法隆寺の国宝彫刻(仏像) | 関西の国宝建造物と国宝彫刻(仏像)のすべて

関西の国宝建造物と国宝彫刻(仏像)のすべて

関西は国宝建造物と国宝彫刻(仏像)の宝庫です。私がこれまで訪れたそのすべてをご紹介していきます。現在頑張って制作中です

法隆寺は国宝彫刻17件保有しています。

これは興福寺に並び我が国最多の保有数です。

 

まずは西院伽藍に安置されている国宝彫刻をご紹介

 

ただし基本仏像は撮影禁止ですのでウィキペディアかr画像をお借りします。(ないものもあります)

 

金堂安置

 

銅造釈迦如来及両脇侍像 どうぞうしゃかにょらいおよびりょうきょうじぞう 止利作(金堂安置) 飛鳥時代

 

Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG
By Tokyo Bijutsu Gakko - Tokyo Bijutsu Gakko(Tokyo Fine Arts School and Tokyo Music School) ed., HORYUJI OKAGAMI (64 VOLUMES) [The Great Art of the Horyuji Temple Volme 49th, 1917], パブリック・ドメイン, Link

623年、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイックスマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。

 

銅造薬師如来坐像 どうぞうやくしにょらいざぞう (金堂安置) 飛鳥時代

 

Yakushi Nyorai Kondo Horyuji.jpg

By 東京美術学校 - Horyuji Taikyo ( 法隆寺大鏡) 48 (1926), パブリック・ドメイン, Link

 

東の間本尊。本像の脇持とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。

 

木造毘沙門天立像 もくぞうびしゃもんてんりゅうぞう(金堂安置) 木造吉祥天立像 もくぞうきっしょうてんりゅうぞう (金堂安置)平安時代

 

Horyuji Monastery Bishamonten and Kichijoten of Kondo (330).jpg
By Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition - Japanese Temples and their Treasures (The Shimbi Shoin 1915), パブリック・ドメイン, Link

中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。記録(『金堂日記』)から承暦2年(1078年)の作とされる。

 

木造四天王立像 もくぞうしてんのうりゅうぞう (金堂安置) 飛鳥時代

 

ZojoTen viruudhaka Horyuji Kondo.jpg
By TOKYO BIJYUTU GAKKO - 東京美術学校編  法隆寺大鏡 第39集, 1910, パブリック・ドメイン, Link

飛鳥時代。広目天・多聞天像の光背裏刻銘に山口大口費らの作とある。同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面にあらわさず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。

 

五重塔安置

 

塑造塔本四面具 そぞうとうほんしめんぐ (五重塔安置) 天平時代

 

 

 

Horyuji Monastery Clay Figures of the Pagoda I (223).jpg
By Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition - Japanese Temples and their Treasures (The Shimbi Shoin 1915), パブリック・ドメイン, Link

初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は「維摩経」(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。

 

大講堂安置

 

木造薬師如来及両脇侍坐像 もくぞうやくしにょらいおよびりょうきょうじざぞう (講堂安置) 平安時代

 

平安時代

像高は中尊247.2センチ、左脇侍172.1センチ、右脇侍172.1センチ。中尊は左手に薬壺(やくこ)を持つ、通形の薬師如来像である。台座から光背先端まで含めた高さは4メートルに達する。両脇侍像(日光菩薩、月光菩薩)は坐像で、宝冠をいただき、両腕を前方に差し出し、両像とも中尊に近い方の手を下げる。中尊は平安初期風の量感豊かな像であるが、伏目がちの表情、平行して流れる穏やかな衣文などから、制作は堂が再建された正暦元年(990年)頃とみられる。中尊と脇侍は作風が異なり、作者が異なるとも考えられる。各像の光背は周縁部を除き当初のものであり、台座も当初の形式を伝える。

 

次に東院伽藍に安置されている国宝彫刻です。

 

夢殿安置

 

木造観世音菩薩立像 もくぞうかんぜおんぼさつりゅうぞう (夢殿安置) 飛鳥時代

 

 

 

 

GUZE Kannon Horyuji.JPG
By Tokyo Bijutsu Gakko - Tokyo Bijutsu Gakko(Tokyo Fine Arts School and Tokyo Music School): HORYUJI OKAGAMI (64 VOLUMES) [The Great Art of the Horyuji Temple] Volume 51st, 1918-01-30, Tokyo, Japan, パブリック・ドメイン, Link

飛鳥時代

夢殿内部中央の厨子内に安置される。秘仏で、毎年春と秋に開扉される(開扉期間は2015年の例で4月11日〜5月18日、10月22日〜11月22日)。「救世観音」(くせかんのん)と通称される。「救世」は寺では「くせ」と読んでいるが、文献では「くぜ」「ぐぜ」と読む場合もある。作風から飛鳥時代前期の作とみられるが、夢殿の建立(738年頃)以前、本像がどこにあったのかは不明である。長年秘仏であったため保存状態はよい。像高は179.9センチ。本体、台座、光背ともにクスノキ材。上半身に僧祇支(そうぎし)、下半身に裳をまとい、二重反花(かえりばな)の台座上に直立する。着衣には文様を表さない。両手は胸前で組み合わせ、火焔宝珠を捧持する。頭部から台座蓮肉とその下の角枘、胸前で組んだ両手、持物の宝珠まで含めて一材から木取りし、垂髪、天衣遊離部などを別材矧ぎ付けとする。像表面は漆で目止めをし、白土下地を施した上で金箔押しとし、唇には朱を差す。宝冠は金銅製透彫に青色ガラス玉で装飾し、頂部にはペルシャ風の宝珠と三日月の意匠を表す。冠帯の左右に纓(えい)を張り出す。冠帯側面から下がる垂飾は右側の分を欠くが、左の垂飾は腰付近まで長く伸びる。なお、持物の宝珠の上の火焔にも青色ガラス玉の装飾がある。光背は宝珠形の頭光(ずこう)で、中央に蓮華文、その周囲には内側から順にC字形を連ねた雲気唐草文帯、連珠文帯、忍冬唐草文帯があり、最外部には火焔を表し、頂部には宝塔を表す。この光背は支柱を用いず、L字形の金具で像本体の後頭部に直接取り付けている。肩に掛かる蕨手状の垂髪、膝前で交差し体側に鰭状に広がる天衣の扱いなど、全体に左右相称性が強い。杏仁形の眼、古拙の微笑を浮かべる唇などとともに、いわゆる止利式仏像の様式を示すが、面相は目尻がやや吊り上がり、鼻が大きく、人中線を明確に刻む点に特色がある。本像のように、両手を胸前で組み合わせ宝珠を捧持する形の像は朝鮮半島の百済系の像に多く、中国南朝の梁の様式が百済を経て日本へもたらされたものと考えられている。久野健によって紹介された関山神社(新潟県妙高市)の銅造菩薩立像は両手先を欠失するものの、造形的に救世観音像に近い。関山神社像は百済製とみられ、日本にこの種の像が将来されていたことの傍証となる。

 

乾漆行信僧都坐像 かんしつぎょうしんそうずざぞう (所在夢殿) 天平時代

 

Priest Gyoshin Statue.JPG
By 不明 - 飛鳥園、東洋美術、特輯、寧楽時代 中、1933-02-01, パブリック・ドメイン, Link

奈良時代

像高88.5センチ。夢殿堂内、壇上の北東(向かって右奥)に安置される。麻布を漆で張り重ねた脱活乾漆像。もとは彩色されていたが、ほとんど剥落している。法隆寺東院伽藍の創立者である行信の肖像で、頭頂がやや尖り、両目は吊り上がり、鼻翼が大きい、個性的な面貌に表される。両手は膝に置き、持物(じもつ)の如意を執る。この如意は角製で、造像当初のものである。礼盤形の台座は鎌倉時代の作。『法隆寺別当次第』には、永保3年(1083年)、夢殿の行信像と道詮像(後出)を仏壇下から仏壇上へ移動したとの記録がある。大江親通が嘉承元年(1106年)に南都の諸寺を巡拝した際の記録である『七大寺日記』には、行信像は「丑寅角」にあったと記されており、本像はその当時から現状とほぼ同じ位置に安置されていたことがわかる。行信については生没年を含め、生涯のくわしいことはよくわかっていない。平安時代末期の『七大寺年表』は行信の没年を天平勝宝2年(750年)とするが、実際はそれより長生きしたとする説もある。仮に行信の没年を750年とし、没後まもなく本像が作られたとすると、本像は唐招提寺鑑真像(天平宝字7年・763年頃)より十年以上古い、日本最古の肖像彫刻ということになるが、後述のように、実際の制作年代はもう少し下るとみられている。『続日本紀』天平勝宝6年(754年)11月24日条に、「薬師寺行信」なる僧が厭魅(えんみ、呪詛によって人を殺すこと)を行ったかどで下野薬師寺に流罪になったとの記事があり、これが東院伽藍創立者の行信と同一人物か否か、同一人物である場合、流罪になった人物の肖像を作ったのはなぜかという点が疑問である。浅井和春は、天平神護2年(766年)、「薬師寺行信」と同じ時に流罪になった大神多麻呂という人物が復位したとの記事が『続紀』にあることを指摘し、この時行信の名誉も回復されたのではないかと推定した。また、その翌年にあたる神護景雲元年(767年)には行信発願の大乗経2,700巻(通称行信経)が完成している。このため浅井は、行信の復権と大乗経の完成を機として本像が作られたのではないかと想定している。

 

塑造道詮律師坐像 そぞうどうせんりつしざぞう (所在夢殿) 平安時代

 

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By 東京美術学校 - Horyuji Taikyo ( 法隆寺大鏡) 20 (1924), パブリック・ドメイン, Link

平安時代。像高87.3センチ。夢殿堂内、壇上の北西(向かって左奥)に安置される。道詮は、貞観元年(859年)頃、当時荒廃していた東院を再興したとされる僧で、『僧綱補任』によれば貞観15年(873年)に没したとされる。本像もその頃の作と思われる。本像のような塑像は奈良時代に多く作られたが、平安時代にはまれである。

 

次に大宝蔵院に安置されている国宝彫刻です。

 

大宝蔵院安置

 

木造観世音菩薩立像 もくぞうかんぜおんぼさつりゅうぞう (百済観音) 飛鳥時代

 

 

 

Kudara kannon 1.JPG
パブリック・ドメイン, Link

飛鳥時代

大宝蔵院の百済観音堂に安置される。像高210.9センチ。かつては金堂内、釈迦三尊像の背後に安置されていたが、1907年頃帝室奈良博物館(現奈良国立博物館)に寄託。1930年頃に寺に戻り、1941年から大宝蔵殿に移された]。作風から飛鳥時代前期(7世紀前半から中葉)の作とみられる。クスノキ材の一木造で、台座、光背もクスノキ材。上半身に僧祇支(そうぎし)、下半身に裙(くん)をまとい、反花(かえりばな)の台座上に直立する。右手は肘を曲げ、掌を上に向けて前膊を正面に突き出す。左手は下げ、肘をわずかに曲げて、第一・三指で水瓶を持つ。頭部から台座蓮肉まで含めて一材から木取りし、頭上の髻、両腕の肘から先、天衣遊離部などを別材矧ぎ付けとする。持物の水瓶はヒノキ材製。腰下から足首あたりまで内刳を行い、蓋板を当てる。面部、上半身などに乾漆を盛上げ、全体に彩色するが剥落が著しい。宝冠、腕釧、臂釧、胸飾は金銅製透彫。台座は五角形。光背は宝珠形の頭光(ずこう)で、台座から立てた支柱で支える。台座支柱は竹竿のように見えるが、竹を模したクスノキ材製で、支柱の基部には古様な山岳文を刻む。肩に掛かる垂髪は止利派の仏像のような蕨手状に様式化したものではなく、自然な表現になっている。天衣は膝前で交差し、腕から体側に垂れる。腕から垂れる天衣は、止利派の仏像のそれのような左右対称に平面的に広がるものでなく、手前に向かって立体的にカーブしており、作者が像の側面観を意識していることがうかがわれる。

 

銅造観音菩薩立像 どうぞうかんのんぼさつりゅうぞう (夢違観音) 白鳳時代

 

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By Unknown, Photo:Tokyo Bijutsu Gakkō - Tokyo Bijutsu Gakkō(Tokyo Fine Arts School and Tokyo Music School): HŌRYŪJI ŌKAGAMI (64 VOLUMES) [The Great Art of the Hōryūji Temple Volume 8th, 1913., Tokyo, Japan], パブリック・ドメイン, Link

飛鳥時代後期(白鳳期)。像高86.9センチ。大宝蔵院に安置する。この像に祈念すると悪夢を吉夢に変えてくれるとの伝承があり、夢違観音(ゆめちがいかんのん)と通称される。「夢違」は寺では「ゆめちがい」と読んでいるが、文献では「ゆめたがい」「ゆめたがえ」と読む場合もある[121]。像自体は7世紀末から8世紀初頃の作であるが、台座は元禄7年(1694年)、法隆寺の江戸出開帳に本像が持ち出された時に作られたものである。面相は、眉の線がそのまま鼻梁につながっている点、二重瞼とする点などは他の飛鳥時代後期(白鳳期)の仏像に共通するが、鼻梁が幅広く、眉と眼との間隔がさほど広くなく、頬から顎にかけての肉取りが引き締まるなど、全体に大人びた表情になっており、この時代特有のいわゆる童子形像とは一線を画す。頭上には髻を結い、三面頭飾を付ける。多くの菩薩像は両肩に垂髪を表すが、本像にはそれがない。天衣は飛鳥時代前期の菩薩像では膝前で交差するものが多いが、本像の天衣は上下2段にU字状に掛かる、より自然な形状になっている。両腕から体側に垂れる部分の天衣は左右とも欠失している。正面の天衣の下を瓔珞がくぐっている様を天衣の凹凸によって表すなど、写実的表現に意を用いている。浅湫毅(あさぬまたけし)は『諸堂開帳霊仏霊宝絵像等目録』という元禄3年(1690年)の記録に「夢違之観音」とあるのが、文献上の本像の初出であるとする。本像は近世には東院絵殿に安置され、それ以前の所在は不明とされていたが、浅湫は上記の元禄3年の記録に「夢違の観音は、往古此殿(注:絵殿)にこれ有り、中比(なかごろ)金堂の厨子の内に納め置く」とあるのに着目し、本像はもとは金堂にあったもので、古記録に見える金堂の「中大厨子」(現存せず)に納められていたものであろうと述べている。

 

銅造阿弥陀如来及両脇侍像 どうぞうあみだにょらいおよびりょうきょうじぞう (伝橘夫人念持仏)木造厨子 白鳳時代

 

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By 小川晴暘(1894-1960) 仏像写真家 飛鳥園創業者) - 飛鳥園、東洋美術、特輯、寧楽時代 上、1932-07-20, パブリック・ドメイン, Link

飛鳥時代後期(白鳳期)

大宝蔵院に安置。厨子と、内部に安置される阿弥陀三尊像を合せて1件の国宝に指定されている

銅製浮彫の蓮池から3本の蓮茎が立ち上がり、その上に中尊阿弥陀如来坐像と両脇侍(観音菩薩立像、勢至菩薩立像)がそれぞれ乗る。三尊の背後には銅製浮彫の後屏を立てる。像高は中尊34.0センチ、左脇侍28.8センチ、右脇侍28.7センチ。蓮池は幅78.2センチ、奥行51.5センチ。後屏は縦53.5センチ、幅77.8センチである。中尊阿弥陀如来像は丸顔で眉と目との間隔が広く、上瞼を二重に表し、唇にはいわゆる古拙の微笑を浮かべる。髪は螺髪ではなく、渦巻状の線を彫出している。図像的には頭頂の肉髻が低いこと、手指の間に縵網相(まんもうそう、水かき)を表すこと、頸部に三道を表さないことなどが特色である。服制は大衣の下に偏衫(へんさん)を着す。両脇侍像はいずれもわずかに腰を捻って立つ。両肘を曲げて腕を前方に向け、中尊に近い側の手は掌を見せ、反対側の手は掌を上に向ける。プロポーションは体部に比して頭部が大きく、腰の位置が高い。三道を表さない点は中尊同様である。脇侍は蓮座と本体を一鋳とするが、中尊の蓮座は別鋳である。蓮座は蓮弁が幅広で、脇侍分は子葉に忍冬文を表す。中尊の光背も別鋳である。光背は後屏に取り付けられており、繊細な透彫の網文及び唐草文の外周に火焔を表す。三尊の足下の蓮池はさざ波や渦を浮彫し、全開、半開などの蓮葉を表す。後屏は3枚の銅板を蝶番でつないだもので、上部の輪郭は五連の弧を描く。表面には浮彫で蓮華化生5体と化仏7体を表し、化仏はいずれも透彫の天蓋を伴う。

 

木造観音菩薩立像 もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう (九面観音) 天平時代

 

Horyuji Monastery Nine-Headed Kwannon (255).jpg
By Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition - Japanese Temples and their Treasures (The Shimbi Shoin 1915), パブリック・ドメイン, Link

唐時代

像高37.1センチ。ビャクダン材、素地仕上げで細密な彫技をみせる仏像で、作風・技法から日本製ではなく、中国唐時代の作品とみられる。天平19年(747年)の『資財帳』に「檀像 壱具 右養老三年歳次己未従唐請坐者」とあるのが本像に当たるとみられる(「檀像」はビャクダン製の像の意)。像容は十一面観音に似るが、本体の顔と頭上の小面を合計しても9面しかないため、九面(くめん)観音と呼ばれている。日本における十一面観音像は、玄奘訳の『十一面神咒心経』の説くところにしたがい、頭上に菩薩相3面、瞋怒相(しんぬそう)3面、狗牙上出相(くげじょうしゅつそう)3面、大笑相1面を表し、頂上仏面と合わせて11面とするのが通例である。これに対し本像は菩薩相、瞋怒相、狗牙上出相が各2面、大笑相が1面で、これに頂上仏面、本面を合せても9面しかなく、図像的に他に例を見ない像である。ビャクダン材の一木造で、頂上仏面と頭上の三面頭飾を矧ぐほかは、持物、瓔珞、耳朶から下がって揺れ動く耳飾りに至るまで一木から彫出している。瓔珞の一部は体との間に隙間を設け、浮き上がるように彫出されている。

 

木造地蔵菩薩立像 もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう 平安時代

 

Jizo Bosatsu Horyuji.JPG
By Tokyo Bijutsu Gakko - Tokyo Bijutsu Gakko(Tokyo Fine Arts School and Tokyo Music School): HORYUJI OKAGAMI (64 VOLUMES) [The Great Art of the Horyuji Temple] Volume 15th, 1914-09-20, Tokyo, Japan, パブリック・ドメイン, Link

平安時代

像高173.0センチ。もと大神神社の神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)に伝わった像で、明治初年の神仏分離の際に法隆寺に移された。昭和期には金堂の北面に安置されていたが、大宝蔵院開館後はそちらへ移されている。カヤ材の一木造で、本体から台座蓮肉部までを一材から木取りし、内刳はない。錫杖を持たない形の地蔵像で、右手は下げて掌を前に向け、左手は肩の辺に上げて蓮茎を持つ。体の奥行が厚く、大波と小波を交互に彫る翻波式衣文を刻む点、腰から大腿部にかけての衣文をY字状に表して量感を強調し、大腿部の隆起した部分には衣文を刻まない点など、平安初期彫刻の特色が顕著で、制作は9世紀と推定される。

 

次に西円堂に安置されている国宝彫刻です。

 

西円堂安置

 

乾漆薬師如来坐像 かんしつやくしにょらいざぞう (西円堂安置) 天平時代

 

Yakushi Nyorai Saiendo Horyuji.jpg
By 東京美術学校 - Hōryū-ji Taikyō ( 法隆寺大鏡) 54 (1926), パブリック・ドメイン, Link

奈良時代

像高246.3センチ。西円堂の本尊として安置される脱活乾漆像。体躯はやや太りぎみで、衣文は深く表すが、全体に造形が単調で形式化していることが指摘されており、制作年代は奈良時代も末期の8世紀後半ごろと推定されている。千仏を表した光背は後補で弘安6年(1283年)の作。台座は八角の裳懸座で、大部分当初のものである。台座の框側面には木屎漆の盛上げで宝相華文を表している。西円堂自体は奈良時代の創建であるが(現在の建物は鎌倉時代の再建)、この薬師像の存在が確認できるのは大江親通の『七大寺巡礼私記』(保延6年・1140年)が初出である。同書の「講堂」の項には、当時西円堂が破損していたため、この薬師像は講堂に移されていたと記録されている。

 

次は聖霊院に安置されている国宝彫刻です。

 

聖霊院安置

 

木造聖徳太子(山背王、殖栗王/卒末呂王恵慈法師)坐像 もくぞうしょうとくたいしざぞう (聖霊院安置) 平安時代

 

Horyuji Monastery Shotoku Taishi of Shoryoin (331).jpg
By Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition - Japanese Temples and their Treasures (The Shimbi Shoin 1915), パブリック・ドメイン, Link

平安時代

像高は聖徳太子84.2センチ、山背王64.0センチ、殖栗王(えぐりおう)53.9センチ、卒末呂王(そまろおう)52.4センチ、恵慈法師63.9センチ。国宝指定名称は以下のとおり。

*木造聖徳太子 山背大兄王 殖栗王 卒末呂王 恵慈法師坐像 5躯

*附 銅造観音菩薩立像 木造蓬莱山及亀座付

*附 紙本墨書妙法蓮華経二 維摩経並勝鬘経一 3巻(木製経筒入) 奥に筆師法隆寺僧隆暹敬白とある

*聖霊院内陣には間口三間の厨子があり、中央間に聖徳太子像を、左右の間には3躯ずつ計6躯の像を安置する。すなわち、厨子の西の間は、奥に如意輪観音像、手前向かって左に山背王像、右に殖栗王像を安置、東の間は、奥に地蔵菩薩像、手前向かって左に卒末呂王像、右に恵慈法師像を安置する。『法隆寺別当次第』という記録に、保安2年(1121年)、東室の南端を改造して聖霊院を設けたことが記され、聖徳太子と眷属像もこの時に造られたものとみられる。礼拝対象としての聖徳太子像には二歳像(南無仏太子像)、七歳像、十六歳像(孝養像)、勝鬘経講讃像などがあり、鎌倉時代の顕信著『聖徳太子伝私記』は本像を34歳の勝鬘経講讃像としている。しかし、絵画作品に表された聖徳太子勝鬘経講讃像との比較から、聖霊院像は勝鬘経講讃像ではなく摂政像であるとする説もある。像は冕冠(べんかん)を被り、朱色の袍(ほう)を着し、両手に笏(しゃく)を持って坐す。冠の正面には毘沙門天像を表す。この毘沙門天像は後補で、他に冠上の冕板、持物の笏、左袖口の一部、裳先の一部を後補とする。4躯の眷属像のうち、山背王(山背大兄王)は聖徳太子(厩戸王)の子、殖栗王と卒末呂王は異母兄弟、恵慈法師は法の師にあたる高句麗僧である。山背王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師はそれぞれ如意、筥(はこ)、大刀、柄香炉を持つ。これらのうち恵慈法師の持つ柄香炉以外は当初のものである。如意、筥、大刀は勝鬘経講讃の聴聞者の持物としては不審で、この点も本像を勝鬘経講讃像ではないとする説の根拠になっている。太子像の謹厳な面持ちに対し、眷属4躯の面相は対照的に親しみやすくユーモラスな表現になっており、そのことによって太子像の聖性をより強調する効果を上げている。太子像の像内には法華経、維摩経、勝鬘経の三経と銅造の観音菩薩像とが納入されている。これらの納入品は1905年(明治38年)に一度確認され、1985年(昭和60年)の調査でもあらためて確認と撮影が行われているが、その概要は以下のとおりである。一番下には巻物3巻を並べた形を模した、木製の容器がある。この容器は蓋と身に分かれ、中に3巻の経巻(法華経2巻と維摩経・勝鬘経合わせて1巻)を納める。その上には木彫りの亀が乗り、その背には自然木を組み合わせて制作した蓬莱山を乗せ、その上に銅造観音菩薩像が立つ。観音菩薩像については聖徳太子像の像内にあるものなので詳細は不明だが、像高は約24センチ、胸前に両手で宝珠を捧持する形の像で、奈良時代の作品とみられる。

 

最後は上御堂に安置されている国宝彫刻です。

 

上御堂安置

 

木造釈迦如来及両脇侍坐像 もくぞうしゃかにょらいおよびりょうきょうじざぞう (上堂安置) 平安時代

 

Shaka Kami no Mido Horyuji.jpg
By 東京美術学校 - Hōryūji Taikyō ( 法隆寺大鏡) 55 (1927), パブリック・ドメイン, Link

平安時代

像高は中尊230.0センチ、左脇侍154.2センチ、右脇侍150.2センチ。中尊、両脇侍(文殊菩薩、普賢菩薩)とも坐像に作る。サクラ材の一木像で、脇侍像の両腕と各像の台座は後補。本像を安置する上御堂(かみのみどう)は、延長年間(923 - 931年)法隆寺別当観理が京都普明寺の堂を移して創始したものだが、現存する堂は鎌倉時代末期のものである。本三尊像は、醍醐寺の上醍醐薬師堂の薬師三尊像(延喜13年・913年)と様式的に共通点があり、上御堂が創始された10世紀前半頃の制作とみられる。

 

以上が法隆寺が保有する国宝彫刻17件です。

 

 

拝観時間  2/22~11/3 午前8時~午後5時  11/4~2/21 午前8時~午後4時半 

 

拝観料金  個人料金(1名に付き)一般1,500円 / 小学生750円

 団体料金(30名以上 1名に付き一般1,200円 / 大学・高校生1,050円 中学生 900円 / 小学生600円

 

 駐車場あります(有料)

 

聖徳宗総本山法隆寺
〒636-0115 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
 
法隆寺公式HP
 
アクセス
*JR大和路線法隆寺駅下車。徒歩で20分。または奈良交通バス(72系統)で、法隆寺駅バス停→法隆寺門前バス停→徒歩1分で法隆寺南大門
*JR・近鉄王寺駅下車。奈良交通バス(62・63・92系統)で王寺駅北口→法隆寺前バス停徒歩3分
*近鉄橿原線筒井駅下車。奈良交通バス(63・92系統)で筒井駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分
*近鉄橿原線近鉄郡山駅下車。奈良交通バス(50・51・52・97・98系統)で近鉄郡山駅バス停→法隆寺前バス停徒歩3分
*奈良交通バス奈良・西の京・斑鳩回遊ライン(97系統)春日大社本殿 - 近鉄奈良駅 - JR奈良駅-薬師寺東口 - 近鉄郡山駅 - 法起寺前 → 法隆寺前バス停徒歩3分。春日大社や奈良駅等から(へ)乗り換えずに行くことができる。ただし、本数が少なく、最終バスの時間が早いので注意。

 

 

法隆寺の国宝建造物一覧

法隆寺五重塔(ほうりゅうじごじゅうのとう)

法隆寺金堂(ほうりゅうじこんどう)

法隆寺南大門(ほうりゅうじなんだいもん)

法隆寺中門(ほうりゅうじちゅうもん)

法隆寺大講堂(ほうりゅうじだいこうどう)

法隆寺廻廊(ほうりゅうじかいろう)

法隆寺鐘楼(ほうりゅうじしょうろう)

法隆寺経蔵(ほうりゅうじきょうぞう)

法隆寺西円堂(ほうりゅうじさいえんどう)

法隆寺聖霊院(ほうりゅうじしょうりょういん)

法隆寺東室(ほうりゅうじひがしむろ)

法隆寺網封蔵(ほうりゅうじこうふうぞう)

法隆寺食堂(ほうりゅうじじきどう)

法隆寺東院夢殿(ほうりゅうじとういんゆめどの)

法隆寺東院伝法堂(ほうりゅうじとういんでんぽうどう)

法隆寺東院鐘楼(ほうりゅうじとういんしょうろう)

法隆寺東大門(ほうりゅうじとうだいもん)

 

関西の国宝彫刻(仏像)一覧

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