TKC近畿京滋会では毎年10月ごろ、秋季大学を開催しています。今年私がその大学長を命じられました。TKC全国会には、近畿京滋会のみならず北海道から九州まで20の地域会がありますので、毎年20の大学がいろいろな趣向をこらして開かれます。学生は所長税理士のみならず、事務所職員、関連協力企業の役員、社員ときには顧問先企業の方々をご招待することもありました。内容形式には一切の制限はありませんが、著名人をお呼びしての講演会、座談会、パネルディスカッションなどが多いようです。特異な催しとしては、数年前近畿京滋会で「あなたの走る姿を見てみたい」をキャッチコピーにした「大運動会」がありました。
さて大学長の仕事の第一は、今年の大学のメインテーマと催しを決めることです。昨年の夏過ぎから過去のテーマを調べ、他地域会の催しの資料を取り寄せるなどいろいろ考えるのですが、ぴたりと心に響くものが出てきません。そんな中、一枚の案内状が届きました。
MidorikaiTimes vol.233(2013年1月号)でお知らせした西京高校の「能楽交流鑑賞会」の第2回のお知らせです。12月3日実行委員長以下若手の実行委員数名に声掛けして、鑑賞会に特別参加させてもらいました。能は「羽衣」、狂言は「蝸牛」、反応や如何にと皆さんの様子をうかがっていると、金剛能楽堂で無形文化遺産が眼の前で演じられているのに、半数は贅沢なお昼寝です。しかるに閉演後、金剛能楽堂を借り切って「秋季大学」を開催してはと提案すると意外や意外、賛成多数。12月27日金剛永謹お家元と細部をつめて、おそらくTKC全国会の秋季大学で初めてとなる「能楽鑑賞会」が10月10日に開催と、とんとん拍子にまとまりました。
さて年が改まるとタイミングよく京都新聞で「世阿弥に学ぶ」(文化庁関西分室長、天野文雄)の連載が始まりました。有名な「風姿花伝」に続いて1月末から「花境」が登場しました。その第二回「初心忘るべからず」の登場です。ガツンと頭をどつかれました。「青天の霹靂」とはこんな時に使うのでしょうか。実行委員の皆さんへの説明に「『初心忘るべからず』は誰でも知ってるでしょ。花伝書(風姿花伝のこと)に書いてある言葉で能は決して縁遠いものではないですよ。」と偉そうに言っていたのが出典も意味も全然違いました。まず「花鏡」の存在に無知でした。そして皆さんもそうだと思いますが、意味は「始めた時の新鮮な気持ちを忘れてはいけないよ、物事に慣れて慢心してはだめ。」ぐらいに軽く考えていました。
「花鏡」に曰く、
「しかれば当流、万能一徳の一句あり。
初心忘るべからず。
この句、三ケ条の口伝あり。
是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず。
この三つ、よくよく口伝すべし。」
と、「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」を書き分けています。
まず「是非の初心」とは、24、5歳のころの未熟な芸を言います。後々までもその未熟な芸を体に記憶させておかなければ、その後の熟達した芸鏡も理解できない。役者として成功し、名声を獲得するのは、芸が上達した結果である。しかしせっかく上達した芸鏡を自覚できないといつの間にか昔の未熟なレベルに戻ってしまい、また戻ったことに気づくこともない。
「時々の初心」とは、24、5歳の初心の時代、34、5歳の役者盛りの時代、そして50以後の老後に至るまで、それぞれの時期にふさわしい曲や演技を選んで演じること、それが「時々の初心」、つまり「時々の初体験」である。過去に演じてきた演技の一つ一つを、現在の自身の芸として全て保持しているならば、どんな演技も可能になりレパートリーも尽きることがない。
最後に「老後の初心忘るべからず」というのは「人間の生命には終りがあるが、能芸の修行には終りというものはない」ということである。年齢に即した演技のすべてを体得したあと、あらためて老後にふさわしい演技を修得する、これが「老後の初心(初体験)」である。これを要するに、生涯にわたって、これら三つの「初心」を肝に銘じて過ごすならば、老後にもなお芸が上がり、芸が後退することもない。能芸の限界を露呈せずに一生を送ること、これを当流の奥義とし、秘伝として子孫に伝えるべき教訓としているのである。(同紙、現代語訳から)
「是非の初心」「時々の初心」を思い返し、そして特に「老後の初心」に心して「心の修行」を続けたいものです。そして私の心の中で秋季大学の「メインテーマ」が決まりました。
「初心忘るべからず」次回の実行委員会で提案しようと思います。