『ミリンダ王の問い』を読んだ | Talking with Angels 天使像と石棺仏と古典文献: 写真家、作家 岩谷薫

『ミリンダ王の問い』を読んだ

ミリンダ王の問い 備忘録のような記事。
 三島由紀夫さんが『暁の寺』で紹介していた本です。

 ギリシア哲学代表のミリンダ王と、仏教代表のナーガセーナの問答集。紀元前1世紀頃の仏典。

 なぜ輪廻があるか、それは、植物の種から実になり、実から再び種になるサイクルと同じ。とナーガセーナ。

 三島由紀夫さんは、地球の自転が自ら感じられないように、輪廻は存在するのかもと書いています。

 ナーガセーナは仏教僧なのでアートマン(我)すらも否定しますが、輪廻を肯定するかぎり、我は多少、肯定しないと矛盾が生じる印象がある本。
 (三島さんもこの我と無の間で悩んだのではないでしょうか。)

 ナーガセーナは、輪廻の主体が転位しない理由に(彼は我や魂の存在を否定するから)

 一つの灯火が他の灯火に移った時、灯火の主体が転輪したと言えますか?
 という比喩を持ち出し、ミリンダ王が「言えません」と答えると
 輪廻もまたかくのごとくだと、答えます。
 しかし、私にとっては、詭弁とは言い過ぎですが、ちょっとムリがあるような……

 勿論、初期仏教は我さえも否定して、全てを無と捉えることはマクロな視点だと納得のいくことですが、我がそのまま転位したような輪廻の事象例をみると、ミクロな視点だと、魂や我は幾代かは存在するような気がします。あるいは、存在する場合もあると言った方が正しいのでしょうか。

 我がそのまま転位したような輪廻の事象は中国怪談にも多数書かれていますし、日本の昔話にも目立ちませんが割とあります。また現代の報告にも多数ありますよね。

 ちょっと同情して笑ってしまったのは、はじめのナーガセーナの前世の話。天界に居たナーガセーナは天帝に、「お前、人間界に降りて、ギリシア哲学でブイブイ言わせているミリンダ王を論破してこい!」と言われます。 それにナーガセーナの前世はこう答えます。

 「私は業に満ちた人間界を望みません。人間界は苦痛のところです。私はさらに上界に生まれ変わって、まっとうしたいのです。」

 この気持ちわかるなぁ~笑。 その望みもむなしく、人間界に再び生まれ変わってしまうのです。 『新釈 中国古典怪談』でも少し紹介しましたが、「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)ですね。(論破せよ!なんて「執着」している天帝も天帝ね…と言えなくもないですが。笑)

 これは今更ですが、ナーガセーナも輪廻から解脱したければ執着を捨てよといっています。 ただ、執着があるから人生は面白いとも言えなくもないので難しいところですね。執着がないとドラマは生まれませんし。
 ただ、執着の少ない生き方として、インディアンアイヌピートング・ルアング族サモア、アボリジニその他、主に欧米文化に滅ぼされてしまった多くの貴重な民族が居たと思うのです。
 特にインディアンは、キリスト教や欧米文化の横暴さを誠実に見抜いていました。
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