演劇人生 -19ページ目

演劇人生

今日を生きる!

総選挙が終わり、

「どうしてこんな結果に?」

と思った人が多かったようです。

過半数にも満たない得票率で大勝する選挙の仕組み自体が問題なんでしょうね。

あるところでは身の処し方も知らない人が堂々国会に戻って来る。

私たちの感覚とは間隔があり過ぎるように感じます。

そして・・・

「日本は何処に行くんでしょう」

という声を多く聞きますが同感です。

若い人たちが、

「選挙に関心持てないよ」

とおっしゃる気持ちもわからないではありません。

「変わらないんだもの」

そうですね。

でも投票率を考えれば、

棄権したり無視することは結果に出てきます。

いまの「どうにもならないね」という結果もその一つなのかもしれません。


なんとかしたい。


時々「次元が違うんだよ」という言葉を聞く。

こういう場合は、「どう次元が違うか」

付け加えて頂かないと意味が通じないように思います。

たまたま今日、「この人次元が違うんですよ」

という人がいましたので、ここで一言・・・


或いは、違うというその人自身が異次元の

人なのかもしれませんし、

こんなことを態々取り上げてブログネタにするわたしが

「次元が違う」と言われるかもしれません。


いずれにしても、

「はなはだしく考えが違う」とか、

「人智を超えたような」

「理解の範囲をはなはだしく超越している」

ことを指しての言い方だろうと思います。

が、自分の考えてとちょっとした違いにもいわれることがあります。

実際は異次元などというものではなく、

素直に、そういえばいいと思うのです。


「次元が違う」

と言った人に、

「どんな次元なんですか?」

と聞ければいいのですが、

ちゃんと答えてくれるでしょうか。


それを聞いて、

「それ、次元が違うとは言わないですよ」

なんて言おうものなら一発で毛嫌いされるような気がします。


いたくこの世は生きにくいとでもいうのでしょうか。

年寄りの集まりがありました。

お弁当のおかずはローストンカツ。

「ボリュームたっぷりね」

「たまにはトンカツもいいよ」

「わたしは昨日食べたばかり」

「じゃ、いらない?」

「ううん、肉は毎日でもいいもの」

「へぇ、丈夫な胃だね」

「そうなのよ」

こんなはなしが行き交う中、

やはり出るのが「あの人が~(どうの)」

「言うことが~(どうの)」

人をけなさないと一日が終わらない感じかなァ。

「いくら言っても変わらないわね」


そうですか。

だったら自分が変わればいい・・・

のだが、自分のことはからっきし見えていないようだ。

あっはっはっは・・・

「えっ、お前もそうだ?」

そう言われちゃうと二の句つけないです・・・

「残念ながら、今歯が一本抜けてまして・・・」

或る局からのオファだが断らざるを得なかった。

「いま直ぐ治すわけには行きませんか?」

「ドクターの関係で15日に入るんですが」

「何んとか交渉出来ませんか?」

医院に連絡してみたが、

最短で12日だと言われる。

収録は10日の今日からだから絶対的に間に合わない。


歯の大事さを今更ながら痛感する。


そうなのである・・・

あって当たり前、

いて当たり前の存在の大切さ・・・

それを噛み締めるいい機会でもありました。


一本の歯、

一本の髪の毛・・・等々であっても、

ほんとうの大切さは変わらないのかもしれません。



この挨拶(あいさつ)ってどんな意味があるのだろう。

「おはようございます」

「こんにちは」

「失礼します」

「お疲れさまでした」

等々数えきれないほど挨拶の言葉と言えるものがある。


挨拶の「挨」という文字も「拶」という文字も、

接近するとか迫まるという、すぐ傍に近づくこと、或いは接触する必要すらあるように思えます。

そうなると単なる「声かけ」ではない。

接近するという意味の二文字がご丁寧にくっついているわけですから、通りすがりに顔も適当に合わせて交わすような安易なものではないかもしれないのです。


本当の挨拶の意味を考えれば、

「挨拶した?」

と聞かれて、

「はい」

とは言い切れない内容に思えるのです。

体を接近させて、顔を近づけ、或いは腕などを組んで「おはようございます」と言うようなものが本当の挨拶の意味かも知れません。


国民性の違いかと思いますが、

アラブ系の人たちかと思いますが、

男性同士が手を取り合って話をしていたり、肩を組み合って歩いている姿を目にします。

日本人同士だと「もしかして・・・」と言われそうだが、あれが挨拶といえるような形なのかもしれない。


ま、そこまで行かなくても、カタチだけの挨拶でも、「挨拶もちゃんとやる」という、一種人の評価の基準になるのもどうかと思う。

何か犯罪を犯した人を「近所の人たちとあいさつを交わす人だった」にも関わらず・・・

というようなコメントは、何を意味しているのだろう。


今朝、地下鉄のエレベーターに乗ったが、

「開く」のボタンを押し続けて乗せた人が、「どうも」くらいあってもいいだろうと思ったが無言・・・一つ上の階で降りる時も当たり前のように無言・・・

こんな時は、カタチだけでもいいから「ありがとう」とか「どうも」とか、何かあってもいいだろうと思う。


こんなことをいうと、ドアの「開く」を押すくらいで「そんな要求するのかよ」ということになるのかもしれない。


さて、どうなのかなァ・・・