BIGBANG~じよんワールド2~ -10ページ目

BIGBANG~じよんワールド2~

今年もまだまだじよん狂・・・ブログもパート2突入ですw


夢はより大きく抱くほどもっと美しく進化する







①誰も持っていない自分だけのカラーを作りたい





時々'大人になりたくない'と思う。 子供に戻りたかったり甘えたいという意味ではない。

自分だけの音楽とカッコいいパフォーマンスを作っていきたくて一時も本来の場所に留まらない、躍動感あふれる人でいたいという意味だ。

BIGBANGのメンバーとしてベストを尽くして、また、自分を満たすために着実に努力していくだろう。

今まで一般的に見られなかった、大衆とリスナー(音楽的造詣が深い聴衆ら)たちを満足させる、そんなミュージシャンになりたい。

僕のやり方で僕が感じる事をステージでもっと強く表現する欲は時間が過ぎるほどますます強くなっている。

だが、たびたび大衆が'音楽をやる人'に対する期待値と別名'芸能人'に対する期待値が入り乱れる時は心が落ち着かなくなる。

歌手にはステージが、役者にはスクリーンが最高の公演会場だ。

自分の頭の中で描いたイメージ通り'美しくて完ぺきに'表現することが彼らの役割だ。

だから時々僕が予想したり思った事が出来ない状況で何かすべきな時は、どうするべきかぎこちなくて当惑する。

軽いアイドルのように見えたり、何かに引かれて自分自身を失ってしまうのは本当に望んでいない。

オム・ジョンファ先輩が(DISCO)のラップ歌詞に僕のこんな思いを入れた。

"惹かれて行ってみたら自分を失う方法、順調な人生がどこにあるのか..."

2008年にはコミ姉の(ごめんなさい)でフィーチャリングしてミュージックビデオにも出演した。

毎回さまざまな姿、新しい姿を見せようと努力するのが、それが'芸能人であり歌手'として僕の務めだと信じているからだ。

そういうわけで、数年の間に発表された僕のラップを聞いてみると少しずつ音色が違うと感じるはずだ。

僕にも'声を作っていく過程'があったし、今でもその過程中だ。

'TOP'といえば思い出す声があるようにするものの、それぞれ異なる印象を与えたいと思う。

ある時は力を抜いてある時はもっと過度に力を集中して、新曲が出てくるごとに曲に合う感じを探すためにたくさん悩んでいる。














②'TOP、曲作業をたくさんやれ'






今まで発表した僕のソロ曲(Big boy)や(何でもないように),そしてビッグバンのボサノバ系の曲(優しい人)は僕が作曲に参加した音楽だ。

今までラップを多く作ってきたが、曲を作り始めたことはなかった。

今までは特定の分野に限定して音楽を悩んだとすれば、最近では10代や20代の若い世代だけでなくもう一歩出て3.40代が聞いても洗練されて感じがあるフュージョン スタイルの新鮮な音楽を作ってみたい。

そのせいか最近ではクラシックみたいな多様なジャンルの音楽を選ばないで聞くほうだ。

親しい友達の勧誘でフュージョン スタイルのジャズ音楽をするテテ(Tété)というフランスのアーティストの音楽も興味深く接している。

様々なジャンルの様々な分野のアルバムを触れながら、僕が今まで経験できなかった"音楽を通じた数多くの感情表現方法'を学ぶことになった。

KUSH兄との共同作業を通じて(優しい人)を作って、その曲を聞いて下さったヤン代表から本当に大きなプレゼントをもらった。

'MIKO'という名前の楽器だ。 それもTimberlandという有名プロデューサーの名前から取ったスペシャル エディションで、直筆サインと共に彼が作ったサウンドが内蔵されている一種のエレクトリック シンセサイザーだ。

当時ほとんど韓国に入ってきたこの音楽装備にはコンピュータも内蔵されていて数万種類のシンセサイザー電子音の最高峰がみな含まれている。

モニターもあって鍵盤もあってそれ一つだけで曲を作ることができるほどのものだ。

その楽器をプレゼントしてくれたヤン代表は僕により大きな挑戦課題を設定された。

"TOP、お前は曲作業をもっとたくさんしたら良いだろう。 この楽器にお前の想像力を入れて多様な曲を作ってみなさい。"

ヤン代表の勧めも勧めだが、それを受けて僕自身もっと何か強烈な欲が出てきた。

当時にも色々な悩みで思いがたくさんあったけど、その楽器をもらったらすぐ前後の見境なく 本当に三日間一睡もしないでそればかりを研究した。

その後も20日ほど部屋の外にも出て行かないでその楽器だけ触った。

今も時々時間を割いて、その楽器と格闘している。

新しい楽しさにすっかりハマってしまった。


他のメンバーたち全員そうだが、僕は人々が考えているTOPのイメージを飛び越えたい。

無限の可能性を見せてあげたい。

そんな思いでこの前、僕自身に呪文をかける文章一つをノートに書いた。


"変身ロボットになろう!"

'僕'という人は決まっていない、僕が作っていくことが'僕'だと思う

だから僕をアップグレードさせて変身させるロボットになりたい。











③ラップするTOP,演技するTOP




2007年7月、ラッパーRed rocの(Hello)ミュージックビデオに俳優として出演することになった。

実際にはそれまでミュージックビデオに顔を映ったこと以外は演技活動をしたことがなかった。

単独主演という圧迫感もなくはなかったけれど、新しい試みに興奮した。

愛や裏切りのような激しい感情を全身で表現しなければならなかったし、僕が直接頭を断髪する場面もあった。

俳優は役を引き受けるたびに、まるで他の人の人生を生きるような喜びを感じるというが、僕も初めてそのような感じを受けた。

歌手としての僕の姿だけでなく演技する僕の姿を見て達成感のようなものが感じられたし、その欲は時間が過ぎるほどもっと強くなった。

一つの分野に閉じ込められる必要なく色々な分野に上手になりたいという欲だ。

僕の人生の最終目標のプロデューサーになる前まで、できるだけ多様な分野をたくさん経験してみたい。

ただいい加減にするならはじめっから始めないだろう。

ドラマに出演したいという内心をほのめかしたら、YGで演技のレッスンを受けさせてくださった。

二回程度授業を受けた頃だったかな?

演技の先生は僕に"正しい演技をするなら発音から変えなければならない"とアドバイスしてくださった。

もちろん一理あるお言葉だが、僕の考えは少し違った。

'演技学院(塾)で習ったような'正しい口調と個性がない姿になりたくはなかったからだ。

だから慎重に演技のレッスンを辞退した。

(アイアムサム)というドラマで'学校の番長'でキャスティングされて、そのカラーを生かすために多方面で努力を傾けた。

表情と姿勢を研究して感情移入をするために台本を読み続けた。

だが、実際に撮影に入ると、色々な苦悩が多かった。

そのたびに(アイアムサム)の演出を引き受けたキムジョンギュ監督が良いガイドになって下さった。

生まれつき性格的に口数が多い方ではないので、初めは同じ年頃の俳優らのように気さくに近付いて話しかけることもできなかった。

だが、かえってキム監督はそんな姿を見て僕の本心を見抜いたようだ。

表現が出来ないことであって、心がないわけではないということを知ってくださったようだ。

監督は僕をBIGBANGのTOPでなく、人間チェ・スンヒョンで見てくださった。

"このドラマを通じて君を素敵な俳優にしてあげたい"という話をたくさんして下さったし、チェ·スンヒョンというキャラクターが役割によく溶け出るように熱心に指導してくれた。

だからそれまで僕が見つけれなかった姿がたくさん出てきた。

僕自身も知らなかった長所を監督は一つ一つ見抜いて下さった。




"君の長所はこれだ。 これからはそれをよく組み合わせて君自身を育てて作っていくのは君の役割だ"



キム監督は僕の役者入門の過程の良い支援者になって下さった。

幸いにも"歌手が演技をする"という先入観ではなく、僕の演技をそのまま好きになってくださった方々が多くて忘れられない記憶の一つとなった。

キム監督は僕にこんな話もしてくれた。



"色が濃い画用紙は個性が強く、すぐに人々の目に留まるが、他の色を受け入れることができない。
君が歌手としてあるいは役者として成長しようとするなら、もっと大きい人になれ。
もっと大きい人になろうとするなら他の色を吸収し、調和させる方法を知るんだ"



監督の言葉を聞いた後、僕は毎朝、昨日の未練と悲しみと後悔をきれいに消去する練習をする。

そして純白の白い画用紙みたいな気持ちでまた一日を始めようと努力する。

それでこそ新しい何かを吸収できるから。











④今この瞬間でも僕はどんどん上手くなりたい






僕は一見かなり強いイメージであるようだが、実際は考えも多くて悩みも多くて少し弱いスタイルだ。

'僕は何がちゃんと出来るのか','僕がちゃんとしている事が正しいのか'という思いに一度陥ればかなり長くその悩みに浸っている方だ。

最近ではなるべくそんな考えをする時間を減らそうと努力している。

大切な若い時期に1,2ヶ月もそんな考えに陥っているのは贅沢だと結論を下したからだ。

自分自身を信じてみるのが先だ。

'僕はこんな人間だ'と何かを決めておかない方が良い。

どこにも固定される "自分"というものはない。

僕はひたすら自分が作られるまま作られる。

人間が持つ欲の中にベストではないのもあるが、真の欲は'自分が作っていきたいまま自分を作っていくこと'だと思う。

幼かった頃、悪い事もたくさん経験してみたが、そんな経験のおかげでむしろ思い切って難関にぶつかる事が出来る'負けん気'が生まれた

何より'自分はとても不足している'という分別がない悩みは禁物だ。

ただ自身を冷静に振り返って足りないものがあれば直していくようにもっと努力すれば良い。

僕には一種の偏狭性がある。

冷蔵庫を開けて、そこに牛乳や豆乳のようなものな一方向に向かってラベルが見えるようにきれいに整列されているとなぜか分からない喜びを感じる。

僕の趣味はフィギュアを集めることだが、プラスチックで作られた "完璧な"製品が揃って置かれているのを見ると気分が良くなる。

どうしても芸術分野の仕事をする人々は、そのような傾向が少しずつ生じるようだ。

一日が大変で時々寂しく感じられても、僕の部屋に帰ってきて整頓されたフィギュアを見ていれば安心する。

そしてそれらのように僕を再度整えて気を引き締める。

先日、母と長い時間話をする中で、小説家だった母方の祖父の話が出てきた。

母は、 "お前は祖父のような点が多いようだ"と言ってくれた。

母方の祖父の名前は'ソ・クンベ'僕のように口数が少なくて長く考えてから話をされる方だ。

(港)等のさまざまな小説を書いて映画(八道山川)の脚本を書かれるなど内面の世界を文章表現していくこと以外、外に本音をうまく出さない性格が僕と似ているようだ。

世界と妥協したり、社会に順応することにあまり関心がなかった母方の祖父だが、家族を大切にする気持ちだけは本当に温かかった。

子供の頃に祖父​​と長い時間を費やして、その温かさを味わってからなのか、僕には母方の祖父がとても良い友人に思えた。

(Hello)ミュージックビデオを撮る3週前のことだった。

BIGBANGが大衆的にあまり知られてもいなくて、(嘘)の発表を控えていた時期なので、メンバー全員"僕たちが果たしてうまくできるだろうか? "と焦りを出していた時だった。

僕もやはりそうだった。

'歌手としての僕のアイデンティティ'に対する悩みも多かった。

当時祖父はとても具合が悪かった。

だけど駆けつけてお目にかかりたくても忙しいスケジュールのせいで心のままに行くことが出来なかった。

そんなある日、母を通じて連絡がきた。

祖父が危篤だという知らせだった。

全てを後回しにして病院に駆けつけた。

祖父は話する事が出来ないほど病状が悪化していた。

なぜか当時も'今日'を越えられないということを知っておられたようだ。

祖父は必死に自分の想いを文章で伝えられた。



"スンヒョン、お前のサインを一つしてくれ"



祖父がおっしゃった通りサインをしたけど、胸がずきずきと痛み出した。

祖父は震える手をあげて僕のサインの横に祖父のサインを書いた。

そしてまたその下に最後の力を振り絞って文を書かれた。




"スンヒョン、お前のこのサインは私が死んでも生涯最後の記憶として持っていく。
だからお前の夢を必ず成し遂げてくれ。
私がもらったこのサインが本当に価値あるものになるように、そんな孫スンヒョンになってほしい。"



僕は祖父の手を握りしめたまま、とめどなく涙を流した。

それは祖父の遺言であり、僕にできる最高の贈り物であり励ましであった。

その時からどんなことに対してももっと意欲を出した。

いつでも大変なことがあるたびに祖父の事を想う。

今でも僕の心の中には祖父がいる。

自分だけのキャラクターで勝負しろ


根気本能TOP




"切なる願い、その一つだけのためにここまできた。
今、自分が立っている場所がどこなのか?自分自身に質問を投げても明らかではない。
しかしまた違う自分を発見するその瞬間、この全ての彷徨いは終わるだろう
僕は自分に肩を貸してくれるまた違う僕を探さなければならない。 "





魂に響く力は、時には痛みを通じて誕生する







①吟遊詩人になりたかった僕





小学5年の頃からだったと思う。'HIPHOP'という音楽が僕を惹きつけたのは。

一日中音楽を聞いてラップの歌詞を書き取って、それこそ'音楽'に狂って生きていた。

HIPHOPの話をするなら、アメリカのHIPHOPの派閥に対して先に簡単に説明しなければならないようだ。

僕がHIPHOPに接した当時、アメリカではイースト・コースト(east coast)派閥とウェストコースト(west coast)派閥が二大の軸をなしていた。

ウータン・クラン(Wu-Tang Clan)やノトーリアス・B.I.G(Notorious B.I.G)で代表されるイースト・コースト ヒップホップはニューヨークが本場だ。

これらはラップと歌詞中心の傾向が強い。

一方、トゥパック(2Pac)と呼ばれる非常に強力なミュージシャンが位置していたLAを中心とする西海岸のHIPHOPはメロディー中心の傾向が強かった。

僕を惹きつけたのはイースト・コースト系列のHIPHOPだった。

当時韓国ではウェストコースト系列のHIPHOPを聞く人は多かったが、イースト・コースト系列のHIPHOPを楽しむ人はそんなに多くなかったことを覚えている。

僕は彼らのHIPHOPを聞いてラップ歌詞を書き取りながら、'、この音楽は本当に男としてやってみるほどのジャンルだ'という思いがした。

僕も彼らのように'自分だけの哲学とメッセージを伝達する吟遊詩人のような存在'になりたかった。

彼らの音楽に込められた歌詞は、通常、男たちの世界を表現したもので、概略的な感じだけ紹介するならば

'我が家はとても貧しくて私は最悪の生活を送った。
しかし、私は今は成功を収め、今うちのお母さんお父さんは喉が渇くときは水の代わりシャンパンを飲む'という風だった。

時に暴力的で暗い歌詞も多かったが、男として人生で持つかもしれない野望や正直さみたいなものを感じられたし、一方では僕の中でそんな姿に対するロマンができたりもした。

中学校に入ると僕はかなり注目を浴びた。

背も同じ年頃の子より高かったし子供には探すのが難しい'ヒップホップスタイル'だったからだ。

小さい頃から服に関心が多く、当時の友達は着なかったヒップホップ ブランドを好んで着たりした。

両親が買ってくれなくてもお小遣いを使わないで貯めて本当に買いたい服を買ったりした。

勉強にはほとんど関心がなかったし、先輩たちの注目をたくさん浴びたから、よく大人たちが話す'質の悪い友達'と付き合い始めた。

もちろん今の僕には大切な友達だが、社会の冷静な視覚で見た時は'不良'に分類されるそんな友達たちだった。

そうして大人に成長した頃、僕は経験するべきでないことをたくさん目撃することになった。

その時は感性が豊かで悩みが多かった時期で、生まれて初めて人生の'痛み'というか、もしくは'恐れ'みたいなものを感じた。

肯定的な人生よりは否定的な人生をより早く見たというだろうか?

もちろん大人たちがするなという事だけ選んでする、友達の意味ない振る舞いも問題だ。

だが、そんな子供たちを見て導くより無条件に処罰で一貫する大人たちも嫌いだった。

子供たちの行動に言い聞かせるより強い処罰で懲らしめて、もっと抜け出せない状況に追い込む大人たち、そしてその傷と衝撃でますます反する子供たち。

先生をはじめとする大人たちはまだ中学生にしかならない子供たちを'悪い奴'と追い立てるばかりだったし、両親たちは'不良になった子供を持った罪人'になって頭を下げて涙を流さなければならなかった。

初めからあまりひどく外れなかった子供たちも、懲戒を受けて転校措置になったり他の街に追い出されて、新しく移ったその学校では問題児にされてもっと深刻に悪くなる方向に転落した。

そんな風に友達が変わっていく過程を見て、何か闇のどん底のような所にずっとはまっているような感じがした。











②夢のかすかな影を発見する





これ以上'苦しい世界'にいるのはやめようと決心することになった決定的なきっかけは中学3年の時やってきた。

親しい友達がバイク事故で亡くなった。

間もなくしてまた他の友達が無免許運転で事故を起こして死んでしまった。

しかし、彼らの死を見つめる社会の視線は冷たいだけだった。

誰も関心を持ってくれない死・・・

他の友達たちも周辺から後ろ指をさされ転校していき、もう町内の友達の中で同じ学校に通う友達は1人も残っていなかった。

そうして1人ずつ離れていく友達たちを見て、こんな風に人生を浪費するのが無駄だと感じた。

そして徐々に気持ちを取り戻し始めた。

だが、現実はまだ甘くなかった。

転校すればその学校では間違いなく噂を聞いて因縁をつけて困らせるヤツが現れた。

先生方もやはり僕を警戒するばかりで、積極的に立ち上がって状況を正してくれたりアドバイスをしてくれる先生がいなかった。

ただ透明人間のように我慢するしかなかった。

ますます学校に行くことが嫌になり始めた。




もし、今、僕と似た学生時代を過ごす友達がいるなら、"今のあなたがやっている行動はつまらなくて恥ずかしいこと。"と言いたい。



今は自分の姿がカッコよく感じられるだろうが、他の誰かにカッコ良く見えるために自らを壊すのは本当に愚かなことだと。

中学3学の頃から、本格的に歌詞を書き始めた。

口数が減って考える時間が多くなったのもその頃だった気がする。

次々と考えながら歌詞を書いていたら、考えはますます深くて暗くなるだけだった。

あまりにも深い考えに浸ったせいで,僕自身でも手に負えない悩みを抱えてしまった。

だが、幸い僕がなりたいもの、やりたいことに対してだけは雑念が入ったり葛藤したことがなかった。

無条件にHIPHOPと関連したことをやりたかった僕が将来の希望に選んだことは2つだった。

1つはラッパーになること、そしてもう1つは全く無茶だけど'ヒップホップマルチショップ'を作ることだった。

当時としてはヒップホップの関連商品に触れることが困難で、輸入品だったために、触れられない商品を一堂に陳列したスタイリッシュなヒップホップ マルチショップをしてみればどうだろうかと考えた。

今、振り返ってみたら突拍子もない夢だったが、何も考えず実行に移した。








③大人には大人の役割、子供には子供の役割がある






梨泰院(イテウォン)に直接訪れてヒップホップ ショップでアルバイトを始めた。

ヒップホップ音楽を思い切り聞くことができて好きな服を見ることだけでも嬉しかった。

その上'直接商売を経験しながら横目で経営に対して学んだら、後ほど僕の夢のヒップホップ マルチショップをするにも役に立たないだろうか? 'そんな漠然とした思いにもなった。

ところが数ヶ月たたない内に'僕が思ったより簡単なことではない'という結論が出た。

そんな仕事を大人たちがするのはみな理由があるんだと精神的にも衝撃を受けることが多かったが、何より肉体的につらかった。

販売するためには外に出て行ってお客さんを引っ張ってこなければならなかった。

社長が望むように手段と方法を選ばず'たくさん'売らなければならなかったからだ。

夕方7.8時に仕事が終われば、明け方市場に行って直接商品を卸してこなければならなかった。

そして明け方3.4時にまた店に戻って卸してきた商品を全部整理する。

仕事をまともにできなければ文句を言われるだけでなく、冗談半分本音半分で暴力も受けることもあった。

当時の子供にとっては結構大きい4万ウォン程度の日給だったが、社長はそれさえも'幼い野郎が何でお金に執着するんだ。 'と上手くこっそり踏み倒されたりした。

もちろん、生活のために始めたわけじゃない。

子供心に欲しい物を買いたくてその世界を見物したくて何も分からず始めたことだったけど、思ったより簡単なことではなかった。

苦味だけ知って店を辞めた。



その頃からラップを本格的に始めた。

'ヒップホップ マルチショップが出来ないなら、ラッパーの道に行こう'と思った。

当時は若すぎて怖さがなかったようだ。

僕がやりたいことを始めれば何でも上手く出来ると思った。

初めは公演をしたくて一人であちこち捜し回った。

知っている人があまりいなかったから限界が多かった。

当時のヒップホップクラブでDJが人気が多かったが、当時話題になっているヒップホップの音楽を最も知っている人だった。

僕より5才年上だったDJティ メーカー(D-maker)兄を通じて周辺でラップをする人々と出会ってゲストメンバーで活動したり互いにジョイント公演をしたりした。

僕に新しい世界が開かれ始めた。









④'アンダーグラウンドで指折りのラッパーになろう'




その時は歌手という夢を育てるよりは "アンダーグラウンド(underground)で有名なラッパーになろう"という頑固な精神があったようだ。

実際'オーバーグラウンドで実力を認められたラッパーたち "は、ほんの一握りだったので、"真のラップをしたいなら、ここアンダーグラウンドで本物のヒップホップをしなければならない。 'という考えに捕らわれていた。

そうするうちに高校2年頃に、公演したクラブでガールフレンドに出会って交際するようになった。

YGエンターテインメントに入ってくる前まで、約1年くらい付き合ったと思う。

僕よりも年上で彼女の周りには華やかな大学生が多かったので、カッコよく見せたかった。

彼女の前で未来のビジョンを話す僕の声にはますます強い確信が入り込んだ。

誰かに夢を声に出して説明すると、その夢の実体がだんだん明確になるというが、そんな感じだった。

"認められるラッパーになりたい"という漠然とした思いに含まれている僕の願望の実体が、自分が知っていたよりもはるかに大きいという事実を発見した。

その時初めて'TVに出てくるラッパーになろう'と思った。

デモCDを作ってジヨンに渡す事にした直接的なきっかけはその彼女だったわけだ。

結局YGに入って、付き合って1年ほどでその彼女とは別れることになったけど。

運良くYGに練習生として入ることができた。

初めて練習生になって思った事は'ラップを思い切りやることができる'という期待感だった。

作曲家たちと直接作業しながらラッパーになれるという期待に浮かれていた。

そして練習生生活しながら、ラッパーとしての夢と共にプロデューサーとしての夢も徐々に膨らみ始めた。

ヤン・ヒョンソク代表のように、ヒップホップや黒人音楽の分野の志望生らに基盤を作って、思う存分翼を広げられるようにしてあげたいという抱負を持ったのだ。

プロデューサーとしての力量を積むのなら僕が直接その状況を経験してその過程を体験しなければなければいけないと思ったので、ラッパーあるいは歌手としての段階をじわじわ踏んでいこうという計画も立てた。

ところが実際に練習生時期の終止符を打って最後のオーディションを控えることになった時、期待していたことと全く違う現実が目の前に繰り広げられた。

'グループ'で作る予定だということ、そしてそのグループ活動にはダンスが必ず必要な要素だということ、そしてグループ メンバー選定過程をドキュメンタリーで撮るということ。

その3つ全てが僕にとってショックだった。










⑤踊るラッパー?







YG練習生に入る前まで、僕にとって'ダンス'というのは遠い存在であった。

若い頃からから弘大(ホンデ)をはじめとする色々なクラブで公演をしたが、ダンスという存在が僕を圧迫したことは一度もなかった。

ヒップホップが好きでラッパーになりたい僕に、ダンスという関門が待っているとは思わなかった。

前にも吟遊詩人になりたいと話したが、僕が思うラッパーは'メッセージを表現する'Move the Crowdを縮約した言葉だ。

'Move the Crowd・・・'聴衆を動かす'!


初めてその言葉を聞いた時から本当にカッコいい表現だと思った。

ラッパーだけの持っているカラーは'歌手'とは少し違う。

派手な動きやパフォーマンスみたいなものを通じてカッコ良く見せることもあるだろうが、ラッパーには自身の哲学を入れた歌詞とその熱情的な伝達力、パワーのようなものが全てだと思った。

だから無理に踊りながら'見る楽しみ'をプレゼントするより、'聞く楽しみ'を与えることだけでも充分だと思った。

ダンスや他の興味深い要素を取り入れなくてもステージに立つ瞬間'観客と一つになる'ということがヒップホップの魅力だと思ったからだ。

もちろん今の考えは少し違う。

ステージに上がって歌を歌ってラップをしてダンスをして、より多くの僕たちの姿を表現することで'観客と共に楽しむことができること'が嬉しい。

幸いなことに、ヤン·ヒョンソク代表様も僕に限っては'ダンスへの期待"があまり大きくない。

ダンスが上手いTOPというのは何かちょっと似合わないと思われたようだ。

だが、オーディションの時は違った。

これから向かう道がどんな形になるのか何も分からないからその漠然としたことに対して心配ばかりが胸中に広がっていった。

オーディションを準備しながら、20年の間一度も悩んだことがなかったダンスを習うことになった。

心が受け入れてくれないから、体も従ってくれなかった。

もちろんオーディション当時は単純にダンスに対する負担感だけでなく、色々な思いのせいで頭の中が複雑だった。

特にドキュメンタリーを撮ることになって脱落と合格という過程を通じてグループが作られることを知った後からは、なんとなく'僕がアイドル グループ、構成された形で動くダンス グループにならなければいけないのだろうか? 'と心配になった。

アンダーグラウンドで活動しながら音楽に対する情熱を話した先輩後輩や同僚らの目に'ありふれている歌手志望生'のように映るのではないか、そんな葛藤の中で一日一日が過ぎた。

振付け師の兄はそんな僕のせいで一日に何度も堪忍袋の緒が切れた。


"むしろ踊れない事は関係ない

だけど、最小限やろうとする意志は必要なんじゃないの?

お前がこれ以上意志を見せないなら、私もこれ以上、お前に教えることがないよ。 "



硬直して感じないし、やる気ないし....

僕は一言で言うと思わしくない生徒だっただろう。

今のBIGBANGの姿に大きなイメージがあったなら、我を張ったり葛藤をする必要がなかったはずなのに、当時としては踊るラッパーの姿が想像出来なくてそんな風な行動をした。

しばらくの間、悩んだあげく自ら結論を下した。

'踊るラッパー'というのは僕が考えられなかった姿だが、'ダンス'という関門を通過してこそ、このオーディションに合格できるなら喜んで越えてやろうと。

ラップを上手くて見せる楽しみまでプレゼントするオールドスクールのヒップホップ系列の歌手もいた。

MCハマー(MC Hammer)やB2Kのリル・フィズ(Lil Fizz)みたいな場合のように。

結局'二兎を追う者は一兎をも得ず(同時に違った二つの事をしようとすれば、結局どちらも成功しないというたとえ)は難しいが、努力すれば良いのではないのか'と悩みをポンと払いのけた。

正直に告白するなら僕がダンスを踊れないでここでチャンスを得ることが出来なければ、それは本当にもっと笑い事になるような気がした。

初めて練習生生活をした頃は、ほぼ一日中'に閉じ込められられるというのが我慢できなかった。

"五時間ほど一生懸命に練習し、残りは外に出て生活してもいいんじゃないか? "という思いもあった。

僕の場合は、ダンスよりも他の要素がより重要だから、ダンスの練習時だけは他のメンバーとは別々に配慮してほしいという思いもあった。

ところが今思えば練習生みんなにそのようにドンドンと強圧的(? )で同じプロセスを踏むようにしなかったらBIGBANGのようなチームは完成されなかっただろう。

恐らくそれはチームを作っているヤン代表の一種の持論みたいなものだろう。

'歌手になる前に人になれ'というモットーもそんな脈絡だろう。

幼い時期、何かに多くの情熱を注いだ事がない僕には、耐え難い監禁(? )の経験と激しい練習過程を通じて'負けず嫌い'の僕も知らなかった力が発動された。

万が一、僕がオーディションを諦めてしまったら、多分今と同じ生活は夢見ることが出来なかっただろう。

ヒップホップが好きだといってさまざまな文化と音楽に耳を閉じるのは危険な考えだ。

実力があるラッパーならヒップホップだけでなく歌謡、バラード、ボサノバ、ダンスまで全てのジャンルでラップを駆使できなければなければならないと思う。

BIGBANGのメンバーたちと作業するのはいつも幸せだけど、特にジヨンとの曲作業は一つの'遊び'みたいで楽しい。

ジヨンのハイトーンと僕のロートンで対比されるバランスも本当によく合うと思う。

本当にやりたい何かがあるなら、今まで傾けた自身の努力と自身の持った才能を信じなければならない。

状況の中で楽しむのも良いが、僕が持った努力で状況自体を突破するのも方法だ。

状況をリードできる主導権を握ったら、その次からは状況のせいで挫折することが少なくなる。

チャンスをパスすれば失敗になるけど、チャンスを握りしめれば幸運になる。


僕は’肯定ウイルス’でありたい

肯定本能テソン#3





①友達は人生の預金通帳と同じだ







中学時代、僕はスンリと似た性格だった。

'スンリと似た性格って一体どんなの? 'と思われる方がいるだろう。

それはまさにどんな事でも恐れをなしたり躊躇するよりは’僕ができないことが何かあるか? ‘という思いで一旦飛びかかって見るスタイルだ。

どうであろうと一旦’試してみる’ということに意義を置いて、可能性があったと思えば無条件にやってみる性格だった。

そうして出来ないと思えば、未練なく諦める方法も知った。

しかし、声帯結節後、 “僕にも出来ないことがあるんだね、足りないことが多い人だな’という思いで全てにおいて慎重になった。

そうするうちに少しずつ性格が内向的に変わったようだ。

困難なことがあっても家族はもちろんメンバーにも悩みを口に出さない。

そのせいか時々、寂しい気がしたりする。

僕に必要なのは、おいしい料理や、素晴らしい景色、かっこいい服ではなく、ただ長い間僕を知っている気楽な友達だ。

練習生時代は、自分の夢を追うために友達を心配する暇も、友達に会う心の余裕がなかった。

僕のそんな姿を友達らが見て’芸能人の準備をすると心が変わった’という風に見えたようだ。

互いに連絡する回数が減り始めるとついに連絡が途切れてしまった。

友達も派手に変わった僕の姿を見て、”昔のカン・デソンじゃないだろ”と思って連絡をしてこなかったという。

そんな風に互いに相手が先に連絡をしてくるだろうと思いながら1年が過ぎてしまった。

喉が渇いた人が井戸を掘るように、待つことに疲れた僕が先に電話をかけた。

1年ぶりの通話がどんなにワクワクしたか、片思いのガールフレンドに初めて電話をかける心情がこうなのかと思った。

友達にも今の自分が少し特別に見えると思うなら、彼らが負担になる前に僕が先に近付くべきだ。

忙しくて気が気でないという理由で疎かにするのは、僕にとってその意味はあまりにも大きい。

忘れられて遠ざかることほど悲しい事もないだろう。

与えた分だけ受け取ると、特に友達との友情は銀行で作っておいた預金通帳のようで無限の信頼と信心という利子を返す。

"友達を持つことは、もう一つの人生を持つようなものだ"という言葉がある。

どれほど素晴らしい言葉なんだろう!

僕のもう一つの人生はその光を失うことなく、いつでもどこでもキラキラ輝いていてほしい。








②笑顔の天使カン・テソン、僕を作ってくれた人生の本






僕に’人生の本’を挙げろと言うなら断然ジョエル・オースチン(Joel Austin)の(肯定の力)だ。

この本を書いたジョエル・オースチン牧師はとてもよく笑って’笑う牧師()’というニックネームがある。

その事実を知った瞬間、一度も会ったことがない方なのに、なんだか親近感と同質感が感じられた。

僕の口から話すのは恥ずかしいが、僕のニックネームも’笑顔の天使’でしょ?

みんなが見るカン・テソンは前向きで明るいキャラクターだが、正直僕が見る自分の姿は暗くてうっとしい面も多い。

特に良くないことが起こったり間違ったことがあれば自らを責めるスタイルで、キリのように鋭くなって誰もそばに近づけないほど冷たくなる時もある。

デビューの初め、声帯結節で苦労した時は特にひどかった。

喉の状態がめちゃくちゃだったからステージでよく言う’ピッサリ(音が外れる)’がとても多く、そんな日は誰も僕に近づけなかった。

後からみんなに聞いてみると、とても話しかけることができないほど暗い影が僕の周辺を包んでいた。

自分の怒りを抑えきれず、苦しんでる姿がそれだけ陰気な雰囲気を作り上げたようだ。

その時は他の人の気持ちを考える余裕がなかった。

それだけ自分に対する失望と怒りのせいで極度に挫折した状態だった。

僕自身も耐えられない感情に包まれて目を閉じ口を閉じ、限りなく挫折の奈落に落ちていくだけだった。

その時の僕は “笑顔の天使’よりは’角が生えた牛’に近かった。

しかし、大衆が見る僕はいつも愉快で前向きだ。

デビュー初めはそんなギャップのせいで大変だった。

"人々に映る自分の姿が見せかけではないか"と心配さえ出てきた。

しかし、悩みは長くは続かなかった。

周囲でとても明るい子供と思って下さったから,いつのまにかそのような評価に自らが同化されたのだ。

悪いことがあっても’前向きと言えばカン・テソンなんだから、こんなことでくじけてはいけないんだ’とマインドコントロールするようになった。

'僕が思う自分'より'人々が思う自分'に焦点を合わせてみたら、自然にそちら側に自分を合わせていた。

楽しい人になりたい。

僕の力で人々が幸せになることはなくても、少なくとも不快にならないでくれたら嬉しい。

いや、出来るだけ幸せになってもらえたら嬉しい。

ジョエル・オースチン牧師が多くの人に希望と意志を伝えたように、僕自身が’前向きウイルス’になって人に笑いを与えたい。

それが僕にたくさんのことを教えてくれ助けてくれた人々に恩返しができる幸せなことだからだ。










③この世に無謀な挑戦はない





BIGBANGとしてデビューして盛んな活動を広げながら、一つの考えが頭に浮かんだ。

五人が共にする活動に十分に感謝して満足しているけど、ふと’僕一人で離れて活動した時、僕の力はどこまでなのか? ‘と気になった。

もし僕一人で挑戦するならばどれくらいやり遂げられるか、僕の能力をテストしてみたいという望みが出てきたのだ。

正直、上手く出来るという自信はなかったが、限界を分かってこそ克服もできるので挑戦だけはしてみたかった。

毎日願い続けた。

僕が持った才能の大きさを調べてみるきっかけが欲しいと、メンバーらに対する依存から抜け出して一度ぐらいは一人の力で立ってみたいと、ご飯を食べながら、ベッドに横になりながら、移動する車の中で..、暇が出来るたびに考えた。

チャンスが欲しいと、そしてチャンスは必ず訪れると。

そしたら本当に信じたことが現実になった。

ミュージカル(キャッツ)の出演オファーをもらったのだ。

具体的に何をしたいという考えもなく、ただ漠然とした希望を抱いただけなのに、こんなに素晴らしいことで実現されるとは!

ときめきと喜びに全身に戦慄が感じられた。

オファーを受けてから、オリジナルチームの公演を見て欲がさらに大きくなった。

2.3回繰り返してみたが、何回見ても新鮮で魅力的な公演だった。

キャラクター1つ1つが生きて動く躍動感に、椅子に座っているのに体がムズムズしてお尻が持ち上がるほどだった。

'僕があの舞台に立つことができるなんて、僕があの役を受け持つことができるなんて.. '

手の甲をつねって’これが夢か現実か? ‘確認してみるくらい信じられなかった。

ミュージカルの練習過程は楽しみの連続だった。

おかげで2~3倍忙しくなったけどミュージカルの練習に行けば、どこに潜んでいたのか分からない力が自然と出てきた。

新しい世界の門を叩くそのときめきと期待が僕をワクワクさせたようだ。

"こんにちは~. テ~ソン~です~. "

練習室のドアを開けて入るたびにわざわざ力強く叫んで入った。

自分自身に気合いを入れる意味でもあった。

'今日も一日ベストを尽くそう'というそれなりの応援方法だった。

それだけではなく恥ずかしいタイツ姿さえも笑って楽しむことができた。

もう放送で話したことがあるけど、面白いエピソードもあった。

すべての配役が猫を演技しなければならない作品の特性上、舞台衣装は全身にぴったりくっつく’パツンパツンの伸縮自在の薄手の肌着。

初恥ずかしくて恥ずかしくて普段着で練習したけど、他の俳優は全員その衣装を着て本番のように練習に臨んでるではないか?

一緒に出演したオク·ジュヒョン姉が”今から着ておけば後の舞台で適応される。”とアドバイスをいただき、ようやく勇気を出して衣装を着て練習に行ったが、悲しいことに!よりによってその日はボーカルトレーニングを受ける日だった。

先輩ら全員パツンパツンの衣装の代わりに快適なトレーニング服を来てこられたのに、僕一人、体にピタっとつくタイツを着て行ったのだ。

あー、真っ裸になった気分・・・

だが、僕は猫なんだから、その姿をこれ以上恥じてはいけなかった。

当時はどんな事でも楽しくて面白い事ばかりだった。

もう僕の全身は’情熱と前向きのウイルス’に伝染した状態だったからだ。

それは解毒剤が必要ない幸福ウイルスだった。







④信じただけ叶う






(キャッツ)ミュージカルの初めての舞台の興奮は今でも忘れられない。

公演中、長い間じっと横になっているシーン(scene)があったが、ふとミュージカルの練習した時を思い出した。

出演オファーをもらって喜びを持て余すことができなかったこと、絶対的に不足した練習時間のために戦々恐々焦りを出したこと、少しずつ猫の演技が自然になる僕を見て自ら感心したこと・・・

'今、僕がこの舞台の上にいるなんて、これも奇跡だ。 奇跡! '

公演が終わってあふれる拍手喝采に、あまり泣かない僕でさえ涙が溢れるほどだった。

一生懸命に公演の準備した出演陣とスタッフ全員に向けた拍手だったが、歌手ではないミュージカル俳優として受ける初めての拍手だったのでその瞬間だけは僕に向けたお祝いだという気がした。

さらに両親ほどの年配の大人たちが歓声を送って下さることは初めてなので、特に感無量だった。

公演をずっと静かに観覧した方が公演が終わるやいなや、こらえた熱狂と歓呼を爆発させる姿がとても印象的だった。

BIGBANGのオーディションを準備した瞬間から僕には奇跡のようなことが絶えず起きている。

チームリーダーであるG-Dragon兄とテヤン兄を見ても少なくとも6~7年は練習した人だ。

T.O.P兄も中学校の時からアンダーグラウンドで活動し、末っ子スンリも光州(クァンジュ)にいる時ダンスチームで活躍した。

そんな人たちと一緒にオーディションを受けたが、僕はまるで高速電車にでも乗ったように1年ばかりで彼らと同じ位置に立てる幸運を享受した。

ヤン代表の前で初めてのオーディションを受けた日、とても震えて歌を上手く歌えなかった記憶が鮮明だ。

ところが数ヶ月後、代表は僕がオーディションに合格した理由の中の一つがまさに’明るく笑う姿’だったからとおっしゃった。

'肯定エネルギーの法則'というものがあるという。

自身が信じるほど実現されると言われる言葉だが、例をあげると’僕はダメだ’とか僕なんかが・・・’という否定的な考えをすれば本当に良くない結果が出るということだ。

悪い結果を予想して不安に思えばそんな考えがさらに良くない考えを呼び入れて、引き続き悪いことが広がるという。

反対に’出来る”僕の人生は本当にすばらしい’というように肯定的に考えれば実際に良いことが起こるということが法則の核心だ。

もし誰かがどこかで不透明な明日のせいでため息をついているなら、’出来ない’と諦めていたなら、何をするべきか分からなくて悩んでいるなら、今日から’私は出来る、自分の好きな世界を生きることが出来る。 ‘という思いから始めてみる事を薦めたい。

難しくはない。 ただ考え方だけ変えればいい。

テソンでも出来たんだから誰も出来る!







⑤人生はいつも僕に希望のノックをする






インターネット サーフィンをしていたら偶然に’カン・テソン、君の変身の終わりはどこなの? ‘というタイトルの文があった。

BIGBANG活動からトロット、バラエティ、ミュージカル、音楽番組のMCなどに挑戦する僕に対して’変身’という単語で評価した文だった。

飛ぶような気持ちだった。

様々な活動が自分の能力に合わない無謀な挑戦ではなく、多彩な変身として見られるなんて!

今までの努力が無駄にならなかったという思いにやりがいも感じた。

正直に告白すると、僕には悪いクセが一つある。

問題が起こった時、周囲の人々に助けを求めればすぐ解決されることも一人で解決してみようと抱え込むのだ。

結局問題が大きくなるだけ大きくなって収拾不可能な状況に達して、仕方なくSOSを要請したりする。

他の人に迷惑を掛けてはいけないという一種の強迫観念のようなものがあって、いつも一人で問題を抱いて事態を悪化させるのだ。

(ファミリーがやってきた),(キャッツ),(ショー! 音楽中心)に同時出演する時もそうだった。

スケジュールが多いため、体力的にも精神的に限界にぶつかったが、誰にも話すことができず一人で抱え込んでいた。

小さい雪だった問題が雪だるまぐらい大きくなる経験をしてしまってから、このクセを直そうと努力中だから本当に愚かでもある。

いくつかの活動を並行していると、時間が足りなくて、いろいろな困難が伴うものだ。

いくら睡眠を減らしても時間が絶対的に不足するため、腹を立てる時が1.2回ではない。

'なぜ1日はわずか24時間だけなんだろう? 'と話にもならない恨みごとを言う時もある。

特に(キャッツ)を準備する時は練習時間がとても不足してスケジュールを管理する室長に”練習をしなくてどのように公演をするんですか? 練習する時間を与えてくれないと!”と抗議をすることもあった。

言葉が発したその瞬間から後悔が押し寄せた。

多忙なスケジュールだと明らかに知りながらミュージカルに欲を出したのは僕だが、他の人のせいにするなんて、申し訳ない気持ちで身の置き場がなかった。

だが、その当時は気持ちが焦っていた。

するべき仕事が多く時間が不足しているから、出来るならば他の人の時間でも借りてきたい心情だった。

一生懸命にするという意欲を持って挑戦した分野なのに、結局僕の行き過ぎた欲で全部失敗するのではないか、僕のせいで他の人たちに迷惑を掛けるのではないかと心配だった。

食事の時間も減らし、寝る時間も減らし、どうにか絞り出すことができる時間は全部絞り出して練習に臨んだ。

'時間'との戦いは大変だが、それでも時間ばかりを恨んで座っているわけにもいかなかった。

今もやりたい事がとても多い。 叶えたい夢が多い。

そしてきっとその夢が叶うと信じている。

だけど大変だとここで休んでしまったら、それは僕の夢に対する礼儀ではない。

吐き出す息遣い一つ、進む一歩に夢に向かった信頼を植える。

だから僕は今日も笑う。

希望を捨てた瞬間、絶望が残るが、希望を抱く瞬間、奇跡が起こるというではないか。

人生はいつも僕たちに希望のノックをしている。