スマイルボーイ カン・テソン、信頼の種をばらまく
肯定本能テソン#2
①まだツラいと座り込むにはあまりに早い
実際に僕の練習生生活は “歌”という可能性一つで始まったのだ。
他のメンバーたちより遅く始めたというハンディキャップがあったので、彼らに迷惑を掛けないためにももっとたくさんの努力をしなければならなかった。
歌を歌い続けた。
そんな風に練習して喉が壊れるという周囲の心配な視線が負担になって、公式的な練習時間の他にはクローゼットに隠れて歌を歌った。
とても欲張ったせいなのか? ついに事故が起こった。
三番目のシングルアルバムのレコーディングを控えて声帯結節になったのだ。
デビューしてまもないうえに実力派グループというイメージが強かったので、僕のせいでBIGBANG全体がダメージを受けるかと思って心配だった。
幸いステージでは大活躍のメンバーの助けで大きな問題もなくうまくいったが、僕の歌の70%程度はいわゆる’裏声’を出す程、喉の状態がますます悪くなった。
ところが問題は一回の失敗がより大きい失敗を呼び起こすというところにあった。
ステージに立てば前回の間違いが浮かんで同じ過ちを繰り返して、ペースを失って慌てるような状況が繰り返されたのである。
長いスランプの開始を知らせる前奏曲だった。
'このステージをどれだけ夢見てたか・・・
僕の声で歌を歌うことをどれだけ望んだか・・・
ステージを準備してくれたのに本来の声が出てこないなんて・・・
苦しくて狂いそうな状況だった。
"とても一生懸命にしてこうなったんだから次は上手くすれば良い。"という周囲の人々の慰めも効果がなかった。
最後の戦闘を控えた将軍のように僕にとって′次′というチャンスはないと思った。
この世界で一生懸命な人はたくさんいる。
だが、この場所は’ベスト’でない’最高’を望むプロの世界だ。
ところが歌手が声が出ないというのは戦場に出て行った将軍の手に矛と盾がないこと同じだ。
その上、目の前にはレコーディングというもっと大きな山が待っていた。
僕の初めてのソロ曲(笑ってみる)をレコーディングする当日、薄情な僕の声帯は最悪なコンディションだった。
病院で治療できる方法を全て試して診療を受けてきたが、何も効果がなかった。
足を得るために声を得ることができるなら何でもできそうな心情だった。
残念な僕の姿をそばで見守ったコミ姉が助けてくれた。
コミ姉も声帯結節を経験したことがあったので、喉に無理が行かないラインでレコーディングができるように助けてくれたのだ。
'これほど待ったソロ曲なのに、僕一人のせいでこんなにも多くの人々に苦労させて・・・
どうしたら歌手がこんなにも喉を台無しにして管理することができるだろうか。
いったいなぜこんな状況になるまで放っておいたのだろうか・・・
遅れて後悔と自責の念が押し寄せてきた。
'こんなことで最初から声が出てこなくなったらどうしよう', 'また歌を歌うことができなくなったらどうしよう'という不安感も出てきた。
心配する人には何でもない姿を見せたかったが、しきりに涙が出てきた。
12時間も費やしてレコーディング作業が行われた。
笑ってみる’という歌詞が出てくる最後の二音節だけ歌えばレコーディングが終わる状況だった。
もう’ボン、ダ’という二文字だけ歌えば良いのに、喉は最初から金属音さえ出てこなかった。
いくら口でニコニコ笑って深呼吸をして水を飲んでも結果は同じだった。
空が崩れるとはそんな風な感じなのかな?
絶望的だった。
もはやこれ以上やれる方法がなかった。
そうして二時間が過ぎた。
そして奇跡的に、本当に奇跡的に’ボン、ダ’という二音節が僕の声帯を通じて流れ出た。
瞬間、涙がいきなり溢れた。
レコーディングを終えた有り難さよりも僕一人のために長々と14時間苦労させたコミ姉と録音スタッフらに申し訳ない気持ちと共に、こんな不十分な声で初めてのソロ曲を出さなければならない現実の切なさが入り混じった涙だった。
みんなの慰めを後にして僕自身との戦いが再び始まった。
愛するメンバーと会社の家族らもどうしようも出来ない問題だったため、一人で戦って一人で勝ち抜かなければならなかった。
何より僕自身が自分の喉の管理をまともにできないからだ。
電話までささやいするほど最大限に喉を安定させた。
喉に良いことなら何でもしたし、話さなければいけない状況ならば代わりに笑顔で返した。
そうして何ヶ月かが過ぎた。
幸い(嘘)という曲を通じて嘘のように、本当に嘘のように正常に近い声を取り戻すことができるようになった。
②僕の人生で一番大きな能力’前向き’
"テソン、お前は何でも出来る。 お前が望むなら出来ないことは何もないよ。だから自分自身を信じて。"
小さい頃からいつもよく聞いた’前向きに考えなさい’という母の言葉だ。
母は成績が落ちたり友達と喧嘩したり、さらに父が歌手の道を反対して気持ちが後ろ向きになっている時にも、’すべてのことを前向きに見つめればツラい理由はない’とアドバイスしてくれた。
"お前はとても前向きな子供、そうでしょう?"
"私たちのテソンは前向きだから、この程度は笑い流すことができるんだよ"
"テソン、ママはお前が前向きだから本当に好き。"
前向き、前向き、前向き. 本当に耳にたこが出来るくらい聞いた単語だ。
ある時はあまりにもよく聞いてむしろ’前向き’という単語が否定的に聞こえるほどだった。
しかし、母のそのしつこい”前向き教育”のおかげで、疲れて大変な時も耐えられた。
僕も知らないうちに前向きという言葉が無意識に埋め込まれてしまい、とても疲れた時が来るたびに、その言葉を思い出したのかもしれない。
デジタル シングル(僕を見て、グィスン)を発表する頃のことだ。
正式にステージに現れる前にあちこちで良くない話が聞こえてきた。
'BIGBANGのメンバーが演歌だなんてありえない'
'BIGBANGのイメージを失墜させる。 '
'私がいくらファンでも、これはありえない. '
などなど反対の意見が予想よりはるかに多かった。
'トロットが悪いの? ステージを見る前に良くない話をするなんて'
BIGBANGと僕を心から気にかけて出てきた話というのは分かるが、それでも嫌な気持ちになった。
ジヨン兄がプレゼントしてくれた大切な曲なのでより一層嫌な気持ちになった。
兄が僕を思って作った歌をカッコよく歌いたいけど、みんなダメだって言うからイライラした。
'僕がそんなにも信じられないのか?、僕はBIGBANGに害を及ぼす存在なのか・・・
ありとあらゆる思いを全部聞いた。
その時、僕を呼び起こした力はやはりまさに’前向き’という単語だ。
暇さえあれば強調された母の言葉のおかげで、’前向き方程式’が頭の中に深々と刻まれた。
良くない状況がきても、大丈夫。 まだ最悪の状況じゃないじゃないか?
とポンとはたいて立ち上がらせる’前向き方程式. ‘
'まだステージに上がってないんだから、みんなが心配するならステージでその心配を振り切るようなカッコイイ姿を見せれば良いんじゃないのか? '
すると僕の深いところから自信が湧いてきた。
'最大限、持ち味を出して、楽しく愉快に歌を歌って舞台を熱狂のるつぼにしてやろう!
'その日から猛烈な練習に突入した。
振付けを考え、表情を構想して、衣装を準備して・・・
BIGBANGのスケジュールと併行するには一日24時間では足りないほどだったが不思議なことに全く大変ではなかった。
眠れなくてもご飯が食べられなくても気力が出た。
ついに(僕を見て、グィスン)をリリースしたコンサートステージ。
"こんにちは~、. テ~ソン~です~."と叫んで登場した瞬間から公演会場が熱く揺れ、ステージの客席は熱狂的な雰囲気で一つになった。
観客の反応が予想以上に高すぎるせいか、最初のステージでも僕も知らない超能力者のような力が湧いた。
あー、あの時の爽快な快感~!
その日以後、打って変わったように心配と憂慮の声は応援と支持の声に変わった。
トロットが’BIGBANGの逸脱’でなく’BIGBANGの無数の変身の中の一つ’という事実が認められたのだ。
'一度楽しんでみよう! 'という意図がついに理解されたのだ。
僕にとって’前向き’という習慣がなかったら、’歌手になりたい’という漠然とした夢をただ夢だけで終わらせていたかもしれない。
僕に出来ることはしばらく間失敗と挫折に陥った時、’前向き’というペダルを力いっぱい踏んでまた本来の場所に戻ることだ。
母が教えてくれなかったら、難しいことを否定的に考えてばかりいたら、たくさんの事を簡単に諦めてたかもしれない。
'僕みたいな歌手が何で・・・'と言ってすぐ諦めてしまったかもしれない。
前向きは一種の掛け声だ。
パンソリ(朝鮮の伝統的民俗芸能)で’よっしゃー’,’いいね’など掛け声で興味をかきたてるように、前向きは僕に活気を吹き込んでオーラを引き立たせてくれる。
苦しくて難しい瞬間には’大丈夫’,’ちゃんとやろう’という掛け声で意志を取り戻して、仕事がうまく進んでいる時は’よっしゃー’,’良いね’という掛け声でより一層楽しく生きよう!
③僕が最も大切な慰めは、’大丈夫さ!’
僕の姉は僕の精神的支えであり心強いサポーターだ。
歌手になりたいという単純に芸能人の派手な外見を望んだのでなく、’弟が本当にしたいこと’という事実を唯一理解してくれた家族だ。
父との冷戦に疲れたり意気消沈した日には、姉は絶対僕の部屋に訪ねてきて’大丈夫だよ’と慰めてくれた。
姉のその’大丈夫だ’という言葉は無理やりでもなく大げさでもない、それこそ静かで暖かく勇気を奮いたたせる言葉だった。
おかげで最近もツラい時にはまるで姉がそばでささやいてるように小さな慰める声が聞こえる。
'大丈夫。 少しだけ我慢して。 これから全て良くなるから。 '
実は小学校に通う時ばかりは姉と僕はそれこそ一緒に生きていくのは無理なほどの敵同士であった。
誰が先だということもなく目さえ合えば喧嘩するのが日課であるほど仲が良くなかった。
いつか大事に食べようと干し柿を一つ隠しておいたが、どうして分かったのか姉がさっそく探して食べてしまった。
一歩遅れてこの事実を知った僕は再び姉と激しい喧嘩に突入した。
姉と我を忘れて争ったら興奮して思わずパンチの強弱調節に失敗する時がある。
男友達と争う時のように’まともに一発食らわせる。
それでも姉だから、それでも女だから、姉の涙に申し訳ない気がしてそのまま殴られ始めた。
姉は痛くて泣いて、僕は力をコントロールをできない罪にずっと殴られなきゃならない悔しい心に泣いて、二人共うるさいくらい泣いた記憶がある。
そんな風に一時は世の中で一番憎い人だったのに今は最も愛する人の1人になった。
僕が何をしようが100%信じて支えてくれる人、ツラいことがあれば一番最初にアドバイスを求める人だからだ。
その上、姉は勉強までよく出来て両親が僕に対する勉強の未練を早く捨ててくれて(ハハ! )
僕が行きたかった道に行けるように助けてくれた。
実は僕も数学関数を習う前までは勉強が面白くて成績も良かったのだが、その憎い奴(? )の関数以後、勉強とは同じ道を歩くことはできない間柄になった。
おかげでとにかく我が家の長男のような姉のおかげで個人的に多くのことを得たことは明らかだ。
父にも感謝している。
かつては僕を疲れさせた父だったが、その’父の反対がなかったとすれば’今のテソンは存在しなかっただろう。
父が最初から積極的に支援してくれてたら、多分すぐに音楽に興味を失い、いい加減にして終わった確率も高い。
かえって冷たく冷静に対応してくれたおかげで歯をくいしばって最後まで緊張を緩められなかったのだ。
④隠れた達人に伝授された必殺技
'考えはエネルギーだ。 ”明日は今日の考えで決定される。
'僕が好きな言葉だ。
だから、僕は寝る前に必ず祈りを通して今日を反省して、明日を作る時間を持つ。
僕が願う明日の自分の姿、僕が願う仕事を描いて寝床につけば、心地よく寝れる。
実際、あまりにも忙しいスケジュールに追われると余裕もなくなって笑うことも段々減る時がある。
多くの方々が僕は人懐っこくて元気な性格だと思っているが、僕はもともと人見知りで内向的な性格だ。
だからあまりにも明るいイメージがついてしまったから、少し無表情で座っていても周辺では何かあったんではないかと心配する。
だから気分が良くなくても無理に笑う時が多い。
笑う気分ではないのに笑うのは思ったよりはるかに難しい。
そんなある日、誰かが事務所の壁に貼っておいた’笑い10カ条’という文を見た。
最初は何気なく見ていたが、いくら頑張っても笑いが出てこなかった日、’笑い10カ条’を見て笑う練習を始めた。
そして無理にでも笑うと、いつのまにか本気で楽しい笑顔が出てくるという事も分かってきた。
(笑い10カ条)
1.大きく笑え。 大きな笑いは最高の運動法であり毎日1分間笑えば8日さらに長く生きられる。 大きく笑うほどより大きい自信が生まれる
2.無理にでも笑え。 病気が恐ろしくて逃げる
3.起きてすぐ笑え。 朝起きて笑う笑いは精力剤の中の精力剤だ。 三代が元気になって精力剤10服より優れている
4.時間を定めて笑え。 病院とは永遠にバイバイ(bye bye)だ
5.心まで笑え。 顔と一緒に心の表情まで重要だ
6.楽しく考えて笑え。 楽しい笑いは幸福を創造する。 笑えば福がきて笑えば楽しいことが起こる
7.共に笑え。 一人で笑うより33倍以上効果が良い
8.大変な時こそもっと笑え。 真の笑いは大変な時笑うことだ
9.一度笑ってまた笑え。 笑わないで一日を過ごした人は一日を無駄にしたのと同じだ
10.夢が叶った時を想像して笑え。 夢と笑いは一つ屋根の下に住む。
だから人は学ばなければいけないようだ。 笑いの効果を学んだらさらに上手に、さらに明るく笑うことが出来た。
また、一つ大切な学習の瞬間が思い浮かんだ。
誰ということなくみんな大変な状況なので、メンバーら全員お互いに迷惑を掛けるかと思って気を付けてまた気を付ける。
そして誰かがグループ以外の活動を始めれば、お互いに心配して緊張しながら一日中電話とメールで安否を尋ねたり、頑張って!!と言う。
(ファミリーがやってきた)という番組を始める前、僕は見知らぬ人と見慣れない環境に合わせなければならない恐怖にかなり緊張していた。
メンバーは”お前は団体生活にすでに慣れているから心配するな”と言ってくれたが、どうしようもなく緊張してしまった。
録画前日、緊張のせいで眠れないほどだった。
だから’ひっそりとついていこう’という思いで録画に臨んだ。
あまりにも気が強い(? )先輩らの間にいると中間で割り込んだり何か一言言うことも難しかった。
ところが僕がちゃんと適応しているか心配になったのか、メンバーたちからずっとメールが届いた。
録画を終えて帰る途中に’遠慮してしまってあまり話せなかった’と返事を送ると、メンバー全員応援のメッセージを送ってくれた。
"今一番人気があるのはテソン! ファイティン~."
"誰だ、僕らのテソンに話も出来なくさせたやつは!兄さんがこらしめてやるから!"
"なんだなんだ、来週は’BIGBANGがやってきた’で集まろう。"
ユーモラスあるメンバーたちのメールは凍っていた僕の心を一気に溶かしてくれた。
そしてついにハハ兄から運命のメールを一通もらった。
"全体的な状況とバランスを考えろ。 礼儀はカメラが止まった後にちゃんとすれば良い。"
'礼.儀.は.カ.メ.ラ.が.止.ま.っ.た.後.に.ちゃん.と.す.れ.ば.良.い'
強豪の隠れた達人にかなり前から伝わる一族の必殺技を伝授された気持ちだった。
"そうだ、心配事をならべる時間にベストを尽くそう"
虎のような父のこだわりもへし折った僕なんだから、こんなに応援する人がたくさんいるのに出来ないことが何かあるか?”
99個を持っても1つ足りないとため息をつく人がいるかと思えば、ただ1つを持って2つを作るという希望を抱く人がいる。
こんなにたくさんの愛をもらって、他の人よりはるかにたくさんのものを持ったにもかかわらず僕はついつい欲張ったようだ。
何でも一人の力でやり遂げれるものはほとんどないんだ。
希望を抱く瞬間、奇跡は起きる
肯定本能テソン#1
"吐き出す息一つ、歩を進める一歩が夢に向かった信頼を植える
夢は描くだけ大きくなり、願うほど近くなる
それがまさに僕の信頼の全てで僕が笑う理由だ
希望は僕を歩かせる力だ
そして胸の中で僕の夢は、僕を笑わせてくれる力だ。 "
夢に向かったスタートラインに僕を立たせる
①”牧師になるといったのに、何で歌手なの?”
父はいつも2つの言葉を好んで話した。 ‘男は二枚舌を使ってはいけない’ということ、そして’やりたい事はすべてやるべきだ’と。 ※二枚舌・・・矛盾したことを言ったり嘘を言うこと
ところが息子が本当にしたいことを見つけたというのに、’それだけは許可できない’と禁止令を出された。
「まだ勉強しなければならない年齢で歌手になりたいと? 通りすがりの人を捕まえて聞いてみろ。 タンタラ(芸能人)になりたいという息子に’そうか、上手くやれ’と言う両親が何人いるのか?間抜けな奴め! 」
もちろん簡単に聞き入れてくれるという期待はなかった。
それもそのはず、お父さんが知っている子供の中に歌手になろうと学校まで辞めたが、思い通りにならなかった子供が二人もいたからだ。
その上、歌謡番組に出てくる歌手を見れば”この子の格好はなぜあんな不格好なんだ?”と腹を立てる姿を小さい頃から見てきたから、険しい道になるだろうとは予想はしていた。
だが、いつも”やりたいことはすべてやってみなさい。”と言ったお父さんの言葉だけ信じて、息子の切実な願いだから最小限小さな配慮ぐらいはして下さると信じていた。
ところが考えもせずにバサっと”NO!”という父を見ると’どうして息子を信じることができないのだろう? ‘と強い寂しさが押し寄せた。
実は、両親は僕が牧師になることを願っていた。
"大成"という名前の漢字は’大きい(大),’声’で’大きい声で言葉を伝えなさい’という意味を込めている。 (ただしご両親が望むわけではないが、僕の声で多くの人々に歌を伝えているから、結局名前がふさわしいのではないか? ハハハ)
しっかりした息子がある日突然歌手になると暴れまくると、お父さんもとても呆れただろう。
何があろうといつも僕の味方だった姉さえも”いったいなぜ突然歌手なの?”と尋ねた程、僕の歌手宣言は破格的なことだった。
我が家を騒然とさせたこの’歌手’という呆れた夢は中学2年の担任の先生がなにげなく、ほんとなにげなく言った言葉一つで始まった。
学校行事を終えて僕たちのクラス全員と担任の先生と一緒にカラオケに行ったことがあった。
信じられないが実は生まれて始めてカラオケという所に行ってみたので、エコーが効いたマイクから流れる僕の声がひたすら不思議だった。
ところが僕の歌が終わるやいなや先生は待ってましたかのように”おい、私たちのテソンは歌がこんなに上手いのか?歌手になれるよ! “とおっしゃるではないか!
本来歌を歌うのが好きだったが’歌手になりなさい’と言った人は先生が初めてだった。
友達はわざわざ先生を訪ねて進路に対する悩みを打ち明けるが、カラオケで進路相談(? )を受けるとはやはり僕は幸せ者だ。
他人でもない担任の先生に歌手の勧誘受けるとは、どれほど信頼出来る話なのか!
その瞬間僕の頭の中は’歌手をやりなさい’というその一言でぎっしり埋まってしまった。
友達の歌声は聞こえることもなかった。
そしてその少し後、学校で祭りが開かれた。
そこでのど自慢コーナーがあったが初めて出た大会で突然1位になってしまった。
「あー、やはり歌手になりなさいというのは神様のお告げだったんだ! 神様と先生みんなが僕の進路を決めてくださるんだな!」
後日知ることになった話だが、先生は僕にだけ歌手になれと薦めたのではなかった。
歌が程々に上手いと思った生徒を見れば、まるで合いの手を入れるようにそんな風に話されてたんだ。
「ふ~! だけど、どうしよう。 僕はすでに’歌手’に魅力を感じて心を奪われてしまったのに・・・」
②頑固なお父さんの意地を曲げる大作戦!
思春期の息子の単純な迷いだろうと思ってた逸脱は何と2年以上続いた。
今まで両親の言葉に一度も断ったことがなかった息子が絶対企画会社まで入ると意地を張るもんだからとても腹が立っただろう。
だが、やるなと言われればもっとしたくなるアマノジャクの欲張りなのか?
絶対折れないような反対にぶつかって、音楽に対する情熱はますます燃え上がった。
テコンドー、合気道、サッカーまで・・・.僕がやりたいことはさせてくれたじゃないか! なのに何で歌手だけダメなの?
父と僕の終わりない綱引きは継続され、姉は何とか私たち二人を仲直りさせようと努めたが、姉は実際にはそれほど有能な交渉家ではなかった。
「お父さん今とても怒っているから。 お父さんが怒ったら誰も止められないことお前も知ってるでしょ。 少し待ってみよう。」
だが、その待つということに希望がない事を僕たちはよく知っていた。
もう音楽をするしないは重要ではなかった。
僕も知らない内に”ちゃんと見せてやる.必ずこれ見よがしに歌手になってお父さんの鼻柱をひし折ってやる!”という固い決心ができてしまったのだ。
そうして決して曲げることはできない’男VS男’のプライド対決が始まった。
氷の塊のような家の雰囲気に息もまともに出来なかったお母さんと姉には申し訳なかったが、プライドの戦いが始まった状況に男たるもの(?)先に折れることもできなかった。
そんなある日、学校に行こうと登校準備をしていると、大きなカバンを手に持ったお父さんが僕の部屋に入ってきた。
そのカバンを見た瞬間、本能的に’危機状況’だという予感がした。
「荷物をまとめろ。 そう勝手にしたければ出て行け。ここから出て行け。」
やっぱり僕の予感は間違っていなかった。
父は固い決心をされたように何の感情の動揺せずに意外に低めに言われたが、僕の頭の中は白紙のように白くなった。
一度腹を立てれば誰も止めれない父の火のような性格をよく知っていたからだ。
普段はとても愉快で友達のような父だが、僕たち兄弟がおかずの不満でも言おうもんなら何も言わず三日間何も食べさせてくれない人だった。
生米でも噛んで食べれそうな空腹を感じたが、恐れ多くてその前で”ご飯を下さい。”と言うことができないほど恐ろしい父だ。
だが、子供がお腹をすかせているのに父も気分が良かったはずがない。
ある程度の反省の兆しが見えれば間違いなく僕たちが好きな美味しい食べ物で空腹を満たしてくれるセンスある父でもある。
小学3年の頃だっただろうか?
正確な状況は思い出せないが、僕が気が気でなかったことだけは明らかだ。
そうでなければ父親と一緒に座った夕食のテーブルでスプーンを投げる無謀なことなどしなかっただろう。
スプーンが床に落ちる前に、僕はその場で玉ネギの皮をはがすように裸にされた。
そして、あまりにも自然に門の外に追い出された。
いくら幼くても男だ。 その上、10才を越えてる。
知るべきことは全部知っている年齢だ。
大事な部分でも隠して下されば・・・
恥ずかしさと悲しさで遠くへ行くこともできなくて門の前でうずくまって座って泣いているので、その姿に見かねたお隣りのおばさんが助けに来てくれた。
いつも家族のように過ごす間柄だったので、おばさんは僕の顔を見ても父が大目に見るだろうと思ったようだ。
かわいそうにとおばさんは僕の手を握って、大丈夫だと言って我が家の門を開いた。
しかし、僕は父の性格をとてもよく知っていたので、引きずられ入ってもおばさんの誠意があまりありがたくなかった。
門が開くとすぐに父は光よりも速い速度で走ってきた。
そして”我が家で自分の子を私が追い出したというのにあなたに何の関係があるんだ。 “とおばさんが火のように怒鳴られた。
その日以来、お母さんと姉は隣のおばさんを見れば申し訳なさげに頭を上げられなかったし、隣近所の人という言葉が面目を失うように気まずい間柄になってしまった。
このように今までの経験からして、明らかにその日の朝、お父さんの手に持たれたカバンは単純な脅迫用ではなかった。
本能的に’これは実際の状況! ‘という判断がついた。
どうにか家から追い出されることだけは避けなければならなかった。
即座に「食べて寝る所があるから出て行っちゃダメじゃないか? 」 僕はすぐに尻尾を下ろしてお父さんが望む’優しい息子’モードで突入した。
「お父さん. あの今学校も行かなければならなくて、来週に試験もあります。 ああ! あの遅刻です。 学校行ってきます!」
背中からは冷や汗が流れたが、何でもないフリして軽い足取りで家を出た。
歌手になる門に入ろうとするなら開こうが引こうがどちらかを悩まなければならなかった。
その瞬間、僕は父の心を押し開ける方法を選択した。
バカみたいに僕の意地ばかり前に出す時ではなかったからだ。
③これからが本当のスタートだ、歌手始動!
二歩前進のための一歩後退を選択した後、僕はまるで独立運動でもする闘士のようにできるだけお父さんの目に映らず隠れて過ごしながら、静かに歌手準備をしていた。
言葉だけで’音楽をする’と言うよりは、何か証明になるものを見せて説得するのが良いと考えた。
大人たちは’公証された何か’がお好きだから何かもっともらしい文書を持っていけば一層役立つ気がして某放送会社のアカデミーオーディションを準備した。
今更ながら遅いけど互いに張り合った対立状態にあった父との妥協点を探し始めたのだ。
そしてさほど経過しない内に放送会社アカデミーから合格の知らせが届いた。
他でもない放送局で運営しているので父の気持ちが少し変わるかもしれないという期待もできた。
父は一刀両断に僕の期待を切り捨てられた。
「これがどうした? こんな所はお金でも出せば誰でも皆合格出来るんじゃないのか?」
わずか5分前まで天を突き刺すような自信は’誰でも合格できる所’という父の一言で一粒の塵になって空で消えた。
いったいどうすれば父を説得させて僕の夢を認めてくれるだろうか?
再び苦悩が始まった。
両親の意に背くのは胸が痛かったがそれでも夢を諦めることが出来ないじゃないか?
父とのうっとうしい綱引きを終わらせるために僕はついに切り札を持ち出した。
'家出'を決心したのだ。 都合良く休み期間なので学校生活に支障をなかった。
父に真正面から挑戦状を差し出したのだ。
両親の許しを得るまでは決して家に帰ってこないと固い決心して家を出た。
ところが午後になるとなぜか分からない不安感が押し寄せた。
朝の強くて勇ましい気持ちは全てどこかへ行ってしまい、最小限のシールドでも作るべきだという気がした。
急いで家に電話をかけた。
「お父さん、あ・・・.音楽をしている兄たちと一緒にいるので、何日か家に帰れないです」
「・・・・」
少しの間の沈黙、そして長いため息が続いた。
「お前の好きなようにしろ。」
通話はそんな風に終わった。 虚しく電話を切るとすぐに頭の中がもっと複雑になった。 そばで会話を聞いていた兄たちは「それは外出だろ、家出か?」と、からかい始めた。 僕は’家出’で,両親は’外出’と思う小さなクーデターは認められる人なく一週間で幕を下ろした。
どれだけの時間が過ぎたのだろうか・・・
'子供に勝つ両親いない'という言葉は事実なのか? 突然お父さんの許しが出た。
「放送局でもどこでも一度通ってみろ。お前が直接行ってまともに苦味を感じてこそ気がつくだろう。」
喜びもつかの間、本当のスタートはこれからであった。
④学校にも通わなきゃいけなくて、練習もしなくちゃいけなくて、ハア~
父の許しを得てまもなく、夢に描いたYGエンターテインメントでオーディションの提案が入ってきた。
無知ならば勇敢だと言うのか?
入るのが難しいと言われるYGオーディションを受ける前、僕が知ってるポップソングとはせいぜいR.Kellyの(I believe I can fly)という曲ただ一曲だった。
もっと率直に言うと、この曲もオーディションのために急いで準備した歌だ。
もともと、歌謡ばかり聞いて好んで歌っていたので洋楽の知識はほとんどなかった。
運が良かったのか、運命のいたずらなのかYGの練習生になった。
父が’SE7EN’という歌手を知っておられてそれなりに簡単にうまくいった。
しかし、決して学業を断念することだけは許されなかった。
正直いつ歌手になれるかも分からなくて、また、歌手になるといっても成功が保障されなかった状況で学業を断念ことは想像もできないことだった。
'学校に欠席しない、どんなことがあっても11時までには帰宅する'という二つの約束をして練習生生活を始めた。
世の中にタダはない! 夢に向かった挑戦のチャンスを得たので両親が願う学生の基本的な事はしなければならなかった。
YGで唯一’毎日’登校する練習生はこのように誕生した。
YGに入ってみると予想通りだった。
6年準備したジヨン兄とヨンベ兄はすでに限界を越えた実力者だったし、彼らの前で僕は今まさによちよち歩き始めた子供のように小さくてみすぼらしく見えるだけだった。
学ぶことがあまりにも多かった。
誰よりもっと多くの時間と努力が必要だったが、なにより僕には使える時間も限定されていた。
許された時間内に最大限多くのことを学ぶために僕は足の裏から火が出るくらい走らなければならなかった。
学習の渇きがひどすぎて新しいものを見つけ次第スポンジのように吸収する忙しい日々が続いた。
ダンスというものも生まれて初めて習い始めた。
そんな僕にとって地下練習室は新しいものを作り続けてくれる魔法のランプだった。
生前見たことも聞いたこともないダンスと歌はもちろん、前はいなかった兄たちと弟ができた。
何より大きい声で歌を歌っても文句を言う人がいないそれこそ天国だった。
'どれくらい望んだ場所だったか、どれくらい習いたかった歌だったか・・・'
僕がこの場所にいることが信じられなくて毎日自然に笑みが出てきた
だが(リアルドキュメンタリー ビッグバン)の撮影が始まってからは話が変わった。
一週間に一回ずつビデオで撮ってテストを受けて、一日12時間こなさなければならない各種トレーニング スケジュールが手に追えなかった。
明日に対する保障がないから心理的にもとても不安な時期だった。
だが、この世の中に大変ではないことがどこにあるだろうか?
一日中何もしないのも大変だが難しいことでもある。
僕たち練習生は本当に家族のような雰囲気で楽しい毎日を過ごしていた。
ところがサバイバルが始まって脱落者が出て雰囲気が180度急変した。
誰かが脱落すること自体が大きい衝撃だった。
僕たちの中の誰かが落ちるなんて予想しなかったからだ。
初めの2人の脱落者が発表された時も’ヤン代表がドラマチックな状況を演出しようとわざわざそうしてるのだろう’と思った。
だが、それは僕の錯覚なだけ、現実は冷酷だった。
短い時間だったが喜怒哀楽を共にして互いに信じて頼った仲間だったから、離れていく人も残らなければならない人も心がつらいのは同じだった。
あまりにも申し訳なくて胸が痛くて、それでもどんな言葉も掛けてあげれなかったことが今でも時々心が痛む。
18歳、大人たちが言っていた冷静な社会を初めて経験した。
プロの世界がどれほど恐ろしいのか改めて感じた。
そのように2006年6月、僕はもう一度成長痛を体験してまた少しずつ成長した。
創造本能G-DRAGON #3
恐れずに、そして気兼ねもなく、青春のように
①僕を創造し表現すること
小さい頃から我が家の家族はみんな服にものすごい関心を示した。
小学校の頃、お母さんと姉の手を握って週末になるとデパートに行った思い出を今でも覚えている。
欲しいものを買うという喜びよりは、まるで芸術作品が飾ってある美術館を歩くような様々な服が並んでいる衣類売り場をぶらぶら歩くこと自体が有頂天だった。
今思えばその時の経験は僕にとって何か表現して作り出すのに多くの影響を及ぼしたんだと思う。
ある放送で見た話が思い出される。
クリスマスになるとある孤児院に救援物資が到着した。
その救援物資の大部分がラーメンや古着のようなものだった。
リポーターがある子供に’何が欲しいの? ‘と尋ねた。
ミミ人形やおもちゃのような返事を期待したリポーターは子供の返答を聞いてびっくりした。
子供はモナリザの絵が欲しいと答えたのだ。
このように美しさは’現実的な条件’が生み出すのではなく’想像力と夢’が生み出すことだと思う。
ブランドの服を着るとその人の品格が上がることはない。
流行にこだわったり他の人に見せるために飾るのも好ましくない。
僕もたまには高価なブランド品を買うけれども、路上屋台でおばあさんが売っている服を買うほうがもっと楽しい時が多い。
僕にとって服は価格やブランドでなく自分を表現してくれる翼と同じだ。
音楽が僕を動かすエネルギーなら、服は想像の領域を広げられるように助けてくれる翼だ。
時間とチャンスがあるなら、いつかファッション関連の仕事をしてみたいと思うので、曲を書きながらも時々衣装のデッサンをしたりする。
社会的基準や流行などとは関係なく、自分の思いのままに着るファッションのせいで、時々は世間の論議を引き起こす。
芸能人として慎重な行動がどれくらい重要なことかを自覚することになった事件もあった。
ファンなら事件の前後の事情をすべて覚えているだろうし、ファンでなくても一人の若い歌手が “扇情的なフレーズ”が書かれた服を着てステージに立った事件(?)に対して多方面のメディアを通じて知っておられるだろう。
問題のTシャツは個人的に一番好きなデザイナーのジョンガリアーノの作品で、言い訳のように聞こえるが、その服を選ぶ時、ヒョウ柄のデザインが気に入ってそこに書かれたフレーズはあまり目に入らなかった。
問題を起こそうとしたつもりはなく、周辺スタッフらやメンバーらさえも問題点を気付くことはできなかった。
しかしもうこれ以上’分からなかった’と言い訳を並べるよりは放送人として気を付けることができなかった点を心より謝罪申し上げたい。
②暗いトンネルを過ぎれば、輝かしい日の光が待っている
2007年に発表した(コジンマル)が大ヒットしてまもなく発表した(最後の挨拶)までたくさんの愛を受け取った。
しかし好事(こうじ)魔多しと(良い事には邪魔が入りやすいという意味)曲の悪い話も聞こえてきた。
Free Tempoという日本の歌手の曲を盗作したという疑惑が浮上したのだ。
結局原作者のFree Tempoまで立ち上がって盗作でないと代弁して事態は収まったが、色々な思いで頭の中が複雑になった。
その時、目に映った文字がまさに’Too Fast to Live,Too Young to Die’だった。
セックス・ピストルズ(Sex Pistols)の伝説的なベーシスト シド・ヴィシャス(Sid Vicious)の一代記を描いた映画(シドとナンシー)に出てくるセリフだ。
色々な意味として解釈できる言葉だったが、僕には’迷いと挫折がいくら私を襲撃しても、このまま諦めるにはあまりに早い’という意味として受け入れられた。
その時期,自分自身を表現できる最高の文章だったのでないかと思う。
僕自身をまた正す気持ちで背中にその文字を刻み込んだ。
僕はアルバムを準備する期間中の深い思いにふける。
一日中考え続ける。
そして自分なりに一つの定義を立てたりする。
右腕にある’Vita Dolce’とは’いかなる状況でも甘くて幸せに暮らそう’という意味で、自分自身に伝える決意であり約束である。
原文は’La Dolce Vita’,つまりイタリア語で’甘い人生’という意味だが’人生を甘く’に変えて刻んだのだ。
左腕にある’Moderato’はあまりにも急いで前ばかり見て走らずに’ゆっくり、周辺を見て回ろう’という意味だ。
冬という季節がなかったら春の日差しが暖かく感じられない。
時には冷たい風に心が痛むかと思って厚いコートの襟をしっかりと整えなければならなかったり、終わりの見えない暗いトンネルを過ぎなければならない時もある。
だが、ホコリを飛ばした車がガタガタ音を立てる未舗装道路だと思ってその道を諦めたら、トンネルを抜け出して輝かしい日の光を見られないだろう。
③満たされない自由に対して
いわゆる有名人になってから最も考えさせられた言葉がすぐに’自由’だ。
以前は僕が何をしようが誰も関心がなかったのに、最近では多くの方々が関心を持ってくださる。
それだけ幸せなことだが、またそれだけ大変な時もある。
'自由'が幸せの要素の中でとても大きいことだとハッキリと感じる。
芸能人という生活に慣れてきたら、目と耳を閉ざさなければならない時も多い。
そうしてこそ心がボロボロにならないでセーブできるからだ。
幸いにも僕の場合は広まった噂や話で、それほどダメージを受けない楽天的な性格だ。
だが、その楽天的な性格で僕自身をなだめることはできるが、自由を満喫することによって経験できるまた他の創作の源はたくさん失ったわけだ。
同じ年頃の友達に会ってくだらない話をしたり、お気に入りのガールフレンドに会って思う存分街をブラついたり、濃い(? )恋愛と失恋の痛みも味わってこそ色々な曲が作れるはずなのに・・・
時々、僕があまりにも仕事ばかりする機械になったようで少し悲しくなったりもする。
もちろん、失ったものに比べれば、得たものはあまりにも多い。
これは本当に秘密にしようとしたが、時々遊園地にこっそりと遊びに行く。
顔を見せれば他の人々にも迷惑が掛かるので仮面や動物仮面を被って行ったりもするが、静かに遊ぶだけでなく通行人を驚かせたり、こっそり引っ張ったりしながら楽しく遊んでくる。
僕なりの自由を味わう方法だ。 そんな風に一度行ってきたらストレスがとても発散される。
④ツラくても大丈夫、僕たちの青春だろ
どう考えても僕は本当に幸運な奴だ。
他の友達が才能を探して悩む時、溢れる才能をどうすることもできなかったし、それを無視しないでよく活かしてくださった両親がいたからだ。
不足ない暮らしのおかげで安心して学校に通って羨むこともない世話を受けた。
学生時代、一夜漬けで試験を受けてもいつも成績は中の上だったし、’ジャンケン’をして友達と軽い賭けをしても負けたことがほとんどない。
オーディションに落ちた経験もなく、入りにくいと言われるYGにはスカウトされて入ってきた。
13歳という若い年齢であまりにも偉大な助力者などにたくさん出会い、僕の人生最高の師匠ヤン・ヒョンソク代表にも出会った。
BIGBANGもやはりたくさんの運がついていた。
どの新人よりも多くの期待を受けてデビュー出来たし、今は身に余るほどの愛まで受けている。
ここまで読めば、’クォン・ジヨン、ムカつく’という気がするかも知れない。
だが、同じ話を他の角度のシナリオで読んでみたらどうだろうか?
'僕は両親の世話を受けなければならない13歳という幼い年齢で夜明けに早く起きて学校に行って、学校が終わればすぐに練習室へ向かった。
何も用意されてない練習室で夜遅くまで練習するので一日三食まともに食べることができない日が多かった。
長い練習生生活の間、歌手になれるのかなれないのかハッキリしない毎日を送ってひたすら根性でその歳月を耐えた。
いまやっと20歳を超えた年齢になったが、多くの責任感と重圧感に苦しめられて一日に2~3時間も寝られない時が多い。
数え切れない多くの曲を作ったが大部分が世の中の光を見ずにゴミ箱に捨てられてしまった。
今は大衆が熱狂するかも知れないが、風が吹けば落ちるかもしれない落葉のように僕の一日一日はいつも緊張して不安で不安でたまらない。
時々世の中は不公平だと言うが、’蒔かぬ種は生えぬ’という言葉もある。 (蒔かぬ種は生えぬ・・・何もしないではよい結果は得られないことの例え)
先輩歌手たちに会って話を聞いてみると、大変な過去を送った人々が多い。
歌手のRain兄さんばかりは涙が自然と出てきそうな暗い幼年期を過ごした。
お母様が亡くなる直前、残された指輪をはめて、カムバックステージに立ったという話を聞いて胸がじーんとした。
あるTV番組で見た内容だが、声楽家チョ·スミ先生はアメリカ公演の時に父が亡くなったという悲報が入ったという。
その知らせを伝えたお母様は”お前がステージに立って最後まで公演を終える事を亡くなったお父さんも望んでいることなのよ”と公演をキャンセルして帰るという先生を引き止めたという。
そしてその日、舞台挨拶をしてチョ・スミ先生が言ったんだ。
「今日、父が亡くなりました。 最後の曲は僕をこの場所に立たせて下さった父に捧げます」
そしてプッチーニ オペラ アリア(ア、愛する私のお父さん(O mio babbino caro)を歌ったという。
傷は時にさらに強くなる力になる。
特に若い日の傷はこれからの人生で使える良い鎮痛剤になるだろう。
'適当に'するのをやめよう。
勉強でも、夢でも、愛でも。 失敗と挫折を恐れて挑戦しない限り、若さの最低限の礼儀に従わなければならない。
僕たちが本当に恐れなければならないことは失敗でなく、挑戦と変化を恐れる固い心を持つことだ。
もし今挫折という壁にぶち当たって静かに泣いている友達がいるならこう言いたい。
倒れても大丈夫だ! 僕たちはまだ若いんだから・・・