●東南隅櫓 重文
●東大手門 重文。1626年創建、1662年改修。
後水尾天皇行幸の際は二階がなく、その後二階が作られたようです。
二条城は1603年に徳川家康によって、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城されました。
二の丸御殿に狩野探幽らの豪華障壁画が入れられるなど大改修されたのが3代将軍・家光の時。1626年の後水尾天皇行幸の為であったそうです。1867年には15代・慶喜が二の丸御殿で「大政奉還」の意思を表明したのがあまりにも有名です。
「元離宮」とあるのは明治維新後は離宮、迎賓館として使われていたため。
国宝、重文、世界遺産に指定されています。
かつては伏見城から移された五重六階の天守閣がありましたが1750年に落雷で焼失、石垣のみが残っています。
#天守閣がない御殿(平屋の居住空間)が2つと庭園2つが残るお城
本丸御殿は修理工事中の為、二の丸御殿と庭園を見学しました。
●唐門 重文、1625年創建。
奥に見えるのが二の丸御殿。
●二の丸御殿 国宝。1603年創建、1626年改修。
障壁画は狩野派によって描かれた。2000面以上が現存、1016面が重文。
二の丸御殿の障壁画は全て複製に置き換わっていますが、往時の華やかさを偲ぶことができます。
全ての部屋ではありませんが、障壁画の上の長押の上の空間にも絵が描かれていて、スケールが大きい。また、欄間の彫刻が表と裏で違うなど、豪華絢爛。天井まで装飾がびっちりです。至るところに豪華な釘隠・長押金具があり、目眩がしそうでした。
御殿の中は、入口から奥へと「遠待」「式台」「大広間」「蘇鉄の間」「黒書院」「白書院」と分かれています。
「遠待」は武家が控える場所なので、見張るかのように😅虎がぐるりと広間を囲みます。金がふんだんに使われ、派手で威圧的。
「式台」は老中などが使う内向きの部屋で、やや簡素。とはいえ、十分に豪華です。
「大広間」は将軍家の威信をかけて、華やかで過剰なぐらいの装飾。狩野探幽の立派な松の絵が武家らしい。
「黒書院」は徳川家に近い武家の為の部屋で、探幽の弟・尚信の絵は華やかだけれども堅苦しくはない感じ。
「白書院」はプライベート空間で、水墨画。ぎらぎらした障壁画ではリラックスできないですもんね。
部屋ごとに全く雰囲気が違うのが面白かったです。武家向けの部屋は上に書いたとおりだったのですが、大広間以外の公家向けの部屋は優美な雰囲気だったのも興味深かったです。
#現在、大広間一の間の狩野探幽の障壁画を「二条城障壁画 展示収蔵館」にて展示中
素敵な庭園でした。1626年に小堀遠州によって改修されたものです。それ以降も何回か大幅な改修が行われたよう。岩をダイナミックに使っているのが武家らしくカッコよかったです。
●本丸櫓門 重文、1626年頃。
後水尾天皇行幸の際は二階橋で、二の丸御殿から橋の二階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれたそう。
#二の丸御殿から本丸御殿が繋がっていたということ?
#すごいですね😳
●本丸庭園と本丸御殿
明治天皇が自ら指示を出して造らせた庭で、1896年に完成したもの。
●本丸御殿 1894年、重文
1788年に焼失した後、徳川慶喜により御殿が建てられたが、1881年頃取り壊された。
現在の御殿は、桂宮家が京都御所の北に建てた御殿の主要部を、1894年に移築したもの。
●天守閣跡から本丸御殿を望む
後水尾天皇は天守閣に二度登られたそうです。
●土蔵 重文、1626年頃。
●清流園
二条城創建時は天守閣の一部があった場所。大正期には饗宴施設等があったそうです。
●台所/御清所 重文、1626年頃
久々に訪れてみると、自分なりに色んな発見がありますね。楽しかったです。
📝二の丸御殿
・遠待→二条城へ来た人が控える場所。
・式台→ 将軍への用件や献上物を取次ぐ場所。裏は老中の間。
・大広間→将軍と大名や公卿衆との公式の対面所。
・黒書院→ 大広間に次ぐ公式の場。将軍と徳川家に近しい大名や高位の公家などが対面した。
・白書院→ 将軍の居間と寝室だと考えられている。