西洋タンポポには片仮名で呼びかけ、
日本たんぽぽには「蒲公英さん」と声をかける。
神宮のいちょう並木では「公孫樹くん」と声をかけて見上げる。
同じ呼び名だが、文字をイメージするだけで何となく違って見えてくる。
この言葉には危うさを感じる。
「~」に入る言葉は、
あなたの、みんなの、子どもたちの、家族の・・・
ちょっと立場が違うと、
諸君の、国民の、国の・・・
大きくは、
世界の、宇宙の・・・
となるが、
至極身近なところでは、
やはり「あなた」「家族」じゃないかと思う。
ちょっと言いにくいのが「自分のため」かな?
ところが、自分のためにしていることを、
「ファンのため」
「チームのため」
或いは、
「お前たちのためにおれはやってんだ」
と言わんばかりの押しつけである。
本当は自分のためじゃないの?
おわりに・・・
「俳優の仕事は一生もの」
といわれるが、
そうできるかどうかは本人次第かも知れない。
誰にでも出来そうに思えて、
そう甘いもんじゃないってことは、
俳優を目指したことのある人なら
7~80%は感じているに違いない。
本当は限られた人にしか与えられないものなかもしれない。
「趣味でやっていられれば・・・」
と言われたり、
「好きな道を歩けて幸せ」
だと言われたりする。
が、
ほんとうは違う。
その仕事を好きになったのだと思う。
八百屋さんやクリーニング屋さん、
あるいは「この仕事、好きでやってます」
と言う人たちも同じじゃないかと・・・
「好きな仕事をしたい」と思う人は、
今の仕事を好きなればいいのだ。
これは俳優だろうが農業だろうが同じだろう。
私は山形の天童というところの生まれだが、
リンゴの作り方もサクランボの作り方も知らない。
「そんなの自然になるもんだろう」
と、今でも何処かにそんな思いがある。
が、実は絶え間ない研究と改良、
心をつくした努力がなければ、
いまのサクランボもリンゴもラ・フランス等もなかったのだ。
役者として活躍している多くの人たちも、
それと同じなのかもしれない。
一に努力、
二に努力、
三、四がなくて五に努力なのだそうである。
俳優(女優を含め)を目指している若者よ。
演劇に携わろうと考えている若者よ。
頑張らずに頑張ろう!
終わったァ!!
もう一歩先へ!
最近、
演劇仲間や、世話になった人たちの訃報が相次いだ。
数日前三浦光世さんが旅立った。
http://www.hyouten.com/oshirase/6285.html
更に前には同じ劇団だった米倉斉加年さんが亡くなった。
彼とはほんの数作品共にしただけだった。
「ヴィシーでの出来事」「ヴェニスの商人」くらいかな?
三浦光世さんは三浦綾子さんの夫君で、
綾子さんの生前は、作品の大半を口述筆記で支えた人だ。
いわば三浦綾子さんにとっては、
作品を世に出すうえで、
その存在は必要不可欠な人だった。
私たちの劇団では、
三浦綾子さんの作品を沢山上演している。
「母」は代表作でもあり、
ライフワーク作品として20回を越える公演を積んでいる。
今後も続けていこうと考えている。
こうして、関係する人々との別れに遭遇すると、
「自分はいつまでお芝居を続けていけるだろう」
と考えてしまう。
実に豊かな自分をつくってくれたと思う。
これから先、どれほどの時間が許されているかは判断できない。
劇団代表の三園ゆう子さんのような素晴らしい女優との出会いもあり、演劇を続けていられることに感謝したい。
来年の本公演は11月になるだろう。
その作品の脚色中だが、
戦国時代に生きた女性、
細川ガラシャを描いた三浦さんの作品・・・
いまだ取り組んだばかりで、
台本として完成するか問題だが、
三園さんを中心にした登場人物をそろえることも必要がある。
本音を漏らせば「大変だなァ」です。
このブログをご覧いただいた方で、
一緒にやってみようなどと思う人があれば最高です。
因みに、わが劇団はチケットノルマや上納金は一切ありません。
続く。
勉強!
俳優にとって学びは尽きることがない。
俳優人生の最後までつきまとうのが「勉強」だ。
俳優修業の基本は、人としての日々の生き方にある。
日常生活を役者として意識的に生きる・・・
街を歩く時も役者として歩く。
レストランで食事をする時も、
八百屋で買い物をする時も・・・
1時間の外出の中の15分でもいいのだ。
道端のタンポポを見るとき、
「蒲公英」として見てみるのも面白い。
イチョウの木を見上げて「公孫樹さん」と
挨拶を交わすのもいい。
近々、ワークショップを考えている。
冬の神宮外苑の公孫樹並木を歩きながらのレッスンや、国立競技場の解体作業を見ながらの発声訓練もいいかもしれない。
父や母を見つめ直し、兄弟や友人を角度を変えて見直すことがあってもいい。
また、自分をギリシャ時代の劇作家、ソフォクレスに仕立ててもいい。
自分の人生を逆さに立てて見つめるなんてのも面白いかもしれない。
ま、勉強と言いながら遊びのように思えるかもしれない。
それは「お遊び」ではない。
「ゆっくり道を行く」という意味でとらえたい。
実は、これが大切なのである。
続く。



