これまでの『滋賀京都の旅日記』は
01 多賀大社 旅の始まり
02 宝厳寺〜都久夫須麻神社
03 石山寺〜本来のわらび餅
05 日吉大社でご挨拶
06 無動寺にたどり着くまで
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比叡山の無動寺で
大阿闍梨様の行う護摩供に参加した際、
信者さんは
有難いわよねぇ、ほんと有難い
と仰っていました。
阿闍梨様は
過酷な修行でも
自分のことだけ考えれば良いから楽なのです
と仰っていた。
私はこの言葉がすごく印象的でした。
なぜなら私は
自分のことに集中したいって
今年は思ってたから。
この言葉を聞いて、
私は今、
自分のための修行中なんだなって思いました。
だから今は
自分のことを沢山やっておこう![]()
その時間をもらえているって
すごく有難い
事だから。
私の場合は
自分がやりたいことをやって、
その結果、周りの人に喜んでもらえたら幸せ
っていうスタンスなので
仏様の領域までは全然及ばないけど、
人間のうちはそれで良いかなって思う。
![]()
千日回峰行を満行された後、
阿闍梨様は他者のために
働いていらっしゃる。
私はこの日から3日ほど
有り難みってなんなんだろうって
想いを馳せていたのですが
そのたびに
なぜか涙がツーッと溢れて来る。
理由がわからない。
でも、自分の過去生のことに関係してる気もする。
延暦寺の
お寺の信者さんにとって
何が有難いかといえば
お寺の中でも
トップ中のトップまで上り詰めた
阿闍梨様が
自分たちのために毎日働いてくれて
お食事や法話まで聞かせていただける、
接することができる
ということなんじゃないかと思いました。
だって![]()
もしかしたら
阿闍梨様はそんなことしなくても良いのかもしれないもの。
もちろん、仏教の世界で仏様って
人々を救済する為に
日夜働いてくださる、
守ってくださるってことだけれど
その仏のためにお経を唱えて
大きな行事の時に
民衆の前に出て来るだけでも良いのかもしれない。
それなのに、
毎日利他のために護摩を焚いて
御経を唱えてくれる。
生き仏と呼ばれる人が
自分たちと同じ目線で話をしてくれる、接してくれる。
そういうことなのかもなぁ
と思いました。
旅に行く前は
比叡山に入ったら
ゆっくり呼吸法でもやろうと考えていたのに
ここまで毎日歩きまくり、
歩く修行か?
と
愚痴をこぼす私だったものの
無動寺までの道のり(山の坂道)を考えると
毎日歩く行程になっていたのは
この無動寺に行くための
準備運動だったのでは?![]()
と、ようやく
ここで気づいた
のでした。
いきなり比叡山に入ってたら
普段歩かない私は
無動寺に行かなかったかも。
でも連日歩いていたおかげで
無動寺からの帰りの登り道も
ちゃんと帰ってこれました。
しかも、
思っていたほど苦じゃなくて
自分でもびっくり。
本当に、この世界はうまくできてる。
必要なものがちゃんと与えられる。
頭で考えると、
その時は理解できないことも、
後から振り返れば、
腑に落ちることばかり。
やっぱり魂(の計らい)には敵わない。
そして
やっぱり宇宙ってすごいのね
無動寺に行く前、
ノートに書いてたのです。
『目からウロコ』のことを言ってくれる人に会わせて〜
と。
その結果、
無動寺で
このお話を聞いたときに、
あ![]()
![]()
と思いました。
そんなわけで
今回の無動寺での出来事に
すっかり満足してしまい、
比叡山の一番離れたエリア、横川には行かなかった。
せわしなく
横川に行くのもちょっと違うかな
次回の目的の為にとっておこうと
決めました。

