集団的自衛権の行使容認がとうとう閣議で決定されました。7月2日の各紙は一面に記事を掲載し、社説には一斉にその賛否を繰り広げました。誤解を恐れず一刀両断すると、賛成は読売と産経、反対は朝日と京都、微妙なのが日経と毎日だったでしょうか。
私としては賛成も反対もありません。国家の存在価値とは極端に言えば、外国の脅威から国を守る、国内の暴力から国民を守る、そのため税金を徴収する、の三点です。これが出来なければ国家とは言えません。軍隊と警察と税務署が機能していない国の惨状は、毎日いやというほど報道されています。個別であろうと集団であろうと、自衛権は個人の正当防衛と同様に議論の余地の無いものです。
占領基本法と言ったほうが解かりやすい現行日本国憲法は、一日も早く自らの歴史と日本人としての価値観を土台に創り直すべきだと思います。しかし憲法第9条の美しい言葉「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。」は何とか残せないものかとは考えています。2020年のオリンピックを控え、世界へ日本の様々な情報発信をするベースに、世界で唯一のこの宣言を前面に押し出すのは素晴らしいこととは思いませんか。
しかしこれだけに頼って国の安全を保てるなどと考えるのは愚の骨頂、憲法前文の「………平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した。………」だけで70年の平和が保たれたのでは決してありません。言うまでもないことですが、これは東西冷戦という特殊な世界情勢と、経済的にも軍事的にも超大国であったアメリカとの同盟関係があったればこその結果です。しかし世界は常に変化し続けています。その変化に柔軟に対応し続けなければ、生き残っていけないのは、人も企業も国も変わりありません。
そういう意味でいうと、世界の変化に対し日本という国がどう対処し、どういう国になっていくのか。国会での論戦も報道もこういう新しい視点での取り組みは一切無かったように思います。反対論者は憲法第9条を金科玉条のごとく崇めたてまつり、そこから一歩も前へ踏み出そうとしない。個別的、集団的などという言葉遊びに終始して、自衛権の本質に踏み込めないままに終わってしまったように思います。
そんな中、6月10日「防衛大学校で、戦争と安全保障をどう学んだか」という本が出版されました。その《まえがき》で「本当の平和主義とにせの平和主義の違いは、自国の国の主権と独立を守ることにより、国際の平和と安全に責任を果たすか否かに存している。そういう責任感に裏打ちされない“平和主義”は、主観的意図が善良か邪悪かにかかわりなく、直接および間接侵略の危険を招き、自国の安全と世界の平和を破壊する」と、防衛大学校第三代校長にして、日本を代表する国際政治学者でもあった猪木正道のある年の卒業式の言葉を紹介しています。今から40年ほど前の言葉ですが、今でもというより、今だからこそ十分に通じる見方です。
そしてその《まえがき》には「………2009年4月5日、筆者である杉井と星野の二人は、第57期生として防衛大学校に入校しました。ちょうどその日、北朝鮮は日本列島上空を通過させる形で、弾道ミサイルを発射し、世界を騒然とさせます。当然、入校式らしい祝賀ムードはほとんどなく、味わったことのない緊張感がその場を支配していたことを記憶しています。それは、自分たちがその日以来、“国防の人”となったのだと自覚させる瞬間でもありました。
もしかしたらこの国の平和なんて、簡単に消え去るほど、もろいものなのかもしれない………私たちはその日、たしかにそう思わされたのです。………右でも左でも中道でもなく、積み上げられた理論と歴史によりながら、論理的に、科学的に思考し、ありのままの世界を見ようと努力しつづけること。それが防衛大学校で私たちが学んだ世界の見方です。………戦争と平和、日本と世界の安全保障問題を考えていくうえで、基本となる大切なことが、ひととおりわかるような内容にまとめたつもりです。読者の皆さんにとって、この本のなかで触れられた世界の見方が少しでも参考になれば幸いです。」で《まえがき》は終わっています。
読了して非常に参考になりました。知っていたつもりの歴史的事実も、論理的科学的に思考すると、違う側面が見えてきます。ここ2ヶ月ほど国会で議論していた人々、報道し論評していた人々は、せめてこの本の知識ぐらいは持っておられたのでしょうか。ニュースなどからしか判断出来ませんが、残念ながら私にはとてもそうは思えないのです。少なくとも安倍総理、岸田外務大臣、小野寺防衛大臣ぐらいは当然知っておられることを期待しましょう。