恒例の京都税理士協同組合の春の旅行、今年は仙台。日本三景の一つ松島観光もあるので参加したのですが、小さく書かれていた(石巻地区視察と震災語り部の講話)を見逃していました。一日目仙台空港到着、牛タンの昼食後ニッカウヰスキー仙台工場へ。ここでしか販売していないシングルモルト宮城峡を購入して秋保温泉へ、なかなかグーな温泉とホテルニュー水戸屋でした。
二日目、観光バスで石巻駅前に到着すると、観光ボランティアの斉藤さんが乗り込んでこられました。高齢のご婦人です。冒頭、ご自身の体験からでした。
「外出から戻り玄関に着いたとき、強烈な地震にみまわれて立っていることも出来ませんでした。ようやく揺れがおさまり、家に入ると家中、足の踏み場もない有り様、茫然自失のままかなりの時間がたっていました。このあたりは航空自衛隊のブルーインパルスの訓練空域で、相当な防音工事がしてあって、防災無線の避難勧告が全然聞こえませんでした。ふと何かを感じて窓を開けると道路は避難する人々で一杯、すぐ後ろにはヒタヒタと津波が押し寄せていました。」と実体験だけに凄い臨場感がありました。
その後再建中の長大な魚市場以外は、つい先月までがれき置場だった場所やところどころにとり残されている建物がある空き地など、嘗て住宅地だった場所が広大な背の高い雑草に覆われています。道路ひとつ隔てて山側は住宅再建が可能地で盛土工事中、海側の再建不許可地はやはり雑草に覆われています。仙台空港へ向けて帰る途中も再建不許可の場所はすべて同じ雑草がはえていました。青森、岩手、宮城、福島と海岸沿いの土地は皆同じような光景なのか、津波直後の瓦礫が撤去されているだけに返って寒々とした景色に見えました。全校生徒が一斉に駆け上がり難を逃れた門脇小学校、その背後の高台が日和山です。その正面、長い高い石段の上に石の鳥居が見えています。その石段でもかろうじて登り切って助かった人、力およばず津波に飲み込まれた人、バスを降りての斉藤さんの丁寧な説明が続いています。
人々の明暗を分けた高台を眺めているうちに妙なデジャ・ヴュ(既視感)が湧いてきました。私が高台に立って手をかざして、暗い海を眺めています。そして「オヤー」となにか異変を見つけました。滋賀県大津市真野小学校、昭和22年秋の学芸会です。私は3年生、昭和20年の終戦直前、縁故疎開で母方の叔父の家で2年生と3年生を過ごしました。多分担任の先生が何かの物語か記録を読んで私に暗記をさせ演じさせたのだと思います。三陸大津波の話だったことは覚えていますが、内容は思い出せません。村の古老が、昔経験した津波の異変を見つけて村人を救った話だったようです。
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」と突然バスガイドさんが百人一首を口ずさみました。これは私の十八番(オハコ)この札だけは他人に取られたことはありません。なぜ百人一首と首をかしげましたが、松山は仙台の北にある多賀城市にある地名、平安時代前期の貞観時代、三陸大津波の波がここ松山を越さなかったことにかけての恋歌だそうです。
4年前の凄まじい生々しい津波の現場から、いっぺんに60年前の私の経験と記憶、千年前の貞観地震と百人一首、頭の中の整理がつかなくなり、京都へ帰ってから「三陸海岸大津波」(吉村昭)(初版昭和45年)を買ってきました。この本には「明治29年の津波」「昭和8年の津波」「チリ地震津波」の大津波を記録や聞き書きでまとめたものです。これによると私の学芸会の話は「明治29年の津波」の経験者が「昭和8年の津波」のときに経験を生かして、何人かの村人の命を救った話のようです。
この本にも出てきましたが、岩手県田老町の万里の長城と言われていた、堅固で長大な防潮堤も今回の津波は楽々と乗り越え一部は破壊されたそうです。また同じく文中で、明治29年の大津波、昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震津波、昭和43年の十勝沖地震津波を経験した岩手県田野畑村の早野幸太郎氏(当時87歳)の言葉として「津波は時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」と紹介し、吉村昭も「すさまじい幾つかの津波を体験してきた人のものだけに重みがある」と書いています。
しかし4年前の大自然の脅威に直面した今、海の幸、山の幸に恵まれて暮らす三陸の人々は、どんな折り合いをつけて暮らしてゆけばよいのか、宮城県への旅は重い宿題が出来たようです。