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演劇人生

今日を生きる!

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ぼくにはふるさとがある。
「祭りで必ず食べるもの」
・・・と聞かれると、
中学生まで過ごした
山形県天童で生活して頃を思い出す。

生活は貧しかった。
特に、小学生時代の貧困は
目に余るものだった。
これは我が家だけの問題ではない。
日本全部が貧しかったのだ。

・・・といっても、
幾ばくかの富める者はいた。
しかし、僕の周りはみな貧しかった。

この貧しさの中にあっても、
祭りには定番の料理があった。

いや、定番の料理がなければ、
祭りは
来なかったのかもしれないのだ。

さて、それは・・・
地元の言葉で「カラガイ」という。
「からかい」が訛って
「カラガイ」になったのか・・・
頴娃(エイ)の仲間、
赤頴娃(アカエイ)の
カラカラに乾燥させたものを
丸一日水にもどし、
4~5時間かけて
甘辛く煮込んだものなのだ。

美味い!

正月の納豆餅、
お盆のヌタ(ずんだ)餅、
その全てのイベントに
顔を出す料理でもある。

・・・といっても、
他県の紳士淑女諸君には
理解できないに違いない。

銀座一丁目に、
山形県の物産館がある。
(以前は霞ヶ関にあったのだが)

店舗内には必ずある。
「からかい」
とあって、
甘辛く煮たものと、
カラカラに乾いたものの
二種類があるはずだ。

出来れば購入して食べていただきたい。

様々な伝統が失われていく中で、
祭りの定番料理、
カラガイだけは、
食の伝統として、
いつまでも
残っていってもらいたいものである。
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6月に横浜開港150年祭に

演劇の上演で参加した。

海外との交流の中で、

得たものは多かったかもしれないが、

失ったものも多かったのではないか。


情報化とグローバル化の中で、

身近に氾濫する多くのものがある。


何を選択すればよいのか・・・

右往左往する自らの心を思うとき、

失いたくないものを

いま一度考えてみたいのだ。

その意味で、

殊に残りの半年間に何をするべきか・・・

これは大きな問題なのである。


劇団の

上演作品の年間計画を立てたい。

旗揚げした初年度から翌年まで計画を立てた。

3年目からそれも立てられなくなったのは、

赤字うめに必死になってからである。

旗揚げ公演で三桁の赤字を背負い、

第2作目でも同じく三桁の赤字・・・

こうなると年間計画は立てられなくなった。


しかし、経済的な理由で

劇団解散は絶対にしない。

この約束を、

ぼくと代表の間で交しているので、

何とか続けてきている。


演劇を手がけ、

演劇から様々なものを得ることが出来た。

これは生きる目的であり、

その中での生き方であった。

人の心に触れる仕事なのだ。

先人達の魂に触れる仕事だ。


この演劇にたずさわることで、

自らにも、

演劇に対する使命があるのだと

思うようになった。


チェーホフの「白鳥の歌」に、

「もうあの世に行く準備を

 始めなきゃあならねェ年頃なんだ」

というセリフがある。

だが、演劇の道を歩き始めた時から、

それは始まっているように思えるのだ。


どう生きるかは、

どう死ぬかに通じるのではないか・・・


昨年、

O・ヘンリーの

「最後のひと葉」を上演し、

今年、

横浜150で、芥川龍之介の

「雛」を上演した。

この中で、

人の命とはこういうものかもしれない、

人の思いとはこういうものかもしれない・・・


・・・ということをしみじみ味わう中に、

「まだ死ねない」

と思い、だったら、

「どう生きるか」

を再構築しなければと思った。


到達点は、

途方もない先なのだ。

おれはまだ、

山麓にたたずんだだけじゃないか・・・


・・・こんあ事を考えると、

下半期の計画どころか、

年間計画すら、

目先のことで悩む必要は

ないのかもしれない。


思い通りに生きよう・・・と思う。

それを目標にして・・・・ニコニコ!!

劇団といえば民藝だけしか知らなかったぼくには

全てが新鮮でした。

生活が苦しかったとはいえ、

安穏として俳優生活を送れたのは、

核の傘ならぬ老舗の傘の下、

(本当は)ぬるま湯につかっていた・・・

井の中の蛙とはよくいったものです。


こんなぼくに宇野さんは、

「いいか勉強を忘れるなよ」

を、何度言ってくれたか分からない。

稽古中にも2度3度は言われた。

散々文句を言って劇団を辞めたぼくにである。

「この人物は大きい」


劇団生活

しみじみと感じさせられた。


さて、初日が開くと予想を遥かに超えて、

毎日、

100人以上の方が札止めで入れなかった。

公演回数を急遽増やしたが

毎日100名近い人々を空振りさせてしまった。

追加公演をしよう・・・・


しかし、我々を除くほとんどの出演者に

そんなスケジュールの余裕はなかった。

一週間の公演期間を過ぎたら、

各自、それぞれの日程は

ぎゅうぎゅう詰めになっている。

大阪で、京都で・・・というリクエストにも

応えられない。


「惜しまれながら打ち上げる芝居に

参加できただけでも幸せなことだ」

宇野さん、滝沢さん、芦田さんと

役を分けあっていた伊藤雄之助さんが

ポツリと言った言葉だ。


演劇をやるなら、これだ・・・

今回は、

豪華な配役に刺激されての

続演希望かもしれない。


劇団生活寄せ書きの色紙(絵はぼく)

だったら無名の出演者でも、

内容がよければ・・・・


「いつか、そんな芝居をしたい」

宇野さんがいう、

「勉強しろ」

楽屋でも何度も繰り返してくれたのは、

このことを第一の課題とさせたかったのではあるまいか・・・

(続く)

充実しているはずの稽古にも、

時折不協和音が生まれたりする。

極、個人的な問題が稽古場に持ち込まれることに原因がある。

稽古後の麻雀に行くか行かないか等・・・

稽古場に秦野さんが顔を出すと、

稽古が終れば麻雀・・・・

といっても麻雀荘ではなく、

どこやらの料亭でだが、

ぼくはこういった付き合いが苦手で、

酒の席も好きではない。


当時、ぼくは所帯持ちでもあり、

連れ合いも女優だったので、

演劇に関する姿勢や、

日常生活と演劇に関するつながりの問題での

摩擦は多かった。


こんな時期に、

「道ありき」という本に、

キング牧師の著書を探しに行った図書館で出遭うことになった。

「・・・・・!!」

三浦綾子さんとの二度目の出会いだった。


演劇に個人的感情を持ち込むなんて

とんでもない傲慢だ・・・・


この作品をペラペラ走り読みしながらそれを感じた。

「帰りに本屋で買おう」

・・・と考えたが、

今は、「ケイトンズヴィル事件の九人」に集中しようと、

そのまま家に帰ったのだった。

ぼくはクリスチャンとの付き合いが多い。

また手がけた作品も何故かキリスト教との

つながりがあったりすることが多い。


劇団立ち上げ準備に書き下ろした

「何とて我を」

は、足尾銅山の公害を扱ったものだが、

主人公田中正造は、

木下尚江を通してキリスト教の影響を受け、

村道を歩いていて倒れた時、

彼がいつも持ち歩いていた信玄袋には、

大日本帝国憲法と聖書が入っていたらしい。


さて、

「ケイトンズヴィル事件」は、

「ケイトンズヴィル事件の九人」と題を変えて

上演することになった。


当時、新劇界を代表する劇団から数人ずつ

出演者を送り出し、新劇合同公演が行なわれていた。

が、自分の劇団が忙しくて、なかなか思うように

行かなずに困っていた時期である。

そこに、民藝、文学座、前進座、俳優座のおんたいが

揃い踏みするのである。

新劇界始まって以来という豪華顔ぶれだけに、

おおくのヤッカミも集中した。


だが、そんなことにはお構いなし、

ハードな稽古を重ねていった。


劇団生活
座談会で、左から宇野さん、秦野さん、

上智大学のジョセフ・ラブ神父、有吉さん


忙しいはずの宇野さんや滝沢さん、

緒形さん、杉村さん等も、

稽古を休む人はいなかった。


今の劇団では、

アルバイトだ、体調が悪い、寝坊した・・・・

などと平気で休む連中が多い。


この違いは何だろう・・・・

時代が変わったのだろうか。

だとすれば、

ぼくにとって、いまの演劇界は用なしだ。

うちの劇団だけなのだろうか・・・

いい加減にうんざりすることもある。

(続く)