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演劇人生

今日を生きる!

毎週一回トレーニングをしているが、
数年前までできた動きが・・・
「う~ん!」
・・・とか、
「ふ~ッ!」
ついには、
「ヨイショ!」だの
「ドッコイショッ!」

だのと掛け声をかけても
動かないし曲がらないいし・・・。
やはり年には

勝てないのかなァ・・・


いつもは年齢など

忘れているものだから、
ショーウインドーに映った

自分の姿を見て、
「・・・お前は誰だッ!」
と言いたくなることもある。


若い諸君よ・・・
君たちにも、

いつかはこんな思いをする時が来る。
「いい男だねェ」とか言われても、
信じられなくなる時代が来るんです。


人は、生まれた時から、
死ぬ準備を始めます。
最初は無意識に・・・
でも青春時代を向かえ、
父や母の衰えを感じ始めると、
いずれ自分にも「このような時が来る」
・・と思うようになります。
そして、忘れていた、
限られた命のカードを見直すのです。
どんな元気な人でも、
若い人でも、
「限られた命」のカードを

何処かのポケットに
持って生きています。

ですから、いま現在、

身近にいる人に対する
愛を再確認したいと思います。

いて当たり前、あって当然という人や
ものを、もう一度見つめ直したい
・・・しみじみと思うのです。


若いっていいことなんです

その若さを
・・・上手く使えばの話しですが。むっビックリマーク


きょうは劇団代表の

三園さんも顔を出した。


現在4人だが充実したレッスンをしている。

発声体操と発声訓練。


ここで全員、

三園さんからキツ~イ指摘ショック!あせるを受けたが、

具体的だったこともあり、

くり返すとかなり修正されていた。ニコニコOK


そして、

「にんじん」

「ロミオとジュリエット」

の一節と、

ナレーションの稽古として、

「エド・マローとマッカーシズム」

を読んだ。


みな、

懸命に熱心に取り組んでいる。


次回から、

今日のプリントの「にんじん」の

セリフを入れてきて、

立ち稽古をする事にした。

三浦綾子作「母」を

次の公演作品にしたのには

理由があった。

脚色が充分ではなかったことと、

登場人物が多いので、

客演者を募らなければ

ならなかったことが挙げられる。


さて、

旗揚げ公演に選んだ

「雛」の原作を数人に読んでもらった。


「これは芝居にならないよ」

とか、

「いまどうしてこんな作品を?」

一緒に劇団を創立した

三園さんを除いて、

みんながこう言った。


「新世紀を迎える今だからこそ

 タイムリーな作品なんだよ」

・・・と言っても、

「そう?」

不信に満ちた表情しか返って来なかった。


某大学の芥川研究家など、

「雛って、どんな作品でしたか?」

「どうしてそんな無名の作品を?」

と来た。


脚色してみると公演時間が短すぎる。

止むを得ず、

芥川の「蜜柑」を同時上演する事にした。


そして劇場ロビーに

八畳間の茶席を設け、

享保雛や等身大の男雛、

女雛を飾りつけた。


オリベという劇場名に因んで、

古田織部の流れをくむ

桔梗会のメンバーに

茶を点ててもらうことにした。


来客全員にお薄と和菓子を提供しよう。

茶碗も織部焼きで

150客揃えてもらうことにした。


「画期的な観劇会」

「発掘された芥川の名作」

「このような劇団があったとは特筆に価する」

・・・等々、この上ない評価を頂いた。


・・・が、300万円を超す

赤字を背負ったのだった。


(続く)

「何とて我を」

田中正造という人物を

演劇するにあたって、

様々なものを読んで勉強したんでしょう・・・

と言われて、答えようがなかった。


現地に行ったり、知る人に話を聞いたり、

著書を読んだりしなければ

本が書けないわけではない。


歴史を、そのまま

舞台に上げるわけでもないし、

田中正造を蘇らせることが

演劇人の仕事でもない。


これが僕の考えで、

田中正造が

生きてしようとした事を

どれだけ理解するか・・・

或いは、理解しようとするか・・・

これこそ最も必要なことだと

ぼくは思っている。


「田中正造はそんなことを言っていない」

太田で公演する前に、

本を読んだという人に言われた。

「ぼくが言わせたんです」

「書き直した方がいい」

「分かりました」

・・・だが、そのまま公演した。


正造は、

村道で倒れ、

近くの家に運ばれた時、

持ち歩いていた信玄袋には

大日本帝国憲法と

聖書が入っていたそうである。


正造は、

死を迎える時、

道半ばで世を去らなければならないことを

嘆いたに違いない。

キリストですら、

十字架にかけられ、

「主よ、何とて我を召したもう也」

と語り掛けたようだが、

正造も同じ気持ではなかったかと、

題名を

「何とて我を」

にした。


キリストと同じように

自分も復活すると

信じていた節があるが、

その後の日本の歩みを見れば、

彼は復活してはいないようである。


(続く)

「ケイトンズヴィル事件の九人」

は終った。

「・・・で、有吉佐和子さんとは?」

よく聞かれる。

数年の付き合いはあったが、

大樹の陰では

上手く生きられない癖があるようで、

ミュージカル公演などを誘われたがお断りした。


その後、

世界で悪名をとどろかせていた海賊が

一人の少女に出会い、

美しさや悲しみを知ることで

良心に目覚めていく姿を描いた

「海賊オーロカーナの冒険」を上演。

大赤字をつくった。


青年劇場に

「ロミオとジュリエット」の大公役で客演したが、

劇団鬼の演を結成し、

山之内久氏の「若者たち」を公演。

劇団内の色恋沙汰で嫌気がさして退団。


・・・こんな回り道の後、

「表座ブロードウェイ」の

主宰者、三園ゆう子氏と会い、

今の劇団アドックを結成した。


その結成準備として、

足尾銅山の鉱毒と闘い抜いた

田中正造とその妻の夫婦婦愛を描いた

「何とて我を」を上演した。


そして2000年10月、

劇団アドックを結成した。

旗揚げ作品として、

三浦綾子作「母」と

芥川龍之介作「雛」の

二作が候補に上ったが、

後者に決めた。


(続く)