#673 東電PG美浜線/浦安東線 ~圧巻のモノポール隊列~ | 関東土木保安協会

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天気も良い連休、千葉県は浦安市へ行ってきました。
ここでは、美化鉄塔が一列に並んだ姿を拝むことができるとのことで、早速彼らの美しい隊列を楽しむこととしましょう。
 
 
浦安市の海沿い。
東京ディズニーリゾート至近のエリアとして、宿泊施設なども建設されています。
このエリアに直線状にルートを構えているのが、今回訪れた送電線になります。
浦安東線、美浜連絡線、美浜線、舞浜線の3つからなるこれら鉄塔群を見ていきます。
 
葛南変電所より猫実川沿いに一直線でやってくる浦安南線。
そのライン取りは、埋立地という人工的な立地の産物ともいえます。
このうち、数本が美化鉄塔になっています。 
No.7は美化鉄塔で2回線を地中へ引き下ろす構造になっています。
 
▲浦安東線No.7(1982/5,51m)
 
下写真が拡大ですが、この送電線はここで潜った浦安東線と写真手前方の美浜連絡線とでジャンパが未接続となっています。
地中へ潜った浦安東線は浦安変電所へ続くとみられ、浦安変電所から出てきた送電線が美浜線としてこの後ルート上に現れます。
 
▲手前の美浜連絡線方はジャンパ開放となる
 
電力を無くした送電線は、美浜連絡線と名を変え、また直線的なルートを求めます。
これら送電線ですが、浦安東線から美浜線までは1970年頃の航空写真にてその存在が確認できました。 
多くが1982年の表記だったので、てっきり某夢の国関連で立派に建てたのかと思っていましたが、ルーツは1970年頃の一帯の埋立、造成まで遡るようで、建設後半世紀も経つ送電線ルートになっているようです。
 
▲美浜連絡線No.1(1982/5,45m)
 
スマートなモノポールのNo.1から、角度鉄塔でガッチリとしたNo.2になります。
この箇所も1970年代の建設当初は海岸ギリギリに立つ鉄塔だったようです。
この鉄塔も1982年の同時期の建て替えです。
段違いの角度鉄塔になったのは、それこそ後々完成する浦安変電所への分岐を考慮していたのではないか?とも思いますが、結果そちらへは地中引き込みとなっています。
 
▲美浜連絡線No.2(1982/5,46m)
 
美浜連絡線は、建て替え当初は美浜線と言う名前だったのでしょう。
現在では引き込み鉄塔の間の区間でジャンパ開放の処置がされ完全に遊休設備となっています。 
 
美浜連絡線は僅か2基でその名を終え、次から美浜線と名乗ります。
美浜線は下写真の右手前の鉄塔がNo.1となり、写真奥の西方面へ迷いのない直線ルートを描き再び進み始めます。 
 
▲美浜線No.1(1990/6,44m)
 
この美浜線No.1も引き下ろし鉄塔です。
この鉄塔でも美浜連絡線はジャンパが切られ、立ち上がった美浜線が写真奥の美浜変電所まで繋がっています。
ではこの送電線は浦安東線で潜った電線路をそのまま引き上げているのかというと、名称が異なっていることからも明らかで、このNo.1鉄塔のすぐ道路向かいにある東京電力のビルと地中で接続してるようです。
線路名が異なるというと変電所があったりと何かしら施設や需要家を挟んでいるからなのですが、このビルは旧東京電力の窓口があった営業所のようです。
鉄塔建設年より、1990年頃にこのビルと地中線が工事されていたとして、その当時の航空写真を見てみたところ、1989年の記録でこのビルと地下の特高線埋設工事、現美浜線1号の建替前鉄塔とその周辺での地下の工事までがはっきりと記録されていました。
なるほど。美浜線No.1と東電営業所はしっかりつながっているのがわかりますね。
営業所ビルなど自社建屋内に変電所を設ける例はありますので、この地下に浦安変電所が設置されているのでしょうね。
 
▲国土地理院航空写真(1989)
 
ここでおかしいことに気づきます。
美浜連絡線はジャンパ開放のため、浦安東線~浦安(変)~美浜線のルートができていると想像しますが、浦安東線No.7は1982年の竣工で、浦安変電所は美浜線No.1のプレートや上の航空写真より1990年頃の竣工とみられます。
この約8年間は、浦安東線No.7~美浜連絡線~美浜線No.1の区間は美浜線として1本で繋がっていたのだと考えられるのですが、では現浦安東線No.7の引き下ろし先はどうなっていたのでしょうか。
①引き下ろし設備は準備されていただけ
②引き下ろし設備を用いて地中線が出ていた
もし①であれば話は終わるのですが、②であった場合、どこか別の需要家があったのではないか、と想像してしまいます。
というのも、電線路途中の変電所に供給する際に鉄塔上でT分岐するだけで済ませられるものを、僅か2基の区間を地中線として変電所まで接続する今の状況に至る必要性があまり考えられず、この推測になります。
そうであれば、1980年代後半に浦安変電所を建設する際に、その需要家等から浦安変電所に接続していたのではないでしょうか
浦安変電所ができるまでの8年間、浦安東線の線路名やNo.7の地中線受電端が何であったか、気になるところです。
 
▲鉄塔沿いの広大な空間は全て道路用地のようだ
 
話が脱線しました。
さて、美浜線No.1の写真の構図を少し引いて見てみます。
広い道路の脇にさらに空地が広がっています。
鉄道でも建設するのか、という話なのですが、どうやら過去の国交省などの資料を見る限りでは、これが計画止まりとなっている第二湾岸道路の用地のようです。
文末にこの道路を環境保護のために長年反対してきた日本湿地ネットワークの方々のサイトリンクを載せています。
この道路の計画も古く、1970年代にこの周辺が造成された際に既に計画があったのでしょう。
8車線分といわれる幅広の空間は、現在でも何も建設されることなく、整然と並ぶ無機質な鋼管柱群と合わさって、非日常的な無機質な雰囲気を醸し出しています。
うーんエモーショナル。
 
▲手前側のジャンパが開放されているのがわかる
 
浦安変電所への疑問を抱きつつ、先に進みます。
美化鉄塔は鋼管柱で、溶接ではなくフランジ接合されています。
多くがV吊懸垂のようです。
白色の塗装と合わせて、爽やかな海沿いの風景にマッチしています。
 
▲美浜線No.6(1982/5,44m)
 
美浜連絡線で触れましたが、この送電線は元々海岸沿いの送電線だったようで、第二湾岸用地以南は全て海でした。
それが1970年代で、その後80年代にかけ大規模に埋立を行い、東電営業所らがある区画が造成されたようです。
この一直線のルートも、道路に沿っているからといえばそうなのですが、元々人工的に造られた海岸線に沿っているためこんな風景が生まれたのですね。 
 
▲一直線に何本もの鋼管が並ぶ
 
海沿いの一直線というと、神栖のエヌケーケー条鋼線があったところなどを思い浮かべます。
海沿いに沿って経つ送電線。
エモーショナルな風景ですが、実態は塩害対策が大変そうです。
 
▲美浜線No.7(1982/5,37m)
 
上写真は隣のNo.7の鉄塔で、耐張鉄塔だとこんな感じです。
私は耐張派なのでこっちの方がお気に入りですね笑。
 
そうこうして眺めつつ、美浜線の最終鉄塔No.9までやってきました。
ここで美浜変電所に2回線を引き込み、美浜線は次の舞浜線へとバトンタッチします。
線路方向への腕金を持つコンパクトな分岐鉄塔でした。
塗装は揃えられており白系で、頭の黄色塗装が可愛らしいですね。
 
▲美浜線No.9(1982/5,31m)
 
さっきも話しましたが、てっきりこれら送電線は全てレジャー施設向けに構築されたものかと思ってみていました。
建設年度も揃って美浜線までが82年5月、舞浜線は8月のため、美浜変電所もその頃の完成なのかなと思っていました。
しかしさっき話した通り、ここは海岸に位置していたのでした。
この変電所も海のすぐ脇に建っていたんですね。
塩害対策を意識したようなコンクリートの重厚な外観もそのためだったのでしょうか。
 
▲美浜変電所外観
 
確かに言われてみると、1980年代よりさらに古そうな建屋ではあります。
 
当初は美浜変電所までだったので、この先はありませんでした。
この先は、某夢の国のオープンに先立ち整備された区間になります。
 
 
綺麗に並んで建っていて、プレートの年月も同じで、同一時期同一経緯で建設されたように見えても、ルーツが全然異なる送電線っていうのもあるんですねぇ。
奥が深いです。
 
次回はこの先の送電線と、その変遷を紐解いてみたいと思います。
 
 
〈参考〉
・株式会社オリエンタルランド : 東京ディズニーリゾートのあゆみ
 
・日本湿地ネットワーク : 第二東京湾岸道路を25年間阻止
 
・東京電力パワーグリッド : 空容量マッピング(千葉県)pdf