157.黒沼神社探検記(福島県福島市御山堂殿) | 常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった

「まつろわぬ」というキーワードから常陸国の歴史を見つめなおします。常陸国は東海道の東のはずれ、鹿児島から始まる中央構造線の終点です。
神社探検の動画はこちら
→ https://youtu.be/8gVu8qGihD8

今回は福島県福島市信夫山山麓にある黒沼神社です。

 

延喜式内社であり、ここのほか市内松川町金沢と、松川町浅川にも同名の神社があり、すべてが比定社とされているようです。

 

 

主祭神は黒沼大神、配祀神は石姫皇后(欽明天皇の皇后)となっています。

神社に掲げてある説明書

 

注目する点を書き出します。

黒沼大神は昔福島の地が湖水であった時の水神といわれて、第十三代成務天皇の御代(約1750年前)当所に祀られたと伝えられる。

なお欽明天皇の皇后である石姫皇后はその第一皇子、八田王即渟仲倉太珠敷命(八田王すなわちぬなくらのふとたましきのみこと)と共に奥州に来られ当地に住まわれたので配祀神として合祀された(約1400年前)

 

信夫御山三社由緒

 

多少長いですが、興味深いことがいろいろと書いてあるので書き出してみます。

 

我が信夫御山三社由緒

信夫山は福福島よ、そこらここらに、黄金が湧く

信夫田からは、無限の福の、そこらこちらに、華が咲く信夫畑からは、無涯徳(はてなきとく)が、萌出ず、寿茂(ことぶきも)信夫山、西峯 お羽山には約二千年以前より大山祇神、大国主神、少那彦名神を斎祀す、此お社を、湯殿神社と号す。信夫山の東峯、羽黒峯には、是再(これまた)約二千年以前、稲倉魂神(うがのみたまのかみ)を斎祀す、此お社を羽黒神社と号す。何々山(なになにざん)と云う山号の無いのをご注目して下さい。是は我が国に佛教渡来以前の神社である事を証明して居ります。中に月山神社鎮座するのは、約千三百年前、欽明天皇、第一皇子、八田王、渟倉太命(ぬなくらふとのみこと)、信夫の里に御下向され我福島の里で御崩御され、皇子の奉持されし御鏡(みかがみ)を、月読命として御納めなされ、月山神社と号す。そして皇子の御霊(みたま)は羽黒神社に合祀する。

山下の黒沼神社は、・・・・・我信夫平野は千八百年以前は湖水であった、その節、お羽山の烏ヶ崎(からすがさき)より、お湯が湧出して居り、日本武尊エゾ御東征のり、伏拝(ふしおがみ)地内より御山羽黒神社、湯殿神社を伏拝まれたと申し、伏拝の地名残ると云傳える。日本武尊、お出でになられたのは、約千八百年前である。信夫山の蔭の本内地内に紀元二千六百年記念の年に。鎮座、千五百年祭を執行した、本内八幡神社がある。是でも、信夫山上の神社が古い事がうかがわれる。此湖が干上がった際、湖の主を黒沼大神として斎祀したのが黒沼神社と号し、約千七百五十年前の鎮座である。

欽明天皇、后、石姫皇后は、皇子渟倉太命、我福島に御下向の後、其のあとを追って皇后もお出でになり、福島でご崩御され、黒沼神社に合祀する。羽黒神社と黒沼神社の御紋はそれで、菊、桐の御紋章なのである。

 

八田王即渟仲倉太珠敷命とありますが、通説では兄弟であり、別人のようです。

  第一皇子:箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ、八田王) 

  第二皇子:渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)、のちの敏達天皇、別名他田大王)

そして、菊の紋章を天皇家が使い始めたのは、鎌倉時代に後鳥羽上皇からだとするのが通説です。

福島は南北朝時に南朝の北畠顕家が近くの霊山に本拠を置いているので、調べれば何らかの関係が浮かび上がってくるかもしれませんが、ここでは深入りしないでおきます。

とりあえず菊花紋は後付け(後鳥羽なのか南北朝なのか明治なのかは別として)ということで、お茶を濁します。

 


タケミヨリメは鬱色うつしこめ)であり、ヤマトトトヒモモソヒメ。心は謎であるか?(笑)

母親は若筒木蟹目雷王(わかつつきかにめいかづちおう)=ハエイロネだと推定します。

参考→120.神炊館神社探検記(福島県須賀川市諏訪町)

 

また古代史俯瞰 tokyo blog さんのHPより引用。

建許呂命

天津彦根命の十四世孫。成務天皇の時、石城國造となった。

また、建許呂命の六人の子も各国の国造となった。
意富鷲意彌命(師長國造)、大布日意彌命(須惠國造)、深河意彌命(馬来田國造)、 屋主刀禰(道奥菊
多國造)、宇佐比刀禰(道口岐閉國造)、建彌依米命(石背國造)。

また『先代旧事本紀』では「茨城國造の祖」とあり、筑紫刀禰(茨城國造)の父、あるいは祖と思われる。

 

本殿 神明造 千木はない。

 

神紋は五七桐と菊花紋

 

この地域は、上記で示した宮司の書いた看板や由緒書からは1800年前は湖だったと読み取れます。

例によってFLOOD MAPSで水面を上げてみましょう。

 

海水面+80m 福島盆地全体図

 

+80mにすると福島盆地はよい感じで湖になりました。

+80mにしたのは、下図中央下部の小田鹿島神社が気になったからです。

小田即ちWATERであるに違いないからですね(笑)

 

海水面+80m 福島盆地詳細図

 

小田鹿島神社のHPより引用

 

鎮座等については不明ですが、その昔、篠生(信夫)の郷がまだ湖沼だった時、僅かに水土に出ていた鹿島山丘上に常陸国鹿島神宮より蝦夷地経営のため、分祇勤請したと伝えられています。桓武天皇延暦元年凶賊を征伐する事を祈り、神験あるため勲五等及び本国の封に戸を授かりました。延喜式制定に当たり本社もその例に入ります。

後鳥羽天皇建久七年(一一九六)に暴風雨のため本殿が大破し再建され、後醍醐天皇の皇子義良親王の霊山入りに際し、当社に参詣し「延喜式鹿嶋神社」の石碑を建立奉納されました。その後、伊達家の崇敬篤く、天正七年(一五七九)太刀一口を奉献されました。また、光格天皇天明三年(一七八三)には御筆の額「鹿嶋神社」を賜り、文化四年には拝殿を改築し、文政七年(一八二四)京都吉田家より御鏡御幣を奉納され、同年現在の本殿を再建しました。その後、明治初年には雨覆を設け、昭和四十年屋根替・改修工事を行い、鎮座一千百年を記念し平成十三年九月には拝殿・幣殿を改築し、歴史の重みを感じさせる荘厳な社殿となりました。当社の位置は、古代の小倉郷の小さな丘上にあって、駅路に沿っており、中世には伊達家の家臣(十四代稙宗の重臣)の牧野家(後、社家丹治の祖)の住居する小倉館があり、別名「小倉鹿島神社」とも云われています。

 

あちゃー!

光圀さんの時代に吉田神道の洗礼を受けてしまっていましたね。もう全国的に唯一宗源吉田神道が一斉を風靡してしまったようです。

 

唯一宗源吉田神道とは?(wikiより引用)

吉田神道は、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派であるが、実際は吉田兼倶がほとんど一人で集成したと見られている。元本宗源神道、唯一宗源神道などを自称している。本地垂迹説である両部神道や山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。

『唯一神道名法要集』によれば、神道は本迹縁起神道、または社例縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられ、このうち第三の元本宗源神道は吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であるとする。同書によれば元本宗源神道とは「元とは陰陽不測の元元を明す。本とは一念未生の本本を明す。(中略)宗とは一気未分の元神を明す。源とは和光同塵の神化を明す。」ものであり、即ち「吾国開闢以来唯一神道是也」とする

 

吉田神道は、仏教・道教・儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる。吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけた。

 

これが水戸学の中心思想となります。即ち光圀は春日神社の祭神アメノコヤネを最高神としたことが伺われますし、茨城県城里町古内にある鹿島神社の由緒にあるように裏山にアメノコヤネがタケミカヅチの命によって降臨したことにつながってきます。そして江戸末期の桜田門外の変に当神社の鯉渕要人が参加しているのです。

 

光圀は藤原氏!

徳川の家紋は葵紋。根本は大中臣(おおなかとみ)である中臣烏賊津臣=ツヌガアラシト=崇神天皇は蔦葵を使ったから。

 

これにキリスト教を加えたら、いいとこ取りのミックス宗教、統一教会ですね。

仏教がメインだったら創価学会。(元寇の蒙古に遺恨を持つ)

神道がメインだったら大本教(うしとらの金神=国常立)-生長の家やワールドメイト。

これに大塔宮の東本願寺。

これらが日本会議の中枢です。

日本会議は明治政府に戻したい、古代から天皇制を捜索し操ってきた藤原(秦氏)系が裏に隠れて、満蒙済州島閨閥の朝鮮民族を表に出した組織ですから、なかなか簡単にまとまるものではないでしょう。

なにしろ平和が嫌いな勢力ですから。

 

それから、こちらの由緒にも湖沼だったことがしっかりと書かれています。

そして信夫篠生と表記されていることも注目に値します。

篠は信濃、品、科に通じます。シノコとはスサノヲの子、辛国息長大姫大目姫、すなわちアメノウヅメのことです。われわれはさらにコノハナサクヤヒメであろうと推定しています。

竹取物語のかぐや姫はコノハナサクヤヒメですから、竹=篠であるのですね(笑)

そして彼女の夫はタケミカヅチ。この地に鹿島神社が多いことには何の違和感も覚えません。

まさにど真ん中!

 

合言葉はGBMK!

Go Beyond the Momoshima’s&Kashima’s works.

百嶋由一郎先生の講演会CD、資料、神代系図を入用の方は、常陸国ふしぎ探検隊河野克典まで。

メール k_kplanning @yahoo.co.jp

 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ    一日一回クリックをお願いいたします。