千霊一霊物語 | kanoneimaのブログ

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私的備忘録

書名:千霊一霊物語
原題:Les Mille et Un Fantômes
作者:アレクサンドル・デュマ(フランス作家)
出版:光文社古典新訳文庫
内容:1831年9月1日、『私』こと劇作家アレクサンドル・デュマは、かつての同僚に招かれてパリ近郊のフォントネ=オ=ローズで狩り開きを行った。しかし、思うような獲物に恵まれず、野原で探し歩くのを嫌った『私』は一行から抜け出して町へと戻って行った。一時を告げる鐘の音が聞こえるころ町にたどり着いた『私』がディアヌ通りからグランド通りへとさしかかった時、教会のほうから両手が血まみれになった男が近づいてくるのを見た。思わず警戒する『私』には目もくれずに男は通り過ぎ、ディアヌ通りのお屋敷の呼び鈴を鳴らした。応対に出た女に「ジャックマン」と呼ばれた男は言う。「市長さんに伝えてくれ。自分は女房を殺して、捕まえてもらいに来たと」不穏な様子の男を気にして来た道を引き返してきた『私』と、同じような野次馬連中が見守るなか市長たちが現われる。さらに二人の憲兵と警視と医師も到着した。クザン警視が現場検証のためにジャックマンを犯行現場である自宅へ連れて行こうとすると、彼は激しく抵抗する。市長のルドリュ氏が理由を聞くと「生首がしゃべった」とジャックマンは告白する。ロベール医師は一笑に付し、警視はジャックマンを連れて行くよう憲兵に指図し、市長は「これも罪滅ぼしなんだ」と彼を諭す。市長が付き添うことを条件にジャックマンは同意して歩き出し、一行の後ろには『私』を含む野次馬集団もつづく。セルジャン小路の小さな家の地下倉には、樽からワインを瓶詰していて殺害されたらしき首のない死体と石膏囊(せっこうのう)の上に置かれた頭部があった。警視はその場で調書の作成を開始し、市長の友人二人と『私』が証人となることを頼まれる。一同が見守るなか石切夫ピエール・ジャックマンは女房のジャンヌをどのように殺害したかを供述したが、最後は生首に右手を嚙まれたと訴え、医師が遺体の検分を始める前に出て行かせてくれと懇願した。医師は馬鹿馬鹿しいと取り合わなかったが、市長が口添えしたことでジャックマンは憲兵に牢屋へ連行されて行った。『私』も辞去しようと市長に挨拶すると、一時間後に彼の家に来て調書にサインするようにと言われる。言葉通りに市長の邸宅を訪ねると「正餐(せいさん)の前に家の中をお見せしますよ。元はスカロン(十七世紀フランスの作家)の住んでいたものですから」と言い、『私』はのちのマントノン侯爵夫人であるスカロン夫人の部屋に案内してもらい夫婦が模作したという恋愛地図を鑑賞し、客間では歴代のフランス王の骨片や遺髪をコレクションしたものまで見せてもらった。そうしたうえで市長は正餐をともにする客人たちの経歴を語る。ジャックマン事件に立ち会った市長の友人の二人は、文人ジャン=ルイ・アリエットとサン=シュルピス教会司祭ピエール=ジョゼフ・ムール。アリエット氏は錬金術師カリオストロとサン=ジェルマン伯爵と親戚関係だと言い、七十五歳に見えるが実年齢は二百七十五歳と主張しており、さらに魔術の秘儀についてエッテイラという名で本を出版していると言う。ムール神父はカゾット(フランスの神秘思想家)の友人で、善霊と悪霊の存在を信じており、日常的に幻夢に沈み込むと言う。他の招待客としては、やはり市長の友人でプチ=ゾーギュスタン博物館を作ったアレクサンドル・ルノワール士爵がいる。市長はまだ経歴を紹介していない女性の招待客を庭からエスコートしてくるように『私』に依頼する。その女性は美しいが生気のない様子で、食卓でもほとんど食べなかった。みなが食後に客間に移動すると、そこには調書をもった警視と医師が待っていた。それぞれが署名を済ませると、医師が市長に尋ねた。「あなたは生首がしゃべったと信じているのですか?」市長は「ありうる」と答え、『私』と市長の友人三人も賛成し、警視と婦人の二人は黙っていた。セバスチャン・ロベール医師は切り落とされた首が言葉を発することなど人体構造上ありえない、と科学を根拠に主張した。市長になる前は医師だったジャン=ピエール・ルドリュ氏は、科学的にありうることだと反駁(はんばく)して、自らが目撃したというシャルロット・コルデーの頬打ちの逸話を語る。さらにルドリュ氏が許可を得て斬首後の生命の持続に関する実験を行っていたフランス革命期の経験を話し始める。市長の体験を聞いてもなおロベール医師はそれは幻覚の記憶に過ぎないと断言し、イギリスの医師から聞いたというエディンバラ刑事裁判所の判事の話を語る。こうしてジャックマンの自供した「生ける生首」の妥当性をめぐる議論は、いつしか各人が見聞きした奇怪な出来事を披露しあう夜へと発展する。千夜一夜物語を模した枠物語の奇譚集。
※本作は1849年5月~10月に「コンスチチュショネル(立憲主義者)」紙に連載し、同年に単行本刊行
※本作は、作家ポール・ラクロワ(1806~1884年:作中の第4章で「愛書家ジャコブ」として言及される)が原案に協力したと考えられており、デュマとのやり取りを示す書簡がフランス国立アルスナル図書館に保存されている。
※ルドリュ氏のモデルはフォントネ=オ=ローズ市長ジャック=フィリップ・ルドリュ(1754~1832年)と推測されている。
※スカロン夫人(フランソワーズ・ドービニェ)は、最初の夫スカロンの死後に宮廷に入り、そこでルイ十四世からマントノン侯爵夫人の称号を与えられた。

※作中に登場するスカロン夫妻が模作したとされる『恋愛地図』は、マドレーヌ・ド・スキュデリーの小説『クレリー』に収録された地図。友情が恋愛に達するまでの道のりを寓意的に描いており、様々な心理や行為が道中の地名として記されている。その凝った趣は、十七世紀フランスにおける気取りの慣習(プレシオジテ)の典型とされた。
※アレクサンドル・ルノワール(1761~1839年)が作ったプチ=ゾーギュスタン博物館はフランス記念博物館とも呼ばれる。フランス革命による破壊行為から歴史的記念物を守るための移管先として設立した。復古王政期の1816年、ルイ十八世の命により閉館させられた。作中でルノワールは、1794年にサン=ドニの王墓冒瀆に立ち会ったことを語っている。
※シャルロット・コルデーが1793年にギロチンで斬首された後、処刑人助手が生首を掲げてその頬に平手打ちをしたという歴史にもとづく話が作中で語られている。作中に実在の人物が登場して歴史的逸話を語ることで、本作は幻想小説であると同時に疑似的な歴史小説としても読むことができる。

「吾輩はジャン=ルイ・アリエット。別名エッテイラ。アナグラムでね」
※文字の順序を入れ替えて別の語句を作る言葉遊び。Etteilla(エッテイラ)はAlliette(アリエット)のアナグラム。

シュヴァリエ:士爵

「メッシュー(紳士の皆さん)」
「そこはシトワイヤン(市民の皆さん)と」
※フランス革命期、それまでの貴族文化に由来する「ムッシュー」(複数形でメッシュー)の代わりに、革命派は「シトワイヤン(citoyen:市民)」という呼称を用いた。

ノートル=ダム(Notre-Dame)は「我らが貴婦人」、つまり聖母マリアを意味する。