怒り・神社での不快な出来事 | 娘が自殺…母への恨みを残して・わが子を死に追いやった悔恨の日々

娘が自殺…母への恨みを残して・わが子を死に追いやった悔恨の日々

19歳のひとり娘が自死・残された母のこの世の地獄・生きる希望を求めて・それとも後を追う?

お正月から、不吉な大きな天変地異、事故が立て続けに起き、このような時に三社参りなど、お祭り気分で出かけることの、なんと愚かなことか…と、数十年つづいた家族の行事を「やってしまった」ことの後悔は、心底腹の立つことが起き、今年は初日から「今後の教訓」を得た気分です。

 

他人の不幸事は「関係ない」という、日本人特有の「ことなかれ」「ミーハー」、「人の情に欠ける」、私の一番嫌いな国民性は、やはり、「避けるべき」行為だ、ということを心底痛感しました。

 

以下の文は、長文で、不快な出来事と強い非難の言葉が羅列しています。気分が悪くなりたくない、と思われる方は読まないでください。

 

福岡の有名神社は初日から、大変な人出ですが、この数年のコロナのおバカ騒ぎによる低迷ぶりを払拭するように、大衆はあちこちからよくもまあ「湧き出たものだ」という感じで、出店もいつもの何倍もの数が出店しています。

 

衛生は大丈夫なのか…という疑いをまったく抱かない人々が何か物を食べ食べ、初詣の長い長い行列に並び…二時間くらいはかかるだろうという列に、私たち家族は一度も並んだことはありません。

20数年の間、私たちは、脇の門から入り拝殿し、箱の隅っこからお賽銭を投げ入れ短く手を合わせ、おみくじや破魔などをそそくさと買い、早々に立ち去る、ということをやってきました。

 

三社を一日で廻るためにはその方法しかありません。長蛇の列に「並んでまで神様に拝みたい」とは思いません。

これは、「神」という存在に対して手を合わせるためではなく、一年の家族の無事を「ご先祖」や、何かわからない相手…「今まで生きることができたことの運」「恩のある誰か」に対して感謝の気持ちを表すためであり、「その神社の唯一の神」に対してではありません。感謝すべき誰か、のすべてに対して、です。

 

私は、ミッションスクール6年通い、すっかりキリスト教が大嫌いになり、ついでに神仏に「拝む」という行為すべてに辟易し、お正月に初詣する、という習慣になったのは結婚した後のことです。

今でも無神教ですが、娘亡き後、冥界に逝ってしまった娘に対して地蔵菩薩が未成年の子を三途の河原で守ってくれる、ということに心に触れるものがあります。娘が亡くなりそれ以降、お寺に参ることが今心境に一番合っている気がします。

 

娘が亡くなり二年後から神社に参ることを再開しましたが、それも、亡き母と亡き娘との思い出を再演するような気持ちでいたからなのです。娘との最後のお正月の初詣の写真は5年経っても頭に残り、母と過ごした実家でのお正月は幸福だった頃の、今は悲しすぎる思い出ですが…それを思い出したいだけかもしれません。

 

20数年、問題は一度も起きませんでした。

 

しかし、行き慣れた「ある神社」で、それは起こりました。

 

例年のように、「列には並びません」が、私たち同様の人はたくさんいます。

列に正面から並んだ人たちの邪魔をせず、お賽銭箱の隅からお金を投げ入れ、短く黙祷し、娘のことや家族の無事を祈ります。

 

主人は、さっさと別の方へ行ってしまい、私と姉ふたりが数秒、手を合わせてその場を去ろうとした瞬間、ちょうど近くにいた「列に並んで正面からの黙祷を終えた」と思われる中年男性が、私に大きな声で
「罰当たりが!」と、罵倒して通り過ぎたのです。

 

一瞬、誰のことか、何のことか、と思考が停止しましたが、すぐに、私のことだ、ということがわかりました。

 

これは、列に一時間?ほど並び、「まっとうに?」参拝したことが、「正しい行い」であり、その他は「ズルイ」行為で参拝した「罰当たり者」という、なんとも「思い込み激しいモラハラジジイ」の幼稚な正義感による攻撃だ、ということがすぐにわかりました。

 

こういった人間は、よくその辺にいる、近頃では「マスク警察」という名で知られた類の、知性教養EQ低い底辺階級の人間だ、ということもすぐに理解しました。

 

福岡は、日本でもかなり「たちの悪い人種」が多い県であることを私はしばらく忘れておりました。

北九州市はヤクザで知られた町ですが、一般人も人間が悪く、工業地帯、炭鉱地帯であったことも柄の悪い人間の多く住む町であることの理由で、私はその町で辛酸を舐めてきましたから、福岡市は人の良い人間が多いほうで「良い経験」を重ねてきたのですっかり「福岡県自体は、大変油断ならない人種多い危険地帯」ということをすっかり忘れていました。

 

今日は、20数年ぶりに、若い時のことを思い出しました。犬も歩けば棒に当たる、という言葉は「転んだら踏みつけて行く」というに等しいもので、泣いて座り込んでいても誰一人私を助けてくれた人はいませんでした。落し物は盗み、踏みつけ、病気で倒れても、子供であろうとも踏みつけて行く人間の住む町の経験です。二度と幼少期を過ごした場所に訪れることはありません。北九州市というところはそういうところです。

 

そして、この手の人間に、昨年秋頃から「絡まれる」こと二回。

 

理不尽な罵倒をされ黙っていられないのが、「柄の悪い地域で育ってしまった」性分となったせいか、それとも、普通の農家の出でありながら若い頃にやんちゃしたことがあったという父方の祖父の血のせいなのか…100何年か以前の時代にワンポイント入れ墨があったのが証拠だと聞きますが…。

その、喧嘩に血が沸騰する気質のせいか、気が付くと、私は大勢の参拝者の目も気にせず、仕返しの罵倒を、そのクソジジイにしまくっておりました。

おそらく、放送禁止用語を叫びまくっていたと思いますので、内容は割愛させていただきますが…。

いつも残念に思うのは、自分が男であったなら…というはがゆい思いです。ボコボコに殴り闇討ちにしていたであろう…ということです。

 

失礼過ぎたと思ったのか、あるいは主人が戻ってきたのを見たからなのか、そのモラハラ男は黙って目を合わせようとはしません。私の罵倒が聞こえているのは確かですが標準よりも大きい主人の体格に気が付いたからなのか、逆切れした向かってきたところで怯む気持ちはないのですが。これも、北九州のヤクザにも怯まなかったとんでもない危険な記憶のせいでしょう…今は、死んでも構わない、という捨て鉢で切れる寸前の人生だからでしょうか…

 

散々罵倒し、「●●へ落ちろ」と締めくくり、少し気持ちが収まったところで、厄落としの「珈琲」と書かれた店に気が付き、家族と臨時テントでそれを飲み、クールダウンしたところで、その場を後にしましたが、帰り途中の車中で二つ思うことがありました。

 

この、「お正月の三社参り」の意味について、なんとも「ミーハー的な習慣」は本来の私の「柄ではない」ということ。娘亡くし、何年も続いた参拝が何の見返りなく、神は娘を守ってなどくれなかったこと。

そして、このお正月の参拝は、福岡県じゅうの「有象無象、魑魅魍魎が集まってくる」という、むしろ危険である、ということ。福岡県の人間の質の悪さ。

 

それでも、今までの「ご先祖や自分たちが生きているという奇跡」について、善良な人間というのは何かに「感謝」したい、という思いが強い動物なのですから、そう思ったときは、「行きたいときに神社に行き参拝すればよい」のであって、それは正月三が日は「避けるべき」である、ということ。

 

そう車中で話していると、目の前に驚くべきものを見たのでした。

 

「2525」というナンバープレートの車が並んで二台…。それは娘の誕生日の数字です。二台、という偶然も重なり驚いていると、今度は「716」というナンバープレートです。

これは、母の誕生日7月16日なのです。

 

ふたりが、私を心配しているのだ…と思わずにはいられませんでした。

 

主人が珍しく、私の味方となり、「人間に傷つけられたときは、懇意にしている人と話すのが一番いいよ」と言うのですが、お正月でもあり、思っている人たちとは会えません。

 

帰宅途中、まだ怒りが沈静化したわけではないので、三人でカフェで再び休んだ後、ペットショップで可愛い子犬たちを見て「汚い人間もどきの下等生物」を見てしまった「目」を浄化し、少し暗くなった道を帰っていると自宅近くになり、昨年夏に息子様を亡くした、あの「チャチャのおじさん」が帰省中の娘さんと娘さんの犬二匹を連れて散歩されているのに気が付きました。

 

主人がさっき言っていた「懇意にしている人と話ができたら…」ということが叶ったことになります。

 

チャチャのおじさんは「明けまして…」という挨拶をされるので、息子様を亡くし、とてもその挨拶はできませんが…と私が言うと、「いいんですよ…前を向いて、今年は良いことがありますように、と思っています。あなたもね」と言われるのです。

人懐こいチワワにも歓迎され、私の般若の憎悪の顔は元に戻っていくのを感じました。

 

更に数メートル進むと、今度は、時折お会いする「極小チワワ友達」の「ハナちゃん」とご主人の散歩に出くわし、犬友の中ではもっとも「癒し」をもらえるワンコに、最上の愛をもらうことができました。

 

ご主人に今日の嫌な経験を話すと、「お正月の神社はいろいろな人が集まりますよね…中には危ない人も来ますからね…僕はそういう場には行きません」という言葉から、車の中で決めた「お正月の参拝を今後しない」という決心を確定することができました。

 

自分が、いかにミーハーなことをしていたか…娘にも大衆の愚かさを説きながら自らやっていたミーハー行事を恥ずかしい、と思った次第です。娘に強要してしまっていた悪しき行事…愚かな母の浅はかな記憶がまたひとつ増えたのですね。娘に謝ることが増えたことになります。

 

今日は、とても「ためになる経験をした」と、プラス思考にもなりました。

愚かさを訂正できたことに感謝。

 

ちなみに、神社側の説明では、正面の正門に並ぶ列に加わらなくとも参拝することやお賽銭箱への投げ銭は一向にかまわない、ということでした。

 

帰宅し、ネットで飛行機事故を知り、驚き、お正月の馬鹿騒ぎは、その裏で天災や事故で亡くなった人が大勢いることもあり、娘を亡くし、自死遺族となった私が他人から決して「同情や慰めの言葉、態度、助けを得てない」ことを痛感していることから、「他人事だから関係ない」という「一番自分が軽蔑していること」を「するべきではない」と、更に思いを強くしました。

人の死…これは決して軽くないのです、どんな死に方であろうとも。

大勢が亡くなっていることを知りながら神社に参拝…お祭り騒ぎをすること自体「罰当たり」ではないだろうか、と。

私に、怒鳴ったクソジジイよ、お前こそ、罰当たりなのだよ。

 

あらためて、今まさに亡くなる人がいるのだろう、と想像します。

ご冥福をお祈りしたいと思います。