『技術大国幻想の終わり』1 | 宇宙とブラックホールのQ&A

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2019年6月6日にYahoo!ブログから引っ越してきました。よろしくお願いします。

書評です。
畑村 洋太郎 著 『技術大国幻想の終わり』 講談社 講談社現代新書2322 192頁 2015年6月発行 本体価格¥740(税込¥799)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883221
副題は「これが日本の生きる道」。
なんか昔の演歌に出てきそうな文句ですが(^^;、本書の内容を的確に表わしています。

畑村洋太郎さんは1941年生まれなので、今年74歳。
工学者で、ご専門は失敗学。
もともとそんな学問があったわけではなく、畑村さんが提唱してできた新しい学問で、学会もご自分で立ち上げています。
肩書は、東大名誉教授、工学院大学教授。
失敗学の提唱で有名になりましたが、お名前が全国に知れ渡ったのは福島の原発事故で政府の事故調の委員長を務められたときでしょう。
現在、消費者庁消費者安全調査委員会委員長。
実は私は十数年前仕事で畑村さんに講演をお願いしたことがあり、その後の懇親会にもお付き合い願いました。でも、超多忙な方なので絶対覚えていないでしょうね。
ご著書多数ですが、私が読むのはこれが初めて。
今回は技術論の本としてとり上げました。

目次は次の通り。
 プロローグ
 第1部 日本の状況
  エネルギーと食料
  自然環境
  人口と社会階層
  産業構造の変化
  産業が停滞するのはなぜか
 第2部 日本がこれから意識すること
 第3部 日本の生きる道
  市場のあるところでつくる
  それぞれの社会が求めている商品を売る
  日本の経験を売る
  ものづくりと価値
  決定的なのはトップ
 エピローグ

プロローグではまず、畑村さんが、2000年代後半からアジアや南米などの新興国の企業や生産現場に訪問を続けていることが紹介されます。
これは、畑村さんが以前から提唱している「三現」の実践です。
>三現とは、「現地」に行って、「現物(現場にある物)」に直接触れて、「現人(現場にいる人)」の話に真摯に耳を傾け議論することです。

次の文章は、本書の現状認識のまとめとなっています。
>1990年代後半以降のグローバルな変化は、「世界中どこでも誰でもつくれる」生産技術のデジタル化の進行、新興国が生産拠点から市場になるといった大きな流れです。

次いで、「原発に見る日本の傲慢」がとり上げられます。
>世界を見て回ってわかったのは、経済成長著しい新興国は、日本以上に自分の頭で考えて努力してきたということです。一方その間、私たち日本人は、自らを「技術大国」と位置づけて、その上にずっとあぐらをかき続けてきたのではないか。

畑村さんが福島原発事故の政府事故調の委員長として活動する中で驚いたのは、原子炉の中の状況を示す数値が解析プログラムによってそれぞれ異なるので、事故当時なにが起こっていたかをきちんと把握できなかったことだといいます。
しかもそれらのプログラムはすべてアメリカが開発したもので、日本が自前で開発したものは一つもなかったのです。
一方、日本よりも技術的に下と見られている韓国や中国は、自前で開発した解析プログラムを持っています。
福島原発事故の背景にも、自らの技術力を過信してやるべきことをやってこなかった日本の傲慢さがあると、畑村さんは考えています。
まとめとして次の記述があります。
・技術を扱っている者は、製品や機械が壊れるときのモデルやシナリオを把握し、あるいはそのメカニズムを考えることが非常に重要・ダメになるプロセスを考えていないということは、当然対応策も考えていないと
いうこと

畑村さんはプロローグの後半で、第2次世界大戦以降の70年を大きく「奇跡の50年」とその後の20年に区分します。
1945~94年の50年間は、「成功体験」であり、「奇跡の50年」でした。
これに対して、1995~現在までの20年間は、何をしてよいのかわからず戸惑いながらの20年でした。
境目となる1995年は、阪神淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件などがあった年です。
「奇跡の50年」は、目指すべき道や目標が明確な時代でした。
人は、「答えが存在する」ことを知っているだけで、その方向に向って努力を続けることができます。
畑村さんは、奇跡の50年の中で多くの日本人は、「努力をすれば報われるのが当たり前」「良いものをつくれば売れるのが当たり前」、さらには「不自由のない暮らしができるのは当たり前」と考えるようになってしまった、といいます。
自信が脳天気さにつながったのであり、いい加減改めなくてはいけないというのです。

ふつうはバブルが崩壊した1990年で区分することが多いと思いますが、5年ズラしているのが畑村さんの見識だと思います。

第1部の前半では、日本が現在置かれている状況を次の各面について分析しています。
・ エネルギー(原発問題を含む)
・ 食料(エネルギーと合わせ中国の存在感の増大)
・ 自然環境(地震、温暖化)
・ 人口(超高齢化と労働力減少)
・ 社会階層(二極化)
これらは、一般的に指摘されていることではありますが、本書のようなテーマを考察するときには必ず踏まえておかなければいけない問題だと思います。
原発については、事故が起こる前には、原発は工学的にみて未完成の技術である(これは否定的な意味ではなく、どんな技術も通る道であり、改善の余地がまだまだあることを意味する)と認識していたといいます。
また、原発問題の今後については、畑村さん自身の価値判断ではなく、国民意識の変化からこうならざるを得ないだろうという書き方をしています。

第1部の後半で、畑村さんは、奇跡の50年を支えてきた「貿易立国モデル」はすでに終わっている、といいます。
それは、原材料を海外から輸入し、それを使って国内で付加価値をあげて海外に売るという構造ですが、すでに崩れてしまいました。
その主な理由は、いわゆるグローバル化です。
グローバル時代の特徴は、輸出だけで利益を上げている企業が少なくなっていることであり、これは企業がそれだけ多国籍化していることを意味します。
たとえば、自動車産業は海外生産にシフトしました。
この点を踏まえて、第3部では、日本が安定して生きていくためには、国全体でみて、貿易収支は赤字でも、資本収支まで含めた経常収支で黒字になっていること(、そして財政赤字を解消すること)が、必要だと述べています。

また、エレクトロニクス産業はシェアを減らし、負け続けていきました。
エレクトロニクス産業の敗因は、投資を間違えたことだけではありません。
グローバル市場で戦うには、透視の規模をそれまでの10倍にするとか、製品を企画してからのリードタイムを大幅に短縮するといった、従来とは異なる戦略や戦術が必要だったのに、それまでのやり方を変えられなかったのです。
この間に、韓国や中国などの新興国の企業が急成長を果たし日本企業を追い越していきました。
これを可能にしたのが、ものづくりの世界で急速に進んだ「デジタル化」という急速な変化でした。

デジタル化がもたらした生産のモジュール化によって、既存の汎用部品の組み合わせである程度の品質のものが「いつでも、どこでも、だれでも」簡単につくることができるようになりました。
また、デジタル化は、新興国を消費国に変えました。
しかし、日本の多くの企業は、ものづくりの世界で起こったデジタル化という革命に気づいていなかったので、新興国向けのビジネスに乗り遅れてしまったのです。

現在は、貿易収支赤字の時代になってしまったのであり、元の貿易立国の時代に戻ることは事実上不可能です。
貿易収支が赤字になった主な原因は、燃料費の高騰と輸入量の増加にあります。
ただ、これらの問題を除いても、グローバル化の影響により貿易赤字になる傾向があります。
しかし、これはアメリカやオーストラリアなど経済成長を続けている多くの国家に見られる傾向であり、それほど悪いことではありません。

製造業の生産に関わるプロセスは、次のような流れになっています。
  研究 → 企画 → 開発 → 設計 → 生産 → 販売 → 使用 → 保守
輸出企業では、生産までの部分が国内、販売以降の部分が海外にあります。
生産拠点の海外移転は、生産までの前半部分も後ろから順次海外に移っていく過程です。
これは産業の空洞化として30年前から議論され続けてきましたが、グローバル化の流れからしてやむを得ないと畑村さんはいいます。
>すでに始まっていますが、今後は日本の企業が海外で稼いだ分を配当、のれん代のような形で日本に持ってくることが、日本の生きる道になっていくと思います。

畑村さんは、品質幻想が日本をダメにするといい、幻想を次の三つに分けて説明しています。
1.日本人がつくるものが優れている
>私の印象では、最近ではむしろ国内よりも海外に進出して愚直にやり続けている工場のほうが、品質の良いものをつくっているようです。

2.職人の技幻想
日本の職人のなかには本当にすごい人もいますが、すべての職人が真のベテランではありません。
実際の職人の仕事には、日本人でなくても三年くらいまじめに修業すればできるようになるという仕事が少なくないのです。
しかも現在、「職人の技」の多くは工作機械に置き換えられつつあります(生産技術のデジタル化)。

3.品質という言葉に対する間違った理解
品質とは、あくまで消費者の要求に応えているかどうかで決まってくるものです。
ところが、日本ではあるときから消費者を無視した製品開発が行われるようになった、と畑村さんはいいます。
それは「過剰な機能」「過剰な品質」の製品を「過剰に生産」していることであり、畑村さんはこれを「三過剰」と名付けています。
「品質の良いものをつくれば売れる」というのは誤解なのです。
いまの消費者が求めているのは、「適切な品質」「適切な価格」「デザイン」「必要な機能」「使いやすさ」「楽しさ」「サービス」といった要素です。
いままでのやり方を変えて、もう一度消費者と向き合い、市場を観察することが必要なのです。

「日本には高品質・高機能を実現する高い技術がある」というのはそうかもしれないが、「変化への対応力」が不足しています。
消費者の要求の変化に素早く対応し、少しでも安く、タイムリーに商品を供給することを可能にする技術が明らかに不足しているのです。
先進国以外の市場を相手にするために必要なのはこうした技術であり、だからこそそれを持っていたサムソンやLG電子などの韓国企業が世界のエレクトロニクス市場を席巻したのです。

ソフトウェア開発については、日本国内にシステムエンジニア(SE)は100万人くらいいると推定されています。
しかし、そのうちで本当のSEは2~3万人、つまり数%にすぎず、あとはやり方が決まっているプログラムを入力するプログラマーのような“なんちゃってSE”だといいます。
いまはシステムも進化して、どんどんシステムの共通化が進んでおり、マイナンバー制度の普及などにより近い将来“なんちゃってSE”の仕事はなくなってしまうと予測しています。

ノウハウ(know/how)ばかりにこだわっていると、社員や作業者は自ら考えることを放棄して、技術が弱体化します。
ノウハウを守ることではなく、ノウホワイ(know/why)つまり技術の理由や動機を知ることが重要なのです。
さらには、ノウワット(know/what)という目的意識をしっかり持って技術を扱うことが大事です。
畑村さんは、日本の技術運営はそこが抜け落ちているといいます。

「日本の産業の最大の強みはすり合わせ技術にある」という意見があります。
すり合わせ技術とは、「会社や部門が横断的に相互連携して、専用の設計、専用の部品で開発する技術」です。
これに対するのが組み合わせ技術で、こちらは「部品ごとに完全に独立したモジュールを組み合わせることで開発される技術」です。
日本の自動車産業では今のところすり合わせ技術の強みが発揮されていますが、パソコンや家電の開発は組み合わせ技術でできるので、日本はすでに負けています。
自動車産業でも、電気自動車が主流になると、電気製品のように組み合わせ技術でつくられるようになるでしょう。
今後、製品のデジタル化・モジュール化・コモディティ化が進めば、世界のどこで生産しても同じものができるようになり、従来のすり合わせ技術は不要になるのです。

最近の日本企業をみていてもう一つ気になることとして、畑村さんは危機管理の問題を挙げています。
たとえば、2011年の東日本大震災や同年のタイ洪水では、部品、原材料の供給がストップして、様々な製品ができなくなるという事態が発生しました。
それまではトヨタのジャストインシステムにならって在庫を持たないことが絶対的によいことであるようにいわれていましたが、そのことが生産の停止につながったのです。
リスクマネージメントとしては、自然災害や事故、あるいは不祥事などの緊急事態が発生したときにも事業(業務)を中断しないこと、万一中断した場合には早期に再開することが求められます。
これがBCP(Business Continuity Planning、事業継続計画)です。

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