宇治上神社が私の記憶に留まったのは、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一つ、「日本最古の神社建築」として登録されたときだと思います。何が最古なの?と疑問を持ちながらほとんど忘れていました。10月の末、宇治上神社の国宝、拝殿の檜皮葺きの修理終了と京都新聞に記事が出ていました。
11月連休、特に予定もなく過ごしていましたが、急に思い立って宇治上神社を訪れました。ナビの案内のまま宇治橋を渡り右折、休日のスタンプラリーに宇治の名所を巡る人々の間を縫って、狭い道を駐車場を探しつつ進んでいくと世界遺産、宇治上神社の大きな石碑につきました。道路整理をしている人に「駐車場は」と聞くと「参拝ですか」とたずねられ「はい」と答えると「どうぞ」と門の直前の脇道に案内されました。連休のさなか人通りで一杯の観光地の神社の門前に路上駐車をしていいの?と首を傾げながら、門をくぐりました。
正面に美しく葺き替えられた檜皮葺の拝殿(国宝)がありました。順路の矢印にそって拝殿の裏にまわると、これも国宝の本殿があります。神域の森を背後に控え、素朴で簡素な檜皮葺の建物です。
神社のパンフレットには
「《国宝本殿》内殿三社(一間社流造、檜皮葺)覆屋(桁行五間 梁行三間流造、檜皮葺)
覆屋とその中に並行して収まる内殿三社が、神社建築として日本最古の遺構である。建築年代は年輪年代測定法により、1060年と判定せられる。内殿三社は平面的に大きさ、様式が細部において、わずかながら異にする。左殿と右殿はほぼ同形式であるのに対し、中殿は最も小規模かつ構造も最も簡素であり、又左右両殿が構造の一部を覆屋と共通に用いるのに対して、独立の形式をとっている。内殿三社が現在まで耐え得た要素の一つとして覆屋によるところが大きい。………」とあります。
覆屋の格子を透かして中を窺うと御祭神は、中殿・応神天皇、左殿・菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)、右殿・仁徳天皇とあります。なにかが閃きましたが確とはしません。本殿の左右に並ぶ小さな末社に詣でるうち、その一つ香稚社の祭神は神功皇后と武内宿禰(タケノウチノスクネ)でした。もやもやが形を現しました。古事記の世界が眼前に広がってきました。
最近読んだ「眠れないほど面白い『古事記』」によると、武内宿禰が仕えた神功皇后のあと皇位についた応神天皇の後継者として三人の有力な息子がいました。年の順に上から、大山守命(オオヤマモリノミコト)大雀命(オオサザキノミコト)菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)。応神天皇は末の皇子、菟道稚郎子に譲ろうとしていました。天皇が没すると大山守命は皇位を狙って菟道稚郎子を亡き者にしようと、宇治へ攻め込みます。大雀命の知らせでこれを知った菟道稚郎子は計を案じて返り討ちにします。その後オオサザキとウジノワキイラツコはお互い譲り合うこと三年、天下は乱れ人民は困惑します。ウジノワキイラツコは「久しく生きて天下を煩わさむ」と自ら命を絶ちます。オオサザキは難波から宇治へ駆けつけ手厚く葬ります。「これが後に宇治上神社創建の濫觴(始まり)であります」とパンフレットには記してありました。ようやく皇位についたオオサザキは、後に聖帝(ひじりのみかど)と称えられる仁徳天皇となります。……古事記中巻、最後の物語です。
さて宇治上神社の隣、宇治川に面したところに宇治神社があります、御祭神は菟道稚郎子。関連は大いにありそうなので、インターネットを開くと「当社のすぐ近くには宇治上神社があり、明治以前は当社は『下社』『若宮』、宇治上神社は『上社』『本宮』と呼ばれたほか、両方を合わせて『離宮八幡宮』『桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)』とも呼ばれた」とありました。(Wikipediaより)平安中期の永承7年(1052年)藤原頼通が平等院の創建にあたり鎮守社として以来、平安時代には藤原氏を中心に大いに賑わっていたようです。
そういえば神功皇后と武内宿禰をお祭りする香稚社の前で、地元のボランティアガイドが観光客に、「このあたりに藤原氏の別荘があり、こちらを此岸、平等院鳳凰堂を彼岸と見立て極楽浄土に往生することを願って朝夕礼拝をしていた、と伝えられています。」と説明しているのを、聞くともなく聞いていましたが、眼前の木々を切り払えば眼下に鳳凰堂の美しい姿が浮かび上がるようです。本殿の檜皮葺は来年(平成26年)吹き替えられるそうです。秋の紅葉のころ再訪して、またしても一つ、見つけた京都の社寺の歴史物語とミステリーを確かめて見ようと思います。
