番外54.磐女神社再考-磐女とは欽明后石姫だったのか? | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

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「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

福島県須賀川市の磐女神社を探検してから、すでに4年が経った。



須賀川市周辺は古代の岩背国であり、茨城県の裏筑波岩瀬との関連もあろうかと感じているのだけれど、

"番外44.源頼義系は欽明天皇系図を真似したかもしれない論"

わたしは相当にナルシストのようで、自分の記事を繰り返し読むのが好きなのだ。時が経ち、知見が広がるにつれて、ブログ開始当初の見当違いや考察の甘さを感じ、ひとり赤面することも少なくないのだが、おおよそ的外れは少ないと感じている。
あー、やっぱりナルシストだな😅

さて、欽明天皇と石姫皇后の子どもは3人いた。
箭田珠勝大兄皇子(やた の たまかつ の おおえ の みこ.八田王)
敏達天皇(他田オサダ王)
笠縫皇女(狭田毛皇)

「古代王朝の謎 書き下ろし長編歴史推理」より引用


欽明には他にもたくさんの子がいたらしい。蘇我氏の妃との間に、用明、崇峻、推古、間人、そして孫には実在したかどうか話題になる聖徳太子。
仏教伝来もこの時代だった。
欽明は飛鳥時代の最重要人物のひとりだろう。蘇我氏が権力を持つきっかけになっているように、系図からは読み取れる。

「花筐(はながたみ)継体王朝 その 19」から引用

蘇我氏は、栗本慎一郎によればスキタイ=サカ族であり、太陽とともにシリウスを奉斎する聖なる方位をもつ。彼らが作った都をア・スカ=飛鳥と推定した。

【聖方位とは】

真北から20度西に傾いた方向。紀元前500年ごろ、ペルセポリスの冬至の真夜中のシリウスが位置する方向


鹿島神宮の社殿はまさにその方向で建っている。
詳しくはこちら→


笠間市の佐白山にある佐志能神社も20°北西を向いてに建っている。
それと重要なのは、双分制をとっていたことである。それは簡単に言えば政教分離なのだが、政治と祭事の分離だとしたほうがより正確だ。
わたしは、さらにサブが必要だと考え、主要な系統を2系統にして新解釈系図を作るに至った。
つまり2組の夫婦の系統が列島の歴史の中心にいたと考えた。
そして、そこには近親婚はないものとした。なぜなら、何万年にもわたり継続してきた人類の歴史の中で、遺伝学的に異常な子が生まれることは知っていたはずだからだ。
だから、記紀神話の系図は創作に違いないと判断している。
ミトラを奉斎していたシュメールからの民族が列島の中心を担うようになったのだから、まず近親婚は相当な非常事態でなければありえない。
相当な、というのは火山噴火程度の災害ではなく、小惑星の衝突や大洪水以外にはないだろう。

さて、"番外44.源頼義系は欽明天皇系図を真似したかもしれない論"
を書いていて気づいたのだが、福島県福島市の信夫山の黒沼神社には石姫とその子の八田王の痕跡が残っていた。
参考→
蜂子皇子の概略をWikipediaから引用しておく。

蜂子皇子(Wikipediaから引用)
欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。
引用終了

蜂子皇子は崇峻天皇の子と伝わるらしい。
つまり、八田王の甥にあたる。

蜂子皇子は、三本足の烏=ヤタガラスに導かれ羽黒山に登り出羽三山を開いたと言われている。
まぁ、羽黒だから烏に導かれたことにしたのだろうが、面白い話ではある。

さて、下調べは終了した。そろそろ再考した磐女神社ついて記そう。
磐女神社は福島県須賀川市(旧長沼町)矢田野字岩ノ上に鎮座している。
矢田野である。岩の上である。
ここで八田王に関係すると勝手に解釈した、茨城県常陸大宮市八田のことを思い出していただこう。

"番外44.源頼義系は欽明天皇系図を真似したかもしれない論" 

から引用。
矢田部大別が尊崇したので、地名が上の里から矢田部に変わったようにとれる。
(南部の久慈川添いの上野地区と解釈できないこともないが、遷宮したとは書いてないから、場所はそのままで良いと思う。)
そして、矢田部→八田となった。
引用終了

では、磐女神社は八田王と関係があるのか?
関係があれば非常に面白い話になる。
磐女神社の祭神は、磐筒女と磐筒男であった。
百嶋系図では、磐筒女の別名はミズハノメであり、磐筒男とは豊玉彦だった。
ミズハノメとは水神であり、龍神である。
黒沼神社の由緒書には、

黒沼大神は昔福島の地が湖水であった時の水神といわれて、第十三代成務天皇の御代(約1750年前)

当所に祀られたと伝えられる、とあった。

つまり黒沼大神とはミズハノメだろう。

アメノウズメの母親である。

(父親はスサノオ)

われわれ的には奇稲田姫と同神となる。


磐は石で良いだろう。
またまた思い出して欲しい。
八田王の母親は石姫だった!
矢田野と石。
ものの見事に当てはまるではないか!
あともうひとつ、常陸大宮市八田は矢田だったが、その前は上の里だった。磐女神社の鎮座地は、矢田野岩ノ上だった。なんという偶然の一致なのだろう。地名の移動を考えない方が不思議だ。

Wikipediaには書いていなかったが、蜂子皇子の母親の名前は小手子(さてこ)と言った。
えっ?八田王の妹は狭田毛(さたけ)だったよね。
さてこ、と、さたけ。
たまたまなのか、作為的なのか、笑ったら良いのかわたしにははっきりとはしないが。

そして、磐筒男とは豊玉彦だから、ヤタガラスなのであった。
ヤタガラスは蜂子皇子を羽黒山に導いたとされる。

まぁいろいろと入り組んだ、蜂子皇子と八田王の関係ではあった。

こんなことをだ、江戸時代以降長い間研究してきたはずなのに指摘しないのは、なんでだろう?なんでだろう?なんでだなんでだろう?