ご意見をありがとうございました。
先日のボランティアの朗読会作品、
レオ・パスカーリア作
みらいなな訳
「葉っぱのフレディ」
と、
研修生鈴木俊胡自身の作・自演
「お帰りなさい」
の2作品は、「いのちと死」を扱った作品でした。
「葉っぱの・・・」は多くの皆さんご存知の作品です。
研修生の一人、鈴木俊胡さんの作品は、
ある日、お母さんが泳ぎを習いたいと言ってきたところから話しは始まります。
「何故?」
と聞く娘に、
「自分は泳げないから三途の川をUタウンして帰ってこられないかもしれい」
とこたえました。
娘は、
「だったら、一生懸命泳ぎの練習をして」
と頼み、
「川を渡れたら歩いて戻らなくてはならないのだから、筋トレも」
と言った思い出を語るのです。
正月に訪ねてきた母の友人に、
「母は三途の川を渡れなかったようだ」
とこぼします。
彼女は母を好きだった。
子どもの頃、我慢しきれずにもらしてしまったウンチを、
素手で受けてくれ、
「きれいなウンチでよかったね」と微笑んでくれたそうである。
その話を聞いた母の友人は、
「お母さんは帰ってきているじゃありませんか」
と話してくれた。
あなたが、こうしてお母さんを思い出すたびに、
あなたの心の中にお母さんは生きている。
「ほら、耳を澄ませてごらんなさい」
お母さんの声が聞こえるでしょう?
お母さんの笑顔が見えるでしょう?
お母さんは、見事にあなたのもとに帰ってきているじゃありませんか。
こう聞いた彼女は、
その母に笑顔を向け・・・
「お帰りなさい!」
これが作品のタイトルです。
この作品も発表会に加えました。
話し手も聴き手も同じ人間であり、
同じように命を持ち、同じように死のカードも持っています。
誰が、先にカードを切るか、
それを問題にしているのではありません。
田中さんは、
「葉っぱのフレディ」の死の行を読みドキリとしました。
若しかすると、聞いている人たちは
自分より先に死ぬと思ったのではないか。
死を前にしていた人たちだと思わなかったか。
その思いが、彼女をドキリとさせたのではなかったか。
子どもには難しい作品だと大人目線で決め付けることがある。
彼らは寿命が尽きる間際だと、少し若いから決めてかかる。
ここに大きな落とし穴があったのではなかったか・・・
何より先に、
私たちは「今を生きている」ことを常に思えるようでありたいと考えます。
それこそ、お互いが分かち合える共通の空間であり時間だからです。
その中で、車椅子に座った身でも、
寝たきりの身であっても、
その存在が、周囲にどれほどの励ましになっているかを知らなければなりません。
三浦綾子さんの短編に「役に立つということ」という作品があります。
使われない消火器が、
毎日使われ洗ったり磨いてもらう食器や鍋を羨ましがります。
自分は使われることなく埃をかぶり、
誰も見向いてもくれません。
しかし、消火器は役に立たなかったのだろうか。
このような話です。
自分は聴き手の爺さんや婆さんより長生きするという意識をもってしまうのを非難しているのではありません。
ついつい、そのように思ってしまうのは当然でしょう。
私もそのようにふっと思うときがあります。
しかし、そんなときには、お尻のポケットをそっと触ります。
そこには、
いつ切られるか知れない「死のカード」が入っているからです。
そのカードを大事にしたいという思いでおさえてみるのです。
ここで答えを書こうとは考えません。
もっと皆さんからのご意見をお伺いして、
今後の作品選択を考えます。
どうぞよろしくお願い致します。







