吉本隆明もこういう死に方に惹かれただろうか。

 

 

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「西行論」の冒頭から『撰集抄』についてかなりのページを割いている。

 

(一部抜粋)

ある時草花が咲乱れている野原や、山陰に、小さな庵をみつけ、そこに人の気配がしたとすれば、それは、かつて随身の武者だったり、在家の人だったものが、じぶんで「もとどり」を切って身をかくした遁世者の後の姿である。

 

そしてある時、ふと庵だけあって人の気配がなくなっているとすれば、庵の主は、眠るようにそのあたりで倒れ朽ちている。

 

虚構の西行が、行脚の途中で、このような遁世者に無量の敬慕の情を寄せる。

 

こういう話を集めた『撰集抄』の著者は本当は不明だが、これが西行の著作として世に出ている。こういう生きざまに憧憬する存在として、西行像がつくられた。

西行は、まさにそれにふさわしい唯一の人物して、近世まで信じられていたようだ。

 

 

 

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”ねかはくは花の下にて春しなんそのきさらきのもちつきのころ”

 

西行は、漠然と”そのころ”に死にたいわけではなかった、はずだと吉本隆明は言う。

 

(抜粋)

具体的に桜の花の盛りのとき、その木の下で息を閉じることができたらなあという願望の歌だと解した。

 

当時の無名のラヂカルな出家遁世の人たちにとって、山野の奥にわけ入り、食を衰えさせ、途絶させるようにして、そのまま浄土に突入してしまうのは、理想の死とされていた。

 

無名の後世者の死にかたにあやかりたいものだという西行の願望を詠んでいるのではないか

 

桜の木の下での即身成仏の死にざまのそうとうきびしい雰囲気を、どこかに含んだ歌だということになる。

 

 

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実際は、西行はこういう生き方も死に方もできなかった。

出家はしたが、庵でひっそりと暮らしていたわけでもなかったし、まして、ひっそりと黙って死ぬわけにはいかなかった。

”そのころ”に死んだことを世間が知ることで、歌人としての”西行”を完璧なものにしたかった。

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西行にとって、「花」は浄土の花であり、それが西行にとって「桜の花」に変幻していったのだろうという。

 

 

”ほとけにはさくらの花をたてまつる わがのちのよを人ととぶらはば”

 

仏国土を桜の花で満たしてくれ、じぶんも後の世ではそこに住んでいるのだから、という意味にほかならなかった。そうかんがえたとき西行の偏執とでも云いたいような桜の花への固執が、謎のように解けてくる気がする。(抜粋)

 

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西行の出家の理由は、明確にはわかっていない。

西行はそういう記述を残していない。残しているのは、歌、のみだ。

そこから推測されていくのだが、歌は歌で、事実ばかりを詠っているわけでもない。

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その頃の歌は、現在の人たちが考えているよりも、はるかに、政治儀礼的であり、イデオロギー的な用具だったようだ、という。

 

 

”そらになる心は春のかすみにて よにあらじともおもひたつ哉”

 

これは平易な有心の歌であって、同時代の歌人にはこの下句は、気はずかしい感じで詠めなかったものだ。西行はそんな言葉を平気で使い、しかも歌人たちにはとてもできない。湧き上がる気分を云いあらわし得ている。それだけではない。「よにあらじ」という出家の感覚を、暗い無常の情念から、何やら漠然とした明るい決心のようなものに変えている。(抜粋)

 

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その頃に平常な言葉でさらりと「心」を詠む。

「心」はそこから読む人の心の奥に広がっていく。

当時、革命的なことだった、ようだ。

 

 

 

著書:吉本隆明全集21 1984-1987

■「西行論」p287-p474

Ⅰ僧形論(『海』1976/5~8掲載)

Ⅱ武門論(『海』1976/9~11掲載)

Ⅲ歌人論(『短歌』1986/1、1986/4掲載(「西行歌における劇」「西行歌における劇PARTⅡ」として))(「心」「世」「花」「月」は1987/10『吉本隆明全集撰6』収録)

■「西行の歌」P475-P477(『三田文学』1987/11掲載)

■「西行論について」p478-p480(『西行論』1990/2掲載)

 

 

著者:吉本隆明

発行:晶文社 2020/1/5初版