(彫工 上州の甚五郎 関口文治郎) 栗生神社本殿
みどり市大間々町から国道122号を日光方面に進むと「わたらせ渓谷鉄道の水沼駅」が右側に見える。その先、桐生市役所の黒保根支所の所の信号を左折、国道から分かれ257号線を進む、小黒川に架かっている橋を渡ると上田沢地区の入る。そのまま進むと上田沢の集会所がみぎのあり、左折して県道と別れる。後は案内板に従ってひたすら山道を進むと石の鳥居が表れ、そこが駐車場のなっている。鳥居の先の石段を上ると手水舎があり、名を進むと長屋門に至る。門をくぐってさらに石段を23段ほど進むと神社の前に出る。境内は正面に拝殿、左手に神楽殿があり、右に県天然記念物の大杉、その右には太郎神社がある。本殿は拝殿の裏の覆屋の中に鎮座し、覆屋は壁の類が無いのでそのまま拝殿を拝見することが出来る。
本殿 目抜きの龍
本殿は一間社流造 側面一間、向拝一間、鉄板一文字葺(当初板葺)
棟札が残されていて大工棟梁 桒原要七康利とある。桒原要七は延享4年(1747)に上田沢地区湧丸の医光寺本堂建造のとき山田郡龍舞村の町田弥七郎(現太田市龍舞)の下で地元の大工としてかかわっていた。彫工は「武衛棟梁 関口文次在信」とある。
建造年は寛政二年(1790)とあり、桐生天満宮 本・幣殿を建てた翌年となる。天満宮は「天明の飢饉」や「浅間の噴火」で工事が中断していた時もあり、実際の彫刻工事はとっくに終わっていたと考えられる期間である。
東胴羽目(吟八唐子の雪玉転がし)
雪玉転がしは吟八唐子の中でも、吟八のオリジナル作品である証拠を示すもの一つである。吟八唐子とは、妻沼の聖天堂本殿の腰羽目を飾る9枚の唐子遊びを示し、主に吟八系統の彫工に使われていることから便宜上、名称として使用させてもらってます。本殿の上棟時、文治郎は10歳であった。したがって工事には参加できなかったが、その後の指導で大きな影響を受けたのであろう。文治郎の代表作の一つ、伊那の熱田神社でも吟八唐子が見られる。
北胴羽目(唐子の朝鮮通信使)
真ん中の子供が吹いているのはチャルメルである。当時の日本には先の広がったラッパ状の笛はなく、後ろの旗、傘にしても朝鮮通信使が使用してたものと思える。当地方は朝鮮通信使とは全く関係なく、なぜここに彫ったのか不思議であったが、なんと桐生天満宮の境内社「機神神社」にもあった。こちらは隣村、荻原の星野政八の作品である。同じ頃の作品であるし、元になる絵も同じものと考えられことから、示し合わせて彫ったものではなかろうか。文治郎と政八が石原吟八門下の同輩で盟友・ライバルとして、切磋琢磨しながら腕を磨いたものと想像できるものである。
西胴羽目(琴棋書画から囲碁)
脇障子 西(李白 観瀑) 東(虎仙人 董奉(とうほう))
脇障子の内、西は李白観瀑であろう。正面からでは滝が見えないが裏にはちゃんと滝が彫られている、文治郎の作品にはちょっとした謎が彫られているから面白い。
西は虎仙人の内、董奉(とうほう)であろう。董奉は中国三国時代の仙人で、病んだ人々の治療に 力を注いでいたという。300年人間界にいたにもかかわらず、姿は一切変わらなかったとか。傍らにいつも用心棒の虎がいたという。
海老虹梁と妻飾り
海老虹梁は若草の絵様がほられ、鯖尻には林大隅流の特徴もあり、19世紀末頃の代表的形式を示している物とおもえ、手挾は文治郎の繊細さが表れている優れた彫物といえる。
妻飾りは二重虹梁大瓶束で笈形には波が彫られている、この虹梁にも林大隅流の鯖尻が見られる。保存の状態がいまいちで塗装はほぼ剥落しているが、鑿の冴えは残されている。
機神神社は寛政四年(1793)たった二年の違いである。機神神社はおそらく設立当時から覆屋に守られていたと思え、保存状態は良い。小さい割には造りが豪華で予算も豊富だったようだ。
彫工は双方とも師匠は石原吟八と思え、流儀も似ている。比べて見ると、彫工の力量はどちらも優れ、甲乙つけがたいのが分かるとおもう。
神社名 (桐生)栗生神社(くりゅうじんじゃ)
所在地 群馬県桐生市黒保根町上田沢2238
主祭神 栗生左衛門頼方
文化財指定 本殿(県重文 平成11年)
建造年代 寛政2年(1790)棟札
彫工 武衛棟梁 関口文治在信(関口文治郎) 他6名 棟札
大工 大工棟梁 桒原要七康利 他 棟札(林大隅流の形式がある)
神事 春のお祭り(4/15)秋のお祭り(11/15)
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(彫工の作品は建物の一部であるため取り外しは出来ず、出来ても、一点ものです。したがって商品として取引されるものではなく、正当な持ち主以外が持っていたらそれは、「ほぼ盗品」です。例え落ちていたもの拾っても、窃盗に問われる場合もあるし、知らないで買ったり貰ったりしても、罪に問われる場合があります。)









