書名:失われた世界
原題:The Lost World
作者:アーサー・コナン・ドイル(イギリス作家)
出版:光文社古典新訳文庫
内容:「わたし」ことエドワード・ダン・マローンは、二十三歳のアイルランド人青年で『デイリー・ガゼット』の記者。ある晩春の夜、マローンが初恋の女性グラディスに求婚しようとすると、「偉業を成し遂げた探検家を恋人に持ちたい。あなたが名声を手にしたら、またお話ししましょう」と言われてしまう。そのあと夜勤で出社したマローンは、上司に特別任務への派遣を願い出る。すると上司は、変人で有名な動物学者のチャレンジャー教授に話を聞きに行くよう勧める。チャレンジャー教授は南アメリカへ単独調査に出かけ、昨年帰国したが、冒険の話にケチをつけられて以来口を閉ざしてしまったという。マローンは同業者の助けを借りてチャレンジャー教授に手紙を送り、記者であることは隠して論文について話し合いたいと面会を求める。承諾の返書が届き、マローンは屋敷を訪ねる。しかし、新聞記者と看破されたマローンはチャレンジャー教授に襲い掛かられ、二人はもつれ合って玄関から飛び出し階段を転げ落ちて道路に出てしまう。すぐさま現れた警官に「先月も同じような騒ぎを起こした」と咎められたチャレンジャー教授に対して、「ぼくも悪かった」とマローンは場をおさめた。警官が去ると、マローンは教授に家へ招き入れられた。チャレンジャー教授は「許可なしに記事にしないように」と念押ししたうえで、マローンに南アメリカの話を語る。二年前、アマゾン川流域を調査した教授は、クカマ・インディオの集落を訪ねた。すると族長は、集落で保護している白人の病人の枕元へ教授を連れていく。白人は息を引き取っており、教授が荷物を調べると名札には「ミシガン州デトロイト、メイプル・ホワイト」と書いてあった。マローンは旅の画家兼詩人だったというホワイトの遺したスケッチブックを見せられる。チャレンジャー教授が示した二枚の絵。一枚は赤い絶壁の岩山と、尖塔のような岩山のてっぺんに巨木が生えている風景画。もう一枚は奇怪な生物の絵で、鳥のような頭部に、長いトゲつきの尻尾、トカゲのような胴体の背には鋸の歯のようなギザギザが並んでいる。この生き物の手前には小人のような人間が描かれている。チャレンジャー教授はこの巨大生物が生きていると主張するが、病の放浪画家が幻を見たのだとマローンは考えた。すると教授は、高名な動物学者によるジュラ紀のダイノソー(恐竜)、ステゴサウルス(剣竜)の生態想像図を見せる。マローンは絶滅した恐竜がスケッチの生物と似ていることに驚く。さらに教授は未知の生物の骨を提示し、ボートの転覆事故による破損を免れた不鮮明な写真を披露する。写真はスケッチの風景画と同じ場所で、大木には鳥のような姿が見られる。チャレンジャー教授はその鳥を「翼竜」だと言い、その翼の一部を取り出して見せた。ついにマローンも「外界と切り離された台地に先史時代の絶滅生物が生存している」という主張に同意し、前代未聞の発見に興奮する。チャレンジャー教授は今夜、動物学会館で講演する博物学者ウォルドロンから来賓として招かれており、その際に聴衆に呼びかけるつもりだと計画を打ち明ける。そこでマローンも講演を聞きに出かける。ウォルドロンの講演は、科学によって解釈された天地創造の過程を概観するもので、聴衆にわかりやすく説明していた。そして人類誕生以前に恐竜は滅んだと言った時、「異議あり!」というチャレンジャー教授の大声が舞台に響いた。聴衆に向けて、チャレンジャー教授は南米アマゾン流域で発見した先史時代の生物について語る。それに対して「証拠を見せろ」という野次が飛び交い大騒ぎになる。すかさずチャレンジャー教授は提案する。「皆さんの中から代表を選び、わたしの主張を検証してもらいたい」これに立候補したのは、比較解剖学の老教授サマリー氏、旅行家として名高いジョン・ロクストン卿、そして新聞記者のマローン。翌週、三人は汽船に乗船してブラジルのパラに向かった。大西洋を横断してパラに到着した三人は、アマゾン川が細くなっているオビドスを通過してマナウスの町に着いた。この町で三人は、チャレンジャー教授の封緘(ふうかん)命令書を開封する日を待っていた。指定日時の七月十五日正午、手紙の封を切ると中身は白紙だった。三人が驚いていると、なんとチャレンジャー教授本人が現れ、探検隊の道案内をすると言い出す。翌朝、四人は現地で雇った探検隊の使用人を連れ奥地へ旅立つ。蒸気船とカヌーで水上の旅をひと月余り、さらに徒歩で十日、ついに探検隊は赤い絶壁にたどり着く。孤絶した台地の入口を求めて探索する一行は、メイプル・ホワイトの痕跡と白骨死体を見つける。しかし、ホワイトが通ったと思われる洞窟の経路は落盤していることが分かる。そんなとき、探検隊の野営地に翼竜が現れ……。人跡未踏のアマゾン奥地で繰り広げられる冒険譚。
※本作は『ストランド・マガジン』の1912年4月号から11月号に連載されたあと、1912年10月に単行本が刊行された。
※原書が刊行された当時はSF(サイエンス・フィクション)という用語はなく「科学ロマンス」と呼称された。
※『解説』によると、メイプル・ホワイトが発見した土地のモデルとなったのは、南米ギアナ高地にあるテーブル・マウンテン(卓状山)だと言われている。
ネッド:エドワードの愛称
「ライフ(命)を落としたくてしかたないようだな」
「ライフ(人生)の証を立てたいんです」
警察裁判所:現在の治安判事裁判所にあたる。ロンドンなどの大都市に設置され、軽微な刑事事件を処理する。
金釘流の字
樺(かば)色
水兵用ジャケット:主に英海軍の水兵が着るダブルの短いウールの外套。ピー・コートとも。
モスキート・ブーツ:深靴。熱帯で履く深めの短靴、もしくは浅めの長靴。
勅任(ちょくにん)教授:イングランドではヘンリー八世が1540年に制定した欽定講座を担当する教授。スコットランドでは王の庇護や指名を受ける教授で、1497年にジェイムズ四世が設けたのが嚆矢とされる。
リボルバー:輪銅式拳銃
交易用ジン:西欧諸国が南米現地民との交易に用いたジンは、現在の麻薬のような毒性があったと言われている。
ブルーアム型電気自動車:四輪馬車の形そのままに、御者がかつて乗った場所に屋根なしの運転台がある電気自動車。
アコライト(侍者):イングランド国教会では、十字架を掲げる役割の少年
アマチュア選手:当時のイギリスでアマチュアとは、スポーツを楽しむ上流階級のことで、一介の庶民は参加できなかった。
背水(はいすい):支川が本川に流れにくくなって水位が上がる現象。
封緘(ふうかん)命令:出航後の指定日時まで開封できない命令書。
食いすぎた晩の悪夢:夜に重い食事をすると悪夢を見るといわれている。
出帆旗がはためく大型客船の通板(みちいた)を目指している。
※青地のまんなかに白い長方形。「本船は出航するので全員帰船されたし」の意味。
ジョン・ロクストンの敬称について:
※通常Lordは姓につき「ロクストン卿」となるが、貴族の子息で称号を継承していない場合は、「ジョン卿」のように名につけて使われる。
ガレ場:大小の石が散乱、累積している場所。
書名:この銃弾を忘れない
原題:Una bala para el recuerdo
作者:マイテ・カランサ(スペイン作家)
出版:徳間書店
内容:スペイン、カスティーリャ・イ・レオン州、パレンシア郡バルエロ村で暮らす十三歳の少年ミゲル・セルナ。二年前に内戦が始まった時、炭鉱の鉱夫だった父パスクアルは共和国を支持して戦いに身を投じ、消息不明になっていた。ミゲルは長男として母と祖母、五人の弟妹を支えるため、進学をあきらめて牛の世話をして働いている。1938年6月のある午後、山の牧場で愛犬グレタとともに働いていたミゲルは負傷兵に声をかけられる。負傷兵は父と同じ炭鉱で働いていたヤゴで、反乱軍に加わって戦い、怪我で休暇を貰ったという。ミゲルがヤゴと連れ立って反乱軍に支配されたふもとの村に帰ると、家族は警戒しつつ出迎えワインでもてなした。オビエドから歩いて故郷に帰って来たというヤゴは、通りかかった捕虜収容所にパスクアルが居たと教えてくれた。ヤゴから父の伝言を聞き、痩せ細っていたという話を聞いた母は布袋に食糧を詰め、ミゲルに届けに行かせると言い出す。この辺り一帯の山は反乱軍に抵抗した兵士が逃げ込み、それを取り締まる治安警察が歩き回り、オオカミもいる。そんな山の中を二百キロも歩いていくことになる。「会えたら一緒に家に帰ってきて」と布袋を手に握らせる母に、出来ないと思ったミゲルは無言で突き返す。その日から母親は生ける屍のようになる。さらに、ある夜、反乱軍を支持する若者三名が家に押しかけてきてワインを出せと言い、母を「アカ」と侮辱し「パスクアルに生きて会えると思うな」と言って出て行った。弟たちとベッドに入ったミゲルは、十歳の弟トマシンに「父さんを迎えに行って」と涙声で頼まれる。ミゲルは起き上がって母の枕元に行き、「父さんを連れて帰ってくる」と告げる。オビエドまでの道順は祖母に教わり、仕事はトマシンに引き継ぎ、翌朝、ミゲルは忠犬グレタを連れて旅立つ。七月の山岳地帯を歩くミゲルはさまざまな危険と遭遇する。泥棒を警戒して猟銃を持つ農夫、オオカミに襲われた森の中の夜、刑務所から逃げた捕虜、忍び込んだ農家の少女コバドンガとの約束、空爆で瓦礫と化した村。ようやく有刺鉄線で囲まれた収容所にたどり着いたミゲルだが……。実話をもとに家族の絆と少年の成長を描く物語。
※原書初版2017年
※スペイン北部、ブラニョセラ山脈のふもとの川に沿って広がるバルエロ・デ・サントゥリャン村の十三歳の少年がモデル。名前は作者がつけた架空のもの。
※翻訳する際、三部構成になっている各部の冒頭にあった詩は削除された。本来、物語の導入となるはずが、背景がわからない日本人には象徴的な言葉の意味がつかみにくく、訳者が不明な部分を原出版社や作者に確認していたところ、「削除していい」という提案があったため。
※原書にあった冒頭の詩は、第一部は、カタルーニャの詩人ジュアン・サルバット=パパセイの「アコーディオンのためのノクターン」、第二部は、アントニオ・マチャードが、内戦のさなかに殺された詩人フェデリコ・ガルシア=ロルカの死を詠んだ「犯罪はグラナダでなされた」、第三部はミゲル・エルナンデスの「民の風がわたしを運ぶ」。
※作者は1958年カタルーニャ州バルセロナ生まれ。大学で人類学を学んだのち、中学校の国語教師となる。1986年にカタルーニャ語で書いた児童文学作品で作家デビュー。スペインではスペイン語のほかに、地域によりバスク語、ガリシア語が使われていて、作者はカタルーニャ語で書いた作品のスペイン語版も自身で手掛けている。
※『訳者あとがき』によると本作の舞台は、スペイン内戦中の1938年の夏から秋にかけてのスペイン北西部。主人公は、カスティーリャ・イ・レオン州パレンシア郡のバルエロ村から、アストゥリアス州の州都オビエドの近くまで、標高千メートル以上ある険しい山岳地帯を旅する。
※時代背景:1936年7月、労働者や民主主義的な市民層などが支持する共和国政府に対して、ファシスト的な軍部が反乱を起こし、スペイン内戦が始まる。反乱軍は多数の都市をいっせいに攻撃して支配下におさめる。民主主義を守ろうと、アメリカやフランスなど外国から駆けつけた人々が共和国側の義勇軍として戦った。だが、ドイツとイタリアのファシズム政権の支援を受けた反乱軍は強く、最後は共和国側が降伏し、1939年4月に反乱軍側が勝利宣言をして内乱は終結。1975年まで、反乱軍を率いたフランコ総統による独裁が敷かれる。
お母さんと妹たちが頭を丸ぼうずにされて、ヒマシ油を飲まされた
※下痢を引きおこすヒマシ油を飲ませることは、拷問の一つだった
「女の子だったから、エスペランサ(スペイン語で「希望」の意味)って名前にしてくれ、って言ってやった。」
書名:二壜の調味料
原題:The Little Tales of Smethers and Other Stories
作者:ロード・ダンセイニ(アイルランド作家)
出版:ハヤカワ・ミステリ文庫
内容:「わたくし」ことスメザーズは、肉や塩味料理にかける調味料ナムヌモのセールスをしている小男。彼がロンドンのフラットで同居することになったリンリーという青年は、頭脳明晰だった。スメザーズはあるとき、殺人を疑われている男がナムヌモを二壜買ったという新聞記事を読んで興味を持つ。スメザーズは夕食の席で、警察が解決できないでいるこの事件についてリンリーに話す。金を持っている若い娘の家で男が同棲を始めたが、数日後に娘の姿が見えなくなり、同時期に男が金を手に入れていた。村の巡査は男を疑い監視するが、死体は発見されない。菜食主義になった男は外出せず、家の庭にある木を切り倒し薪の山を作るが、それを一本も使わない。リンリーは男が買った二壜の調味料の手がかりから恐るべき真相を見破り警察に電話する……【二壜の調味料】。警察に依頼された怪事件を解決するリンリーの功績をスメザーズが語る9篇のシリーズ短篇を含む全26篇を収録。巧みに盲点をついたパズル小説、犯罪小説、スパイ小説、読者に判断を委ねるリドル・ストーリー風の小説、インドを舞台に土俗宗教を扱った小説、さらにはSFや幻想小説の領分に踏み込んだ小説もありヴァラエティ豊かなミステリ短篇集。
※原書初版1952年
※表題作『The Two Bottles of Relish』の初出は1932年11月の『タイム・アンド・タイド』誌
※作者の本名はエドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット。ダブリン郊外に中世から建つダンセイニ城を居城とする男爵家の第十八代当主で、貴族の称号を筆名とした。1878年生まれ、1957年没。英国のイートン校及びサンドハースト陸軍士官学校を卒業し、ボーア戦争と第一次世界大戦に従軍したが、人生のかなりの時間は趣味に費やされた。特にチェスは、当時の世界チャンピオンと引き分けたこともあるあるほどの腕前だった。幻想小説の作品で知られるが、1930年代以降は作風に変化が見られ、幻想的・神秘的な色彩は薄れて、より現実的な世界を舞台にした小説を書くようになり、本書にまとめられた短編ミステリなどが書かれた。作者のミステリ作品は本書一冊のみである。
死番虫(しばんむし:木材や古書を食い荒らす虫)
書名:戦国の娘詐欺師 信長を騙せ
作者:富田祐弘
出版:廣済堂出版
内容:永禄十一年(1568年)十二月十二日、信長に敗れたあと衰えた今川家、その領地・駿河(するが)にある村が甲斐・武田軍に焼き討ちされた。七歳の少女・鶴(つる)は両親を殺され、兄姉とも離れ離れになる。雑兵に追われた鶴は川を泳いで渡り、対岸の葦の繁みで男に抱きとめられた。八年後、天正四年(1576年)の春、織田信長は近江の琵琶湖畔にある安土に城を築くために移る。越後の上杉謙信の侵攻に備え、摂津石山本願寺の攻撃拠点とし、さらに京都に上るのにも便利な場所として選んだのである。築城で賑わう安土には、さまざまな人々が集まった。十五歳の娘に成長し、騙(だま)し人となった鶴もその一人である。化粧や衣装で幼子から年増に姿を変える鶴は、騙し人の一味を率いる老人・元斎(げんさい)に従い、さまざまな手法で銭を騙し取っていた。元斎一味は京都の商人たちに声をかけ、安土城下の土地を偽の譲り状を使って売りさばき大金を騙し取る。この仕掛けの後、一味の騙し人・弓太郎(ゆみたろう)は三人の荒くれ者に追われる。地獄の辰、火炎の世作、闇夜の風と呼ばれる三人は京都の商人に雇われたのだ。三人は騙し人の隠れ家を突きとめ、一味の財産を奪おうと目論む。弓太郎は三人に襲われながらも騙しの技で窮地を切り抜け、鶴を連れた元斎と合流する。元斎は騙しの儲けを分配すると、追っ手を気にして各自に別行動を取らせる。鶴は京都へ赴いて一味の偽三郎(ぎさぶろう)と合流し、侍の兄妹に扮して宿をとる。そして元斎扮する老侍と新たな騙しに掛かる。実は鶴は戦で家族を失った心の傷から侍が恐くて仕方ない。ときどき元斎に侍の気配を感じて恐怖を抱く鶴は、老人が手下に信長の動向を探らせていることに気付く。鶴は欲の渦巻く乱世を流れ歩きながら腕を磨き、戦の元凶である侍を憎み、その頂点に立つ信長に騙しを仕掛けようとするが……。騙し人として乱世を生き抜く美しい娘・鶴の活躍を描く戦国絵巻。
寺院の浴堂では白布の衣をまとって湯に入らなければならない。素っ裸のまま湯に入った時に人と人の肌が触れ合い、風紀衛生上に悪いからだ。それゆえ寺院の湯堂では明衣(みょうえ)と呼ばれる白布の衣を身につけて湯に入る。その風習が貴族にも伝わり、やがて庶民にも拡がった。それが湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれ、後の浴衣となっていった。
一方、男たちはいちいち湯帷子を身につけるのは面倒であり、代わりに湯褌と呼ばれる白い晒(さらし)の六尺褌を下腹部に巻くようになっていった。
鶴は用意された麻布の湯帷子を身に羽織って中に入った。湯殿内は湯気が立ちのぼっている。京都の町湯は蒸し風呂がほとんどだが、ここは違っていた。端に鉄製の湯釜が備えつけられ、中央に湯槽があった。板塀の向こうから樋が通され、その樋を伝って外から湯釜に水が流れ込んできている。湯釜に溜まった水は程よく沸かされているのだろう、細い竹筒を通って湯槽に注がれている。
悲田院(ひでんいん)は身寄りのない幼子、貧窮の病人、孤独な老人を収容する救護施設だ。悲田とは<慈悲>の心で施せば福を生み出す<田>となるの意味がある。仏教の慈悲の教えに基づき、聖徳太子が四天王寺の四箇院の一つとして建てた。その後、養老七年(723年)興福寺に施薬院・悲田院の二院を設けた光明皇后。さらに鎌倉時代の忍性(にんしょう)が民間の慈善事業として各地に悲田院などを設けたことが知られている。
干飯(ほしいい)は蒸し上がった米飯をばらばらに散らして広げて二日ほど陽に干す。一粒一粒の米から水気がなくなったら袋に入れておく。それを袋から摑みだし、よく嚙んで食べるもよし、しばらく水に浸して粥のようにして食べるもよし、旅する者にとって重宝な携帯用の保存食であった。
赤不浄とは血の穢れのことである。女が出産や月経で血を流すのは不浄とされていた。一方、死穢(しえ)を黒不浄と呼ぶ。(略)血は人の命にとって大切なものであり、体内に宿る神聖な霊だと思われた。(略)
この時代、さわりの始まった女たちは家で暮らすことが許されない。しばらくの間、村外れに建てられた月小屋で暮らさなければならない。食事も別、井戸の水汲みも別にされてしまうのだ。
書名:どれい船にのって
原題:The Slave Dancer
作者:ポーラ・フォックス(アメリカ作家)
出版:福武書店
内容:ジェシ・ボリャーは、米国・ニューオリンズで暮らす十三歳の少年。河川の仕事をしていた父はジェシが四歳の時に亡くなり、お針子の母が女手ひとつで兄妹を育ててきた。1840年1月終わりのある夕方、市場で笛を吹いて小銭を稼いだジェシが帰宅すると、母の徹夜仕事に必要なロウソクを分けてもらいに父方のおばさんの家へお使いに出される。帰り道の狭い路地で、ジェシは頭から帆布をかぶせられ船乗り二人に誘拐される。運ばれた先で帆布をとりのけられたジェシが船乗りの顔を見ると、川岸の市場で笛ふきの駄賃をくれた船乗りだった。帆船『月光号』に乗せられたジェシは船員たちに紹介される。船は奴隷を密貿易している海賊船だった。アフリカのベニン湾・アイダ沖まで航海して奴隷を買い、キューバでスペイン人に奴隷を売ってラム酒用の糖蜜を積み込んでチャールストン港に戻る四カ月の船旅だという。やがて恐い悪党のコーソン船長と腰ぎんちゃくのスパーク航海士の前に連行されたジェシは、航海中に黒人を踊らせるために連れてこられたと知る。黒人を死なせないように運動させるのだという。黒人がいない往路ではジェシはさまざまな雑用をこなすことになった。ジェシは親切にしてくれる船員スタウトよりも、自分を攫った船員パーピスと仲良くなる。それを不可解に思っていた時、スタウトが盗みの罪をパービスに着せるという事件が起きた事で、ジェシは自分だけでなく皆がスタウトを嫌う理由が分かった。厳しい航海に慣れていくジェシだが、目的地に到着して黒人が乗船してくると過酷な状況を目撃することに……。少年の視点から奴隷貿易を描く歴史小説。
※原書初版1973年
※時代背景:『訳者あとがき』によると、アメリカは1775年の独立戦争をきっかけに博愛平等思想が広がり、奴隷制度反対の気運も生じる。そのため1788年の憲法制定にさいして、二十年後に完全に奴隷貿易を禁止する決定がなされた。しかし綿繰(わたく)り機が発明されて綿花が南部にとって重要な農産物・輸出品になるにつれて、綿花農園での働き手である奴隷の必要度も増し、奴隷制度はかえって強固になっていく。その結果1808年になっても、奴隷貿易は実際には廃止されるには至らなかった。このとき百万をこえた奴隷が、1860年には四百万にまでなっていく。そして1865年に終わった南北戦争後に、奴隷制度は廃止されることになる。一方イギリスでは、1807年に奴隷貿易を禁止する。またキューバは当時、まだスペインの植民地で、独立するのは十九世紀末のこと。
「ジェシ・ボリャーです」
「きいたこともねぇ名字だな」
「もともとはボリュでしたが、父さんが、フランス人だと思われたくなくて変えました」
「なるほど、おまえはフランス系クレオール人のひとりってわけか」
「フランスからきたのは祖父だけでした」
「ついてきなよ。用がたしたくなった時の場所へ案内するから」
船のへさきまでついて行った。へさきから格子状の板がつるしてあり、その板にのった時つかまるための、二本のロープがたれていた。船が波でゆれうごくたびに、そのロープの端がゆったりと、格子になった板をかすっていた。
書名:魔法使いの失われた週末 (株)魔法製作所 短編集
原題:Owen Palmer's Lost Weekend of Poison, Potions, and Pizza and Other Stories
作者:シャンナ・スウェンドソン(アメリカ作家)
出版:創元推理文庫
内容:株式会社マジック・スペル&イリュージョン(魔法・呪文&めくらまし:(株)МSI)は、ニューヨークの魔法界で魔術を開発販売する会社。最高経営責任者(CEО)は伝説の魔法使いマーリンだ。シャイで赤面症の研究開発部理論魔術課の責任者オーウェンと養母グロリア。素直に愛情を表現できない二人のぎこちない交流を描いた表題作は、『ニューヨークの魔法使い』エンディング直後のエピソード【魔法使いの失われた週末】。1993年、大学三年のロッドは、魔法使い専用の学生寮内に存在する秘密結社に入りたいと考えていた。そんなとき秘密結社のリーダーがいたずら用の魔法をオーウェンに依頼する。新規入会者のイニシエーションに使うのだろうと予測したロッドは、乗り気でないオーウェンのノートから魔術を暗記し、勝手に古典的なカエルの呪いを改悪した魔術を作り上げる。さっそく秘密結社のリーダーに接触するが、ロッドはカエルの魔術を掛けられてしまい……。(株)МSIの人事部長ロッドとオーウェンがイェール大学の学生の時のエピソード。【スペリング・テスト】。(株)МSIの警備部長を務めるガーゴイルのサムの日常を描くハードボイルドな短篇【街を真っ赤に】。同じくサムの視点で描かれる『ニューヨークの魔法使い』の冒頭数週間前に起きたプロローグのような出来事【犯罪の魔法】。シリーズのスピンオフともいえる初の短編集。日本オリジナル版。
※初版2022年
※(株)魔法製作所シリーズの時代設定は一作目『ニューヨークの魔法使い』が出版された2005年。以降、シリーズはその時間軸に基づいて展開する。
<収録作品>
スペリング・テスト:初出は作者のニュースレターで配信
街を真っ赤に:初出は電子書籍
犯罪の魔法:初出は電子書籍
魔法使いの失われた週末:作者のハードディスクに眠っていた作品に加筆修正したうえで初収録。本国でも未発表の短篇。
ロッド:ロドニーの愛称
ナット:ナターシャの愛称
デックス:デクスターの愛称
「まさに、干し草の山から一本の針を探し出すってやつだわ」
書名:超高速!参勤交代 老中の逆襲
作者:土橋章宏
出版:講談社 らくらく本
内容:江戸時代、八代将軍・徳川吉宗治世下。享保二十年(1735年)、幕府の老中・松平信祝(のぶとき)の画策により、「五日で参勤せよ」と命令された陸奥国磐城(いわき)湯長谷(ゆながや)藩。藩主・内藤政醇(まさあつ)は少数精鋭の家臣を率い、雇った忍び・雲隠段蔵(くもがくれだんぞう)の道案内で最短距離の山中を駆け抜け、参勤を成し遂げた。八代将軍徳川吉宗は、この参勤騒動によって不正と陰謀が暴かれた松平信祝に蟄居(ちっきょ)を申しつけた。幕府の疑いを晴らし吉宗に誉められた政醇は、家臣たちと領国への帰途につく。だが、信祝は野心を諦めておらず、ひそかに尾張柳生家に裏仕事を依頼する。そうと知らぬ政醇は、水戸街道にある牛久(うしく)宿に滞在していた。飯盛り女のお咲を身請けするためだ。だが、政醇が用意した金子(きんす)では足りず、家臣たちが道場破り、賭け碁、板前仕事、矢場、猿回しなどで銭を稼いでいた。一方、日光参詣で将軍が不在の江戸では、幕閣の要人が立て続けに暗殺され、信祝が老中の職に返り咲く。さっそく信祝は恨みを抱く湯長谷藩に新たな沙汰を下す。沙汰を受け取った湯長谷藩江戸留守居役・秋山平吾が慌てて主君に伝えに走ると、ちょうどお咲を無事に身請けした政醇は、家臣たちと祝いの宴を開いていた。そして、「湯長谷藩はあと二日のうちに交代を終えよ」という命令に仰天する。行きは参勤、帰りは交代。二つあわせて参勤交代。湯長谷藩はいまだ交代を終えていない事を、信祝はついてきたのだ。しかも参勤の時の倍の速さで進まなければならない。帰り着かねば藩が取り潰しになる。さらに信祝は湯長谷藩に江戸城天守閣再建の手伝い普請(ふしん)の沙汰を下すという。とても小藩に負担できる規模の普請ではない。政醇たちが再び藩存亡の危機にさらされている頃、江戸城では満身創痍の忍者が目を覚ます。記憶喪失の忍者は「月影」と名付けられ、内藤政醇の暗殺を命じられる。さらには信祝との密約で湯長谷藩を狙う尾張柳生の七本槍の姿が……。波乱万丈の参勤交代活劇。
※2015年出版
書名:超高速!参勤交代
作者:土橋章宏
出版:講談社 らくらく本
内容:江戸時代、八代将軍・徳川吉宗治世下。閉所恐怖症に悩む二十五歳の内藤政醇(まさあつ)は、陸奥国磐城(いわき)の小藩・湯長谷(ゆながや)藩の藩主。享保二十年(1735年)初夏、湯長谷に帰国したばかりの政醇のもとへ、江戸に居るはずの家老・瀬川安衛門が飛び込んできた。「本日より五日以内に江戸へ参勤せよ、との上様からのお達し」を聞き、政醇と家臣たちは驚愕する。江戸家老の瀬川が調べたところ、どうやら老中・松平信祝(のぶとき)が公儀隠密の報告を受け、「湯長谷藩の金山の届出に偽りあり」と疑っているという。老中首座の地位を狙う信祝が、金山を奪って勢力争いの資金にしようと、湯長谷藩取り潰しをたくらんでいるらしい。政醇は家臣たちと話し合うが、石高一万五千石の湯長谷藩は三年前の享保の大飢饉より財政難である。それでも政醇は家臣と領民を守るために江戸に行くと決め、湯長谷藩の知恵袋と呼ばれる城代家老・相馬兼続(そうまかねつぐ)に策を求める。相馬は山中を走り抜けて野宿し、幕府・宿役人の監視のある高萩宿と取手(とりで)宿のみ日雇い中間を揃えて大名行列を組むという案を搾り出す。山中の道案内に戸隠(とがくし)流の忍び・雲隠段蔵(くもがくれだんぞう)を雇い、通常の参勤では家臣たち五十人以上のところを、政醇と六人の少数精鋭で湯長谷城を出発する。政醇は苦手な駕籠には飼い猿の菊千代を乗せ、自分は騎馬だった。だが、政醇を含む八人の一行をつけ狙う二人の公儀隠密がいた。高萩宿、政醇たちは水戸藩の行列と遭遇したが上手く切り抜ける。一方、江戸屋敷では政醇の正室・沙耶(さや)が離縁状を残して実家に帰ってしまい、政醇の妹・琴姫が薙刀(なぎなた)を手に怒っていた。琴姫は浪費家だった正室の持ち物を家臣に売らせ、軍資金を作って兄を待つ。高萩宿を過ぎて日雇い中間たちと別れた政醇たちは、段蔵の先導で山中を走り抜ける。その夜、野宿の準備をする一行を公儀隠密の二人が忍び寄るが、段蔵が現れ牽制する。段蔵は「道案内は牛久(うしく)宿まで。それまで待て」と要求し、力量が劣る二人は受け入れる。夕飯を食べた政醇は褒美として家宝の短刀を段蔵に渡し、単身騎馬で相馬が手配した牛久宿の旅籠・鶴屋に向かう。翌日、家臣たちとの待ち合わせ場所の宿に到着した政醇は、そこで接客が悪いと折檻を受けていた飯盛り女(女郎)のお咲を見つける。お咲を自室に呼んで介抱すると、「親に売られた」と打ち明けられる。政醇も占いのせいで親から離され、乳母から折檻を受けて育ったために狭い場所が苦手になったと告白する。政醇は按摩させただけでお咲を下がらせるが、二人の心は近づく。一方、政醇と別れた家臣たちは、土浦宿近くの廃寺で疲れ切って眠り込んでいた。だが、牛久を前に金を受け取った段蔵は夜更けに起き出し、ひとり廃寺から出て行ってしまう。その様子を隠れて見ていた公儀隠密の二人は、残された家臣たちを襲う……。お家と藩の存亡をかけた参勤交代活劇。
※2013年出版
書名:魔法治療師のティーショップ
原題:Tea and Empathy
作者:シャンナ・スウェンドソン(アメリカ作家)
出版:創元推理文庫
内容:無実の罪で逃亡中の魔法治療師エルウィンは体力の限界を感じていた。死に場所を探すことにしたエルウィンは、街道を外れ標識のない廃れた森の小道に入っていく。木立のトンネルを抜けると寂れた村にたどり着き、エルウィンは空き家を見つける。今夜はここで休もうと中に入ったエルウィンは、姿の見えない家政婦に料理を振る舞われ入浴や寝台を用意される。主を迎えたがっている治療師の家に違いない。衰弱し空腹だったエルウィンは、回復するまでの間のつもりで滞在する。翌日、エルウィンは金銭を得るため、庭で摘んだハーブをかごに入れて村のマーケット広場に向かう。人々の様子を眺めていると、エルウィンは声をかけられる。自分と同じ三十代半ばに見えるチーズ売りの女性に味見を頼まれたのだ。エルウィンはチーズにハーブを加えることを勧め、かごのハーブとチーズを交換する。「メア」と名乗った女性は、翌日エルウィンの滞在する家を訪ねてくる。エルウィンにチーズの試作品を味見してほしいという。隣家に住むメアは親切に村の不思議な事情を教えてくれる。小さな村リディングは、ある時期に村人の大半がいなくなり、城主も姿が見えなくなって久しい。それでいて村に必要な人を呼び寄せる力が働いているという。メアがお茶を飲んで帰ると、エルウィンはティーショップを開くことを思いつく。追っ手から隠れるためにも治療師として働くことは出来ないが、ハーブの知識を活かしたお茶を提供することができる。ティーショップは村の女性たちに交流の場として歓迎された。ただし、村を昔の状況に戻したい鍛冶屋の妻を除いて。エルウィンは天職である治療師の共感能力を用いて相手にぴったりのお茶を提供するうちに、次第に信頼され村の一員として受け入れられていく。だが、ある朝、裏庭で倒れている手負いの男を発見する。エルウィンは追っ手かもしれないと警戒するが、目覚めた男は記憶喪失になっていた。不安を抱えたまま、エルウィンは治療師としての誓いを果たすために男を介抱するが……。お茶と魔法と謎のコージーファンタジー。
ハーバリスト:薬草師
サシェ:匂い袋
書名:ぼくと1ルピーの神様
原題:Q and A
作者:ヴィカス・スワラップ(インド作家)
出版:ランダムハウス講談社
内容:「僕」ことラム・ムハンマド・トーマスは、インドのムンバイにあるスラム街ダラヴィに暮らす十八歳のウェイター。ある夜更け、トーマスは警察に逮捕された。理由は、クイズ番組で史上最高額の賞金を勝ちとったこと。まともに学校に通ったこともない孤児が難問すべてに正解するわけがないと、番組の制作会社がトーマスを訴え、不正の容疑で警察に連行されたのだ。警部に拷問されたトーマスは、不正を犯したという自白証書に署名を迫られる。そこに飛び込んできてトーマスを助けたのは、女性弁護士のスミタ・シャー。トーマスを自宅に連れ帰ったスミタは、真相を話すよう求める。トーマスは運良く答えを知っている問題ばかりが出てきたと明かす。無学な彼がなぜ正解できたのかとスミタは説明を求める。そのためにはトーマスの人生を知る必要があるという。彼が出演したクイズ番組『十億は誰の手に?』のDVDを二人で見ながら、十三の難問ごとにトーマスは人生を振り返ってスミタに語り聞かせる。インドの貧しい生活のなかでトーマスが死と隣り合わせで目にしてきた出来事――宗教対立、殺人、強盗、幼児虐待、売春など、現代インドが抱える様々な問題も明らかになる。
※原書初版2005年
※作者が外交官としてイギリス滞在中に本作を執筆し、まずイギリスで出版されたデビュー作。
※『訳者あとがき』によると、主人公の名前「ラム・ムハンマド・トーマス」は、かなり変わった名前。ラムは典型的なヒンドゥー教徒の名前で、ムハンマドはイスラム教徒の名前、トーマスはキリスト教徒の名前らしい。
ティラック:ヒンドゥー教徒が宗派の標識として額中央につける赤い点