今年の大文字は「鱧料理と五山の送り火鑑賞・京の夏LIVE」の文字に魅かれて、「音戸山山荘・畑善」で見ました。
畑善さんは鳴滝の音戸山の中腹にあり、眼下に仁和寺の三重塔を見おろしその直線の向こう、真正面に如意ケ嶽があります。
「アキヒトさん」のギターと「福原佐和子さん」の箏という、めずらしい組合せのライブをバックに、美味しい懐石をほぼ食べ終わった午後8時、夕方までの豪雨に負けず「大」の字が真っ暗な闇の中に浮かび上がりました。30名ほどの参加者から「ほうっ」と声の無い声が上がりました。木々に視界を遮られた場所だけに如意ケ嶽の「大」だけが空間に浮かんでいるのは、かなり幻想的な景色でした。
京都に住んでいると当たり前のことですが、送り火は観光行事ではなく、れっきとした宗教行事です。
もともとは8月13日に迎え火を燃やし、我が家にお迎えした、「お精霊さん(オショライサン)」(祖先の霊)を16日に黄泉の国に送り火で送る「門火」の行事があったそうです。そういえば左大文字のお膝元、西大路の一つ東の通りの、鞍馬口通りと上御霊前通りの間に8月16日の午後8時すぎ、町内の家々の前に軒並み篝火を燃やしているのを見たことがあります。ひょっとして「門火」の名残なのでしょうか。
8月5日の日本経済新聞、「京都の送り火 点火5分刻みに 時間変更半世紀ぶり」という記事に驚きました。私は昔から大文字から左へおよそ5分刻みぐらいで点火されている、という印象でしたから。
記事によると従来は「大文字」午後8時、「妙法」午後8時10分、「船形」午後8時15分、「左大文字」午後8時15分、「鳥居形」午後8時20分だったのを、「妙法」と「船形」を5分ずつ前倒しすることで、丁度5分刻みで順次点火することになったようです。
記事中で京都五山送り火連合会の川内会長は「五山全ての点火の瞬間が見られるので、より満足してもらえるのでは」と笑みがこぼれる反面、時刻を均等割りにする理由についての質問には「連合会長の立場として送り火の尊厳にかかわる」として「ノーコメント」を貫いた、とあります。識者の言として中部大学の和崎教授は「五山の各保存会にも誇りがあり、自らの火が一番と思っている。それぞれが主役になりたいはず」と推測する、とあります。
夏の風物詩として有名な大文字の送り火ですが、起源や由来は謎に包まれているようです。京都ではほとんどの行事や風物は、朝廷の記録に残されているのですが、大文字に関して公式記録はないようです。あくまでも庶民の「門火」の延長で各々の集落の自発的行為であったようです。各保存会には言い伝えや記録が残っているのかも知れません。
ところで、「大文字の火が消える午後8時過ぎ、東山に満月が昇る。あたかもお精霊さんが送り火に送られて天に昇っていくようだ。大文字を始めた昔の人はそこまで考えていたんだ。」という話を聞いたか、読んだかした記憶があります。
旧暦8月16日の午後8時頃に一度確かめてみよう、と思いながらもう何年たったのでしょうか。実は「畑善さんの大文字」に参加したのもその日に畑善で一杯傾けていたら、如意ケ嶽から名月が昇るのが見られるかもしれない、その下見にでもという気が心のどこかにあったのかも知れません。
8月15日、京都新聞で面白い記事を見つけました。
「大文字点火 1時間前?」
「江戸~明治初期 日の入り直後、薄暮の中燃える」
「京の研究者、文献から推定」
と題字にあります。上京区の青木博彦さんが著書「大文字古記録の研究」の中で現在の太陽暦に移行する1873(明治6)年までの点火時刻を調べています。
なかでも本居宣長の『在京日記』に1756(宝暦6)年7月16日に三条大橋で大文字を見た後、木屋町にある師の家を訪れ、東山から月が出た様子が書かれているそうです。
記事によると「この日の東山から月が昇る時刻を、国立天文台の公開数値や京都市の標高などから、午後8時2分と算定した。日記の記述から足取りを推測し、平均的な歩く速度を基に、本居が三条大橋で大文字を見たのは午後7時16分とはじき出した。本居が大文字を見た時、火はまばらに消え残っていたと記されていた。ほかの文献から当時の燃焼時間は20分とし、点火時刻は午後7時16分の20分前の午後6時56分とした。日の入りの午後6時46分の直後で、日暮れの午後7時22分には火は消えていたことになる。……旧暦時代には日の入り直後に点火されていたと結論づけた。……」と書かれています。
大文字が消えた後、満月が昇るという証明になるのでしょうか。
旧暦ではお盆は7月に行われていたそうです。旧暦では7月は秋でした。俳句の世界でお盆は秋の季語だそうです。さて今年の旧暦7月16日は今の暦で何月何日になるのでしょう、誰か教えて下さい、分かればその日畑善で一杯やりませんか。