本著から離れてしまうのだが、

 

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後白河法皇の「今様狂い」が、おもしろい。

 

 

自分が天皇になるなど思ってもなかった後白河法皇は、10歳の頃から今様に熱中していて、3度も喉をつぶしたほどだった。

そして好奇心も強く、巫女、舞人、猿楽、銅細工など官位身分の低い者をそば近くに置いていた。

 

 

兄の崇徳天皇からは、「文にも武にもあらず。能もなく芸もなし」と言われ、

父の鳥羽天皇からは、「即位の器量ではない」と罵られ、

側近の信西(藤原通憲)からは、「和漢の間、比類少きの暗主」と酷評されている。

 

 

しかし、いろいろあり、1154年、29歳で、天皇となる。

そしてさらにいろいろあり、頼朝からは、「日本一の大天狗」と呼ばれた。

 

 

今様に夢中になったきっかけは、母親の待賢門院の影響とも言われている。

白河法皇が今様が好きで、養女だった待賢門院も、和歌はせず、今様に親しんでいたという。

 

 

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西行の母方の祖父の源清経の「今様狂い」も負けずとおもしろい。

 

 

清経は文武に長けていて、蹴鞠の名手と有名だったが、今様の達人でもあった。

 

清経は専らプロデューサーのようなことをしていたというが、

今様の歌い手としてもかなりなものだったようだ。

才能のある若い傀儡たちを弟子にしてスパルタで今様を仕込んだ。

目井もその一人であった。

 

清経が尾張の国に出向いた際、宿泊した青墓宿(岐阜大垣)で、目井に伴われて歌った12~13歳の傀儡の乙前の声があまりにも美しかったため、いっしょに上京させた。

そして目井の養女とする。

 

 

明けても暮れても…本当に夜中過ぎて明け方まで延々と歌わせている。

あんまりにも非常識だと、同居していた乙前が抗議するが、

「若いときはいいが、年老いて容貌が衰えたら誰も目にかけてくれなくなる。その時に歌の実力があれば、聞いてみたい、教えてもらいたいと、声をかけてくれることもあるだろう」と言ったいう。

”口伝”しか方法はないので、弟子たちも、眠気覚ましに夜中に水を浴びたり、まつげを抜いたりして、眠気と闘いながら、必死で歌っていた。

 

のちのち清経から、今までお前の面倒を見てきた代わりに、乙前に正統の弟子として今様を教えるように、と言われ、目井は乙前を相伝の弟子とした。

 

 

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清経の言う通り、今様を聞きたいからと、乙前は後白河法皇に呼ばれる。

乙前は70歳を過ぎていた。

呼び出しを受けた際、乙前は「引退して久しいので。年をとって見苦しいので」と断っていたが、再三の催促で受けた。

 

そして乙前の歌こそ目井の正調を受け継ぐものだと高く評価し、師弟の縁を結ぶ。

今までの歌い方でも乙前の歌い方と違っていれば、乙前のとおりに直した。

乙前のいう事をすべて信用していたという。

傀儡の歌い手を師と仰ぐ。

 

師弟関係は十数年に及び、乙前は84歳で病死した。

病床にあると聞き見舞いに訪れた後白河法皇は、法華経を読み、更に今様を歌った。薬師如来を賛嘆するもので、かつて清経が危篤に陥った時、目井が歌ったという、乙前にとって思い出深いものだった。

 

読経供養は一周忌まで続き、一周忌には乙前にはお経よりも今様の方が喜ぶだろうと、習った限りの今様を夜通し歌い続けた。その後も命日には欠かさず今様を歌って供養した。

 

 

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清経は、目井の師であり愛人でありパトロンでもあった。

 

そしてどんなに今様が好きだったかというエピソードとして、

 

性愛の情が冷めて、疎ましく思い、わざと背中を向けて寝たふりをするのだが、その背中に目井のまつげがまばたきして触っただけでも、鳥肌が立つほどぞっとしたという。

それでも目井の歌は素晴らしかったようで、手を切らず、晩年尼になって死ぬまで、食い扶持を与え、面倒をみたという。

 

 

これを目井の弟子で養女でもあった乙前が、後白河法皇に話したという。

それをそのまま「梁塵秘抄口伝集」に書き残している。

 

 

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8歳で父親を亡くした西行は、母方の実家で育ち、祖父の影響を多大に受けていたと想像される。西行も蹴鞠の名手だった。ただ、今様への関りは記載がなくわからない。

 

 

 

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(参考として:後白河法皇について)


いろいろあったあと、1154年、29歳で、天皇となる。

 

 

1154年 天皇に即位し、後白河天皇となる

1155年 父の鳥羽天皇が亡くなり、保元の乱が起こり、兄の崇徳天皇と争う

1156年 保元の乱に勝利 平清盛と源義朝は後白河天皇側についていた

1158年 二条天皇(養子に出した実子・長男)に譲位し、後白河院として院政を開始する

1159年 平治の乱が起こる 冷遇していた源義朝から後白河上皇は幽閉される

その後、清盛によって源氏は敗退し、清盛による平氏政権が樹立する

 

ちなみに保元・平治の乱の実の権力者である信西はこの乱で自害する。55歳だった。

信西の2人目の妻の藤原朝子は、後白河天皇の乳母に選ばれている。

後白河法皇は今様に夢中なので、政治はほぼ信西に任せていた。

後白河法皇の息子たちは、二条天皇の側近となっている。

甘い蜜と権力の独り占め…

これが実は逆で、今まで特権として利益を享受してきた人々には不満があがったが、民衆からはとても評判がよく、信西の死を多くの民が悲しんだという話もある。

 

 

1164年 二条天皇が亡くなる 朝廷内に敵がいなくなったため本格的に院政を始める

1169年 出家し、後白河法皇となる

1179年 清盛を怒らせ後白河法皇は幽閉される 清盛により院政の実権を握られる

1180年 高倉上皇、翌年清盛が相次いで病死する 再び後白河法皇は院政を再開する

1183年 木曽義仲への裏切り行為により後白河法皇は幽閉されるが、翌年義仲は敗死

1185年 壇ノ浦の戦いにより平家が滅び、源氏による鎌倉幕府確立

1190年 後白河法皇は、頼朝と対面し、権大納言・右近衛大将に任命するが、征夷大将軍に任命することは頑なに拒んだ

1192年 糖尿病で亡くなる(66歳)

この4ヶ月後、頼朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が完成する

 

 

狡猾で、一筋縄ではいかなかった後白河法皇は、頼朝からは、

「日本一の大天狗」と呼ばれた。

 

 

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この混乱する時代に34年の間権力を握り続けた後白河法皇に対して誰も「魅力があった」とか「能力があった」とか言っていないところがおもしろい。

 

 

 

その後白河法皇の、付かず離れずの近いところに、西行もいた。

 


 

 

 

 

著書:「今様」

著者:植木朝子

発行:笠間書院 2011年初版