がリズミカルに展開してゆきます。とうとう手力雄の手で岩戸が取り払われ、ご神体がちらりと姿を現しました。村々での本物ではこのタイミングでアマテラス(朝日)がサーット差し込んでくるのだそうです。いつか夜通し見物しそのシーンを見たくなりました。一呼吸おいて④が始まりました。


前半は説明書の通りに進行してゆきます、そしてイザナミが酔いつぶれたのを見るや、イザナギがみめ良い女性を口説きに観客席に降りてきました。しばらくして目覚めたイザナミはイザナギに殴りかかるとともに女性を突き飛ばし、まっすぐ私めがけて突き進んできました。腹いせに私が抱擁されるやいなや、イザナギが私を突き飛ばし次の女性に、イザナミも負けずに次々と………。大変な騒ぎにはなりましたが舞台に戻った二人は仲直り、いにしえのポルノを演じてお開き。男も女も老いも若きも大爆笑のうちに幕を閉じました。山深い山村の冬の夜長、歴史と信仰を守りつつ、娯楽を楽しみ教育も兼ねた伝統の行事なのでしょう。機会を作って見物する値打ちはあります。




大根、おあげ。二皿目は、大皿に高千穂牛のたたき、これは全国共進会第一席だそうです。続いて、そば粉と豆乳のボールに大根おろしとわさびなの汁物。そして、山菜のてんぷら、そば塩添え。材料はふきのとう、しいたけ、干柿、ニンジン、さつまいも、ピーマン。最後に自家製そば。心のこもった夕食でした。


京都御所の西向かい金剛能楽堂、紋付き袴の地謡が5人正座して、仕舞「笠之段」が始まりました、舞うは金剛龍謹さん。正面と二階席に制服姿の高校生がほぼ290人、脇席には祖父母世代の同窓生が約100名。京一商西京同窓会の運営の二つの柱である「育英事業を通じての社会貢献」と「会員相互の親睦交流」とを一つにする新しい試みとして企画された「能楽交流鑑賞会」はこうして始まりました。開幕前、高校生向けに解説していただいた、能楽の歴史や観賞のこつも結構目新しく、特に「舞台装置が簡略なので、思い切り想像力をふくらませて下さい。」には新しい発見がありました。


 続いて狂言「棒縛り」、ご存知の方も多いとは思いますが、盗み酒をする太郎冠者と次郎冠者を懲らしめる長者との立ち回り。棒縛りにあってもなお盗み酒に挑む太郎冠者と次郎冠者・・・茂山一門が楽しく演じてくれました。


最後は能「船弁慶」、前段は西国落ちをする義経一行、大物の浦(尼崎)での静との哀切な別れ、伝統的に子役が演じる義経に対し、堂々たる体格の金剛流26世金剛永謹さんが前シテ、静を舞います。アンバランスを感じないのも能の能たる由縁なのでしょうか。後段は 荒れ狂う海に船出した、義経、弁慶一行に襲いかかる風と波、これを茂山七五三さんが櫂さばきだけで表現します。嵐に乗って現れる平家の総大将知盛の亡霊。普通前シテ、後シテは一人で演じるようですが今日は金剛龍謹さんの親子競演です。知盛の能舞台一面を使う薙刀さばき、義経の太刀、弁慶の数珠の立ち回り、能ってこんなにスペクタクル?これも意外でした。


 ところで京一商西京同窓会って何?多分全国唯一、世界でも例のない組織のように思います。古い京都人は京一商には懐かしい響きを持っておられます。野球やラグビーの名門校として。特に戦後復活第一回の甲子園での優勝校です。また簿記、珠算を中心に経営を学ぶ優れたビジネススクールでもありました。税理士開業直後、新入職員を巡回監査に行かせたところ、社長に「おれより簿記知らん奴、来さすな」と叱られた覚えがあります。


創立は明治19年(1886年)、多数の京、大阪の経済人を生み出しました。戦後昭和23年に学制改革で、普通科と商業科をもつ京都市立西京高等学校として、新しい歴史を刻み始めました。私はここの8期生、昭和31年卒業です。昭和38年に西京商業高校となり普通科を解消、そのため女子が男子数を圧倒的に上回り、登下校時には女子校のようでした。平成15年未来社会創造学科エンタープライジングを創設して超難関校、西京高等学校となりました。


同じ校地に存在してはいますが、それぞれ校名も目的も違う四つの学校なのに同じ同窓会を運営しているのには訳があります。エンタープライジング創設に際して校舎の大改築が行われました。京一商同窓会は校地に隣接して、西大路御池に同窓会館を所有していました。地下鉄東西線の開業に際し、地下鉄の乗降口となり新しく建物を建て替えたため、管理が永続して必要となりましたが、いかんせん一番若者が80歳半ば、京一商の最終期のメンバーと西京の初期のメンバーは学制改革のどさくさで混じり合っています。西京のメンバーに後事を託す、と言うことで今年初めて西京卒業生が会長に就任されました。そんなわけでこのような催しが可能となりました。


 会の冒頭挨拶で校長先生が「アメリカ留学時代、高度成長期のただ中、日本がこんなに発展を遂げるのは素晴らしい文化があるからだろうと、ホームステイ先に能や歌舞伎のことを聞かれてなにも返事出来なくて恥ずかしい思いをした。今日を初めとして、君たちは充分に日本の文化を学んで欲しい。」と挨拶されました。後ほど西京のホームページを開けると「仕舞の動きに美しさや厳かさを感じた」「一本の棒と器しかないのに、酒を飲む仕草や場面が自然と頭に浮かんできて面白かった」「道具が少なく動く範囲も小さいけれど、その分自分で想像によって臨場感を感じ、迫力ある舞台に感動した」「笛や鼓が思っていたよりも遙かに複雑な音を奏でており、笛の不安定な感じや鼓のよく通る音が幽玄な雰囲気を醸し出していると思った」「舟を漕ぐ様子やテンポの早い音楽から、舞台に海の情景を浮かべる事が出来た」などと感想がありました。そして「このように素晴らしい機会を与えてくださった同窓会の皆様に感謝し、今後に生かしていきたい」としめてありました。ともあれ第一回の試みは大成功だったようです。

 去る11月1日、税理士の広瀬来三先生の「米寿を祝う会」に、お招きを受け出席しました。ご夫婦ともお元気な姿を拝見して、ご臨席のどなたもあやかりたいものと、思われたことでしょう。お祝いの会の前に「美しく齢を重ねる」という題の金美齢さんの講演会がありました。会に相応しく、元気に美しく年齢を重ねる高齢者へのエールだと思って聞いていたのですが……………。「……私は62歳になって初めて選挙権を得たとき、李登輝総統の人物、識見を知るために、三度台湾を訪ねた。最後には司馬遼太郎氏にも会って彼の人となりを確かめた……。そして私が長い間戦ってきた国民党主であるにも関わらず、今の台湾には彼が必要と考えて彼に投票した………。」ガツンと頭を殴られた気がして、一気に講演に引き込まれてゆきました。

 

 それまで、金美齢という名前は知っていましたが、比較的最近日本に帰化した、台湾生まれの辛口の評論家、ぐらいの知識しかありませんでした。しかし、チルドレンやガールズに振り回されている最近の日本人に対する鉄槌でした。政治家は政権ボケ、大企業の経営者は利益ボケ、マスコミは視聴率ボケ、大部分の日本人が平和ボケになって、まともに日本という国家と歴史に向き合ってない。そのことを台湾という立派な国として存在しながら国際的に、公に認めがたい複雑な歴史と現状に、戦いを挑み翻弄され続けた女史ならではのお叱りでした。

 

 東日本大震災に、台湾からの義捐金は、世界各国からの義捐金の総額を上回ったそうですが、日本のマスコミと政府は、中国をおもんばかってか大々的に報道しようとしません。世界で国民皆保険制度が出来ているのは、日本と台湾だけだそうですが、(日本が50年、台湾は20年)それも初めて聞きました。それが出来たのも1895年から1945年の50年の日本統治時代、「化外の地」として何世紀にもわたって、大陸中国政府から捨て置かれた島に、日本は本気でインフラを整備し、教育制度、医療制度、警察制度を整え文明国に育て上げた結果と、おっしゃいます。


 日本統治のプラスマイナスはあるものの、台湾からの義捐金の多さがその答えだとも聞きました。返す刀で麻生元総理と野田首相の国連演説に触れ、麻生さんの演説中に同時通訳の装置が壊れたそうです。その時すかさず、「IT ISNT MADE IN JAPANISNT IT?」と発言し、満場の関心を引きつけた事、それに引き替え野田首相の、原稿を棒読みするだけで、出席者が誰も話を聞いてなかったことを紹介し、一国の代表としてどちらが相応しいか。漢字の読み違いをことさらにあげつらって首相の座から引きずり降ろすマスコミと国民に未来は見えるのか、と厳しい指摘。

 

 思えば1973年、クライアントのお一人に、「台北で『エレクトリック・フェア』があるので一緒に行きませんか?」と、誘われて緊張しながら、かの地を踏みました。親しくなった日本語の出来るタクシーの運転手から、1945年、大陸からやってきた中華民国・蒋介石軍が蓑笠つけて鍋釜持ってやって来て、日本の軍人として規律正しい勤務をしていた彼から見れば、これでも軍隊?と呆れ果てたこと、1947年の2・28事件で台湾人の外省人に対する憎悪が決定的になったことなど、聞いたことが甦ってきました。

 

 戦争に敗れたとは言え、日本と言う国家におんぶにだっこされてきた、我々日本人には国の後ろ盾が無いと言うことがいかに不自由かということが想像できません。この講演とその後読んだ数冊の彼女の著書で、そのことが身にしみて分かりました。金さんがパスポートをもてない時代、中華民国のパスポート所持のとき、今、日本国籍のパスポートを所持しているとき、格段の差があったそうです。まさに日本のパスポートは五つ星だと言います。それも永年(戦前、戦後にかかわらず)にわたって、日本人が平和に真面目に真剣に世界の国々、世界の人々と交わしてきた素晴らしい遺産なのです。

 

 突然ですが、年内の解散が現実味を帯びてきました。目の前の政党、政治家を見てもこの党ならこの人ならというのは、今見えていないかも知れません。しかし、我々は金美齢さんが投票したように、時間とお金とをかけて真剣に選挙に対処してきたでしょうか。残念ながら私は必ず投票はしてはいますが、それほどの真剣さは持ち合わせていませんでした。しかし、この国を良くするためには、私達一人一人が金先生を見習っていくしかないようです。(この文章を書いていたまさにその時に、野田首相の16日解散発言があったようです。気合いを入れ直しましょう。)

9月23日午後1時すぎ、快晴のヤンキースタジアム。一回裏ノーアウト、一塁には四球のジータ、バッターボックスにはイチローがいます。なんとか進塁打を打とうとファウルでねばっていますが、最後にはサードフライを打ち上げてしまいました。この試合、先発は黒田でしたがあまりピリッとしません、イチローは4の1。アメリカンリーグの優勝争いも終盤にきて一位を競っているヤンキースにしては、盛り上がりのないゲームでアストロズに完敗でした。ヤンキースファン一色のスタジアムで時たまブーイングはあるものの、意外に静かだなと感じたのは、甲子園かぶれのせいでしょうか。

こんな時期にニューヨークでイチローが見られるとは、夢にも思いませんでした。横浜にいる娘(の夫の会社?)が、マンハッタンで知人のアパートを半年か一年借りることになったので、その間に来ないかと連絡してきました。それではと、寒くならない内に夫婦ともども「お上りさん」を決め込みました。直前にイチローがシアトルからニューヨークへ移籍、冒頭の場面が実現しました。ニューヨークに着いて3日目です。大リーグは20年以上前にロサンジェルスでドジャースを見たことがあるのですが、その時からは様変わりです。日本人選手はいっぱいいるし、情報はあふれているし、日本の球場で観戦しているのと、気分はほとんど変わりませんでした。

マンハッタンは、東西2.5マイル、南北12.5マイル、西はハドソン川、東と北はイーストリバー、南は大西洋に囲まれた小さな島です。そこを南北に15のアベニュ(Ave)、東西に200ほどのストリート(St)が碁盤の目のように走っています。有名な「ティファニー」は5番街の57丁目(5Ave57St)にあります。「セントラルパーク」は5Aveから8Aveの東西800メートル、南は59Stから北の110Stまでの4キロの長方形で、マンハッタンのちょうど真ん中に位置しています。ヤンキースタジアムはマンハッタンから北へイーストリバーを越えたブロンクスにあります。

さて、「お上りさん」はやはり観光バスが便利。3日間有効、54ドルの切符を買って、初日はまずダウンタウンツアーに出かけました。カーネギーホールの近くから乗車、Aveを南下、すぐタイムズスクエアが見えてきます。そこを北西から南東へ斜めに横切っている広い道がブロードウエイ、左右に「CATS」、「マンマ・ミーア」、「オペラ座の怪人」、「シカゴ」、「ライオンキング」とミュージカルの劇場が並んでいます。マディソンスクエアガーデンを左折すると、エンパイアステートビルの前にでます。ソーホー、リトル・イタリー、チャイナタウンを経てグラウンド・ゼロへ、すでに半分以上新しいワールドトレードセンターのツインタワーが立ち上がっていました。ウォールストリートを過ぎて南端のサウスフェリーへ。遠くに自由の女神がシルエットに浮かんでいます。帰りはブルックリン橋やマンハッタン橋を見ながら、1番街を北上、国連ビルを経て、49丁目を左折して5番街のロックフェラー・センターで下車しました。アパートは歩いて10分余りでした。

2日目は、アップタウンツアーです。セントラルパークの南西角、コロンブスサークルから乗車、ほぼパークを一周するコースです。ティラノサウルスの骨格標本で有名な自然史博物館、ジョン・レノンが住んでいたというアパートなどの高級住宅街をすぎ、「ウエストサイド物語」の舞台となったアッパーウェストサイド、コロンビア大学からハーレムへ。ウェストサイドもハーレムも、最近は治安が良くなったようです。ハーレムでは、車窓から庶民の暮らしがかいま見えました。パークの東側は5番街、ミュージアムが並んでいます。そのうちの一つ、メトロポリタン美術館で途中下車するつもりでしたが、なぜか道をそれてレキシントン通りを南下、後で聞くとマラソン大会で5Aveは閉鎖されていたようです。

4日目リバー・クルーズ。ハドソン川を下り、イーストリバーを北上する、摩天楼を外から眺めるツアーです。エンパイアも、美しいクライスラービルも、ツインタワーも、泊まっていたアパートもみんな見えました。とくに南端から二つの川に挟まれたビル群は人工美の極のように思えました。最後におまけ、下船したピアのすぐ近く、退役した空母イントレピッドの甲板にスペースシャトル、エンタープライズが今年の4月から展示されていました。シニア料金26ドルで見学してきました。

最終日、フェルメールだけは見ておこうと、タクシーをとばしてツアーでパスされたメトロポリタン美術館へ。広いのと次々と眼前に現れる名画の数々に目を奪われて、目的地になかなかたどり着けません。ようやく巡り会った、「水差しを持つ若い女」の印象は意外に小さい絵だなあ、でした。ヨットレースを見ている貴婦人を画いたモネの「セントアドレスのテラスで」が突然現れました。とてもアットホームな気分になりました。居間で毎日見ている絵が此処にあるとは、夢にも思いませんでした。

 テーブルに置かれた大きな四角いお膳の真ん中に、北海道を代表する食べ物、タラバ蟹、じゃがバターとトウモロコシが置かれています。それを囲むように、右手前にホッキ貝、ホタテ、いか、ヒラメの刺身の4種盛り。それから反時計廻りに、うにといくらが二皿ずつ、殻付きのつぶ貝、牡丹エビと焼き鮭の大皿、帆立とキノコ鍋、もずくの酢の物、うにといくらにほぐし鮭がいっぱいのった親子他人丼、タラバの鉄砲汁にデザートの夕張メロンがついています。天龍寺からの参拝団に北溟禅寺の中山晴王住職がご用意頂いた、北の大地ならではの海鮮料理の昼食です。

天龍寺の佐々木容道管長老大師が晋山されて4年になります。今年は御親化(ごしんけ)の旅に出ておられます。御親化とは、新任の管長様が全国の末寺を訪ねて、住職や檀家の方々に親しく説教されることを言うそうです。今回は最北端の末寺、北溟禅寺へ行かれるということで、参拝団ができました。佐々木管長以下僧侶の方が9名、天龍寺一滴会会員15名、御用達会11名、計35名の大所帯です

中山住職は若いころ、海外青年協力隊の隊員として活躍されていたそうです。たまたま、南方のある遺骨収集団に加わったとき、一僧侶の話から仏縁を得、縁あって平田精耕天龍寺前管長のもとで修行されたそうです。そのうち、故郷の稚内で一寺を建立したいという悲願を立てられました。紆余曲折はあったのでしょうが、平成2年に平田精耕老大師を開山に、本堂と庫裡二棟を、鯨の解体工場を改修して出来た新しいユニークなお寺です。簡素な石庭風の庭には鯨観音がまつられ、その背後には石組みの鯨(らしきもの)が鎮座しています。

さて、話が前後していますが、参拝団一行は、8月27日お昼前、全日空で稚内空港に降り立ち、北溟禅寺の本堂に入りました。先着しておられた藪内家若宗匠と藪内社中に「呈茶」を受け、京都の「末富」さん特製の「鯨観音羊羹」を頂いた後、法要が始まりました。鯨観音菩薩へのお献茶、般若心経の一同唱和に続いて、和尚さん方が「観音経世尊偈」、「大悲呪」をあげられている間に、一同焼香して法要終了。その後、設えを整え直し、佐々木管長の「御親化」がありました。話中、中山住職が天龍寺では佐々木管長の1年先輩であることなどのご紹介から、開山夢窓国師の「山水に得失無し」をひいて、一元論の興味深いお話を頂きました。その後が冒頭の直会(なおらい)のご馳走につながります。

この後、日本の最北端、宗谷岬ではるか樺太をのぞんだ後、稚内全日空ホテルへ。夕食前の時間を利用して、ホテルのパンフにあったノシャップ岬の夕日を見に行きました。さすが北の果てのサンセットは雄大でした。夕闇に煙る利尻富士を左手にしずしずと日本海に沈んでいきました。明日は旭川へのバス旅行、旭山動物園に行きます。

ご存知の方も多いとは思いますが、旭山動物園は動物のユニークな展示の仕方で評判を呼びました。狼の群の真ん中にある透明なドームに頭を出すと、目の前に狼の顔がでます。ペンギン池の下から透明なアクリル越しに見上げると、あたかも空を飛ぶ鳥のようにペンギンが水中を飛び回っています。2、3年前、初めて見たときは、なるほど、ペンギンは鳥なんだなあ、と妙に感心したことを思い出します。透明なアクリル柱のなかをアザラシが上下に泳ぎつつ、時々、円柱の中で停止して、こちらをじっと見つめられると、こっちがあっちから見物されているような気さえします。北極熊が餌を追って水中にダイブし、目の前で犬かきならぬ熊かきで泳ぐ姿も大迫力です。北海道とはとても思えぬ30度以上の暑さの中を、皆さん元気に見物されてました。途中で出会った管長さんのいかにもリラックスされたお顔が印象に残りました。明日は、特急スーパーカムイ12号で札幌行きです。

午前10時前、札幌駅につくと、既にホームにバスガイドさんが待っててくれました。札幌はバスの車内から、雪祭りの大通り公園、テレビ塔、時計台、大倉山シャンツェなどを遠目に見つつ小樽へ。小樽では1時間余りの散策。思い思いに運河沿いを歩き、ガラス細工のお買い物、名物ソフトクリームなどを楽しみました。そして、家内の従兄弟、杉の目さんの経営する、ジンギスカン「景勝園」へ。札樽国道沿いの高台、石狩湾をのぞむ景勝地にあります。特別に頼んでおいたせいか、特別に美味しいジンギスカンとえぞ鹿のヒレが用意してありました。その後、千歳空港へ、鯨観音参拝の旅は無事終了しました。