ヒトラーの「亡霊」に怯える欧州 | Kazuのかんたんドイツ語 【文法・語法・会話】

Kazuのかんたんドイツ語 【文法・語法・会話】

ドイツ語は難しい?いえいえ、実は英語よりも簡単です。挨拶・発音・数字から、ドイツ語を簡単に分かりやすく解説します。単語の増やし方、動詞・前置詞の格支配や名詞の性の学び方も解説していきます。マルチリンガルの私が、外国語一般の学習方法についても紹介します。

Gutes Neues Jahr!



…ですね、こちらでは。
2か月ほどブログを一切触っていませんでした。


私が愛していたドイツ語圏が崩れていくのでは…という喪失感から、
何かをまとめる、という気分にもならなかったのです。


というのは、欧州の事情があまりにも酷いので、
私も何てコメントしていいのか分からなかったのです。

年始のケルンの「難民」の犯罪だったり、
難民を首相官邸に連れていった首長の話だったり…色々起こり過ぎました。




でも、この件について、「話しにくい」と感じていたのも正直あります。

その「話しにくさ」の正体がつかめてきたので、
あえて今回はその話をしたいと思います。



今回は、「べき論」「正論」から離れて、はっきり言いたいと思います。

口先だけの「人道主義」なんてヤメにすればいいのです。

むしろ、今回の難民騒ぎに関する「べき論」「正論」は、傍から見ていて、不愉快でしかないのです。





正直、我慢してまで「難民」を受け入れるのは、しんどくないですか?
だったら、受け入れるのはヤメにしませんかね。

その代わりに今ある「難民キャンプ」で、何か仕事でも創れないものですかね。



…と、
「難民を受け入れるべき」という「正論」を一回脇に置いたらどうでしょうか?
というのが私の考えです。

爆撃をヤメにして、「難民」をもう無理やり受け入れなくてもいいんじゃないですか?




おそらく、こんなことを言うと、二言目には、
「レイシスト」だの、「差別主義者」だの、「人権が…」だの、言い出す連中が出てくるかと思います。


言いたきゃ、どうぞ言ってください。




人が生きやすくするために人権を主張するのは大いに結構ですが、
主張すればするほど、
人が生きにくくなるのであれば、それは本末転倒じゃないのでしょうか?


誰かの犠牲の上に成り立つ「人権」なんて、そんなバカな話あってたまるか、と思いませんか?


「人権、人権」という人たちの論理で敢えて話をするとすれば、
「難民」と呼ばれる人たちにも平穏に暮らす権利はあるのでしょう。

そうであれば、元々そこにいた人にも、平穏に暮らす権利はあるはずです。

そこが完全に置き去りにされているように思うのです。




でも、ここからが重要ですが…

「度を越している」と感じて、「嫌だ」と言おうものなら、「差別主義者のレッテルを貼られる」ものだから、言いたくても言えないのです。

そもそも、受け入れ側が一方的に我慢する理由もない
のです。



我慢しろ、と言って我慢できるものではないのです。

我慢を強いた所で社会が持つわけがないのです。

それは、この年末・年始の様子を見れば、一目瞭然です。




それこそ、「人権・人権…」と言う人たちが、蛇蝎のごとく嫌う「ナチズム」「全体主義」と何が違うのですか?


そんな「不健全さ」が戦後というより、近代を通して存在していたのです。




戦後ドイツが、「ナチズム」に関しては徹底的に封殺してきましたが、
教条的にダメと言っても、効果がないどころか、
かえって酷い結果になってしまったように思うのです。


奇しくも今年になって、「我が闘争」が出版されますが、
正直、遅すぎたと私は感じています。

「我が闘争」が、2016年1月に再度出版
http://ameblo.jp/kantan-doitsugo/entry-11992670896.html



表向きはどの国も「人種差別」自体には、眉を顰めますが、
20世紀前半では、「人種差別主義」的な考え方自体は、残念ながら欧州内各地で見られていた現象でした。

でも、「人種差別主義」的な考え方が消えてしまった訳ではなく、表に出せず悶々としていただけだったのです。

だから、押さえつけても押さえつけても出てきてしまうのです。

今回みたいな、難民の大量流入みたいな現象が起これば、それは暴発してしまいます。





もちろん、現状を踏まえた上で、それでもなお「難民を受け入れた方がいい」と主張する人は、その考えを是非言って欲しいと思うのです。


ただ、教条的に「多文化共生」とか言い出しても、説得力を全く感じませんし、そんな説教する暇があったら、さっさと解決策を考えて欲しいものです。

「安価な労働力」とかいう議論は、これだけ「難民」に関わる社会的コストを考えたら、説得力なんて吹き飛んでしまって、微塵もないように思います。




教条的に差別がダメというのは、「ナチ」と同じくらい不寛容な態度だと私は思います。
それは、かえって差別を助長する結果になっている
ように思うのです。


だから、しんどいのであれば、「しんどい」と言うのも答えの1つだし、それを受け入れた上で話をするのが、もっと重要なのかなと感じています。



紛いなりにも「民主国家」という建前はありますので、
違うと思うのであれば、正直に違うと言えばいいと、私は思います。

案外、その方が世の中、楽なのかもしれません。




<リンク>
Quatsch! バックナンバーはコチラ。
http://ameblo.jp/kantan-doitsugo/entry-11528446169.html

次回:未定

前回:ウィーンの中央駅と西駅と…
http://ameblo.jp/kantan-doitsugo/entry-12097980487.html



<下のバナーをクリックして、応援をお願いします。>
にほんブログ村 外国語ブログ ドイツ語へ にほんブログ村 外国語ブログ 語学学習法へ  


読者登録してね ペタしてね