読売、産経は今のところ社説で扱ってはいない。
どういう理由からだろうか。
(社説)道徳の教科化 多様な価値観育つのか
「道徳」が小中学校で子どもたちの学ぶ教科になる。中央教育審議会がきのう、その答申を文部科学相に出した。
これまでは教科外の扱いだったが、早ければ18年度にも格上げされる。戦前の「修身」が軍国主義教育を担ったとして終戦の年に廃止されて以来、70年目の大きな転換となる。
答申は、こう述べる。「特定の価値観を押し付けることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」。その通りだと思う。
では、教科にすることで多様な価値観が育つのか。かえって逆効果になりはしないか。その懸念をぬぐえない。
教材には検定教科書の導入が提言された。国がつくるより、民間が工夫したさまざまな教科書が使われる方が望ましい。
ただ答申は、教科書づくりのもとになる学習指導要領の記述を、これまでより具体的にするよう求めてもいる。細かく書きすぎると教科書も縛られる。
「正直、誠実」「公正、公平、正義」などのキーワードの明示も考えられるとした。だが規範や徳目を詰め込むより、何が正直で何が正義かを考える授業であってこそ意味がある。
文科省は今年、検定のルールを変えた。「愛国心」を盛り込んだ教育基本法の目標に照らして重大な欠陥があると判断されると、不合格になる。この運用次第では、かつての国定教科書に近づきかねない。
評価は点数制を見送り、コメントで記すよう求めた。だとしても、何をどう評価するかが問われるのは変わらない。
文科省が今年つくった教材「私たちの道徳」は、二宮金次郎らの偉人伝や格言を集めている。そんな物語から「正しい人間像」を説き、それを受け入れた場合のみ評価するのなら、思考を養うことにはなるまい。
答申は、学校や教員で格差が大きいといった現状を改めるためにも教科にしたいという。だが、それは運用で解決する話ではないか。重要なのは教科化という形ではなく、何をどう教えるかという授業の中身だ。
答申は情報モラルや生命倫理など現代の課題を扱うことや、対話や討論の授業も求めた。ぜひ進めてほしい。そうなると、シチズンシップ(市民性)教育や哲学に限りなく近づく。
生の社会で価値判断の分かれるものこそ、格好の素材だ。そのために教員にはテーマを選ぶ自由がなければならない。
決まった教科書を使っているかどうか、国がいちいち調べているようでは困る。挑戦を応援する姿勢こそ必要だ。
「朝日新聞」社説より転載
社説:道徳の教科化 子供の何を見守るか
この中央教育審議会の答申を受けて文部科学省は学習指導要領改定などを急ぎ、2018年度にも検定教科書で授業を始める。
何のための教科化か。
複雑な内面の問題とも向き合う道徳は、押しつけ的な「規格化」や、一定の価値観などが物差しになりがちな「評価」はなじまない。私たちはこう疑問を投げかけてきた。懸念はぬぐえない。
今は「教科外活動」の道徳は、教科ではないから、検定教科書も成績評価もない。授業は週1回が通例だが、学校によって取り組み度合いに開きがあり、実際には他の教科の授業などに充てられているところが少なくないと指摘されてきた。
11年の大津市の中学生自殺事件など学校の深刻ないじめ問題が注目され、道徳教育の不十分さが背景にあるとも論じられ、今回の教科化議論へとつながった。
いわば「格上げ」によって道徳教育を「軽視」されない、実効あるものにしようという考え方である。
もしそれが一律実施を促したり、チェックしたりするためなら、中央統制的な空気で一線の先生たちは息苦しさを感じるだろう。
答申は、特定の価値観を押しつけたり、言いなりに行動するよう指導したりすることは道徳教育に全く反するとし、多様な価値観と向き合い考える力が大事だと強調する。
また、ネット時代の情報モラルや生命倫理など、今日の社会問題をテーマに取り入れることも提言する。難しい面もあるが、子供たちを引きつけ、考えさせるだろう。
評価は必要だろうか。
答申は、道徳に数値的評価、つまり点数化して成績序列を作ることは否定しており、総合的な観点での記述式となる。まだ具体的ではない。
だが、学習指導要領や検定教科書の大枠内で、多様なテーマ設定や独自の取り組みはどこまで可能か。評価も、ただ理解・態度の「達成度」を比較して測ることにはなじまないはずだが、つい「いい子」度合いを尺度にしてしまう懸念はないか。
内面にさまざまな課題を抱え、支援を必要とする子供たちを見守り指導する先生は多い。その記録は、評価よりも、同僚の先生や家庭などと分かち合う情報やヒントとして生かすことが大切ではないか。
今の時代に根差し、グローバルな視点で新たな道徳教育をという理念には賛成だ。
そのためには、できるだけ枠をはめず、多様で独自の工夫を生かした取り組みができるようにしたい。
「毎日新聞」社説より転載
国定教科書を押しつけて、子どもたちに愛国心をうえつけた「修身」教育の復活だ。
愛国少年が多数誕生し、「天皇陛下の為に命を捧げます」と決意して、多くの若い命が戦場に散っていった。
その時から70有余年、戦争を知らない子どもたちがほとんどを占めるような時代に再びの復活。
大体グローバル時代に対応するには、多様な価値観や生き方を許容しなければならないと思うけど、画一的な価値観の押しつけでそれが可能なのか。
偏屈なナショナリズムに固まったガラパゴス子どもたちばかりで、世界に飛びたてるわけがない。
そして子どもたちに「道徳」を押しつけようとする政治家や大人たちはそんなことをする資格があるとも思えない。
小渕優子や松島みどりの例を持ち出すまでもなく、どうしようもない連中たちにこそ真の「道徳」教育が必要なのではないか。